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明日へ向かって 34

 薬物動態研究所の連休は、質量分析計の停止とともに迎えられる。
 いまや薬物動態研究には欠かせない質量分析計は、紫外吸収のような他の検出方法に比べて、かなり選択性の高い分離分析が可能となるため、医薬品研究のみならず、様々な研究分野において必要不可欠な装置となっている。質量分析は、高真空状態で測定する必要があるため、装置には飛行機のタービンのようなターボ分子ポンプが搭載されている。ターボ分子ポンプが絶えず回り続けることで装置内の空気を吐き出し、装置内の真空状態を維持しているのである。そのため、装置内をクリーニングするには、真空を解除する必要がある。だが、一度装置を停止してしまうと、測定に最適な真空状態にするまでに二日から長くて一週間近くを要する。そのため、装置を休めるときはゴールデンウィークやお盆、年末年始といった長期休暇を除いて他になかった。機器室内の装置の運転を停止するとターボ分子ポンプのキーンという音が一斉に止まるため室内には静寂が訪れた。
「さてと、もうこれでいつ帰ってもいいな」冗談めかして長原が希美に言った。
「いえ、まだ装置のクリーニングが残ってますから」
「ああ、そうやったな」
「でも、私やっときますよ」
「いや、せっかくやし俺も手伝うよ」
 長原は質量分析計のプローブを外し、さらに奥のプレートを二枚取り外した。開放系になった空洞の奥から円錐形のパーツを引き抜いた。
 さらにその奥にはアナライザーといわれる質量分析計の心臓部たるクワドロ・ポール(四重極)が並んでいる。かつて長原はこの四重極まで分解してメンテナンスした経験もあったが、最近では通常オペレーターがメンテナンスするのは、四重極の手前までだった。
「しかし、年々うるさくなっていくな」
 聞き返さずとも、榎本部長の話のことだと分かったので、希美はそうですねえ、と一言だけ返した。装置のメンテナンスをする手を動かしながらも、長原はある話をし始めた。
「こないだテレビで見たんやけど、海外のとある鉄道会社では秋に落ち葉が舞う時期になるとダイヤが改正されて枯葉の形をした時刻表が配られるそうや」
「へえ、何かおしゃれですね」
「単なるおしゃれではなくてな、ちゃんと意味があるんやけど分かるか?」
 希美は少し考えてみたが、何も思いつかなかったので首を横に振った。
「枯葉がたくさん線路に落ちると通常通りのダイヤは組めないから少し時間にゆとりを持ったダイヤに変更しますって意味があんやで」
「ええ、そうなんですか!?」
「日本ならありえへんやろ」
「ですね。たぶん鉄道会社に苦情が殺到しそうです」と言いながら、希美は、落ち葉をせっせと片づける鉄道員を思い浮かべた。
「そう、海外だとそれがあらかじめリスクを提示しておくことが重要なわけや。あらかじめ提示されたリスクについては素直に受け入れる文化ということなんやろうな」
「うーん、どっちもどっちというか。結局、お客さんに諦めてもらうことになってるみたいな感じがして違和感があります」
「俺かて何も海外がすべて正しいとも思ってへんで。けど、もう少し海外の考え方も見習った方がええように思うねん」
「インフォームドコンセントなんかそうですもんね」
「そういうことや」

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