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明日へ向かって 73

 春を過ぎると急に日が長くなった。日差しも日を追うごとに強くなった。景色はさっと絵の具をこぼしたような緑に咲き、虫たちが地面から這い出る音が聞こえそうなほど、自然に活気が漲っていた。
 初夏のある午後、その知らせは突然、高津製薬の薬物動態研究所にもたらされた。
 昼間に臨時ミーティングが開催されるとの連絡があり、一同は居室に集まった。そこへ本社から本部長の多喜田が居室へ現れるや、その場は只ならぬ緊張感に包まれた。
 本部長が研究室の居室にまで出向いてくるのは、異例のことである。そこで多喜田の口から、合併後の高津三河製薬の薬物動態研究部門が、現在静岡にある三河製薬の研究所に統合されること、現在の高津製薬大阪ラボは、高津三河製薬の医薬品製造部門、いわゆるCMCを統括する研究拠点として生まれ変わることが発表された。
 それが何を意味するのか。そこにいる誰もが容易に理解できた。それは薬物動態研究所大阪ラボの閉鎖を意味していた。今大阪にいる薬物動態研究員全員に対し、静岡への異動を言い渡されたのも同然であった。居室は水を打ったようにシンと静まり返っていた。
「いまのところまだ大まか方針が決まったところですので、詳しいことはまたこれからの検討になります。いま何かここで質問ある方は挙手を」
 多喜田の声に誰も微動だにしなかった。では、これで終わります、と多喜田が終了を告げて立ち去るや、皆が口々に話し始めた。困惑や動揺も明らかに、ため息やシュプレヒコールにも似た声がそこかしこで上がった。
 そんな中、長原ただひとりが黙って冷静に周囲をしばし見渡していた。
 薬物動態を続けることができるのであれば、場所なんてどこでもよかった。それより午前中からの実験の続きが気になっていた。さっと椅子から立ち上がると、背もたれに掛けてあった上着をひょいと持ち上げた。
「そろそろ、行こうか」と長原は、希美に声をかけた。
 今朝から酵素を用いた新たな実験を希美と二人で行っていた。驚きと動揺を禁じえない希美の表情がそこにあった。それを見て長原もようやく彼女の気持ちに気付いた。
 大阪の薬物動態研究所閉鎖は、社員である自分にとっては単に静岡への転勤を意味するだけだが、契約社員はどうなるのか。きっと彼女が静岡の研究所に行くことはないだろう。
 CMCの拠点となる大阪ラボに移れることも難しいに違いない。すなわち、大阪の薬物動態研究所閉鎖は、彼女にとって今の職を失うことを意味していた。
「森下さん」
 もう一度長原が声をかけると、はっと我に返るように希美が顔を見上げた。
「あ、すみません」
「そろそろ行こうか」
「はい」
 長原が歩くその後ろを、希美がついてくるのが分かった。長原は希美になんと声をかけたらよいのか分からなかった。二人とも無言のまま実験室へ向かった。
 啓大もまた大きなショックを受けていた。ひとしきり周りの雑談に交じり終えてからひとりになって、ゆっくりと頭の中を整理した。
 静岡に異動となれば、必然的にバンドを続けることはできなくなる。モスキートーンが東京へ進出するのであれば、そのときは自分がバンドを脱退するときなのかもしれないとは考えていたが、メジャーから声がかかれば百八十度その答えは変わる。まだ検討する時間は十分にあると思って結論を先延ばしにしていた。
 さすがにいままだ会社を辞めることはできないと考えていた矢先、静岡への転勤が決まった。たしかに可能性としては十分あったはずだ。ここ数ヶ月ほどラボではその話が持ち切りだったにも関わらず、どこかに落とし物でもしたかのように、その考えだけがすっぽりと抜け落ちていた。
 みんなに話さないわけにはいかない。聞いたらみんな何と言うだろうか。いや、それより俺はどうしたらいいのだろうか。会社を続ければバンドは辞めざるをえない。バンドを続けたければ、会社を辞めざるをえない。究極の選択が、まるで泥棒ように土足でずかずかと入り込んできた。
 いまこのタイミングでバンドを辞めるのも続けるのも苦渋の選択だった。啓大にはどちらも選ぶこともできない。大きな選択を前にただ息を呑んで見上げているしかなかった。

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