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明日へ向かって 57

 世話人会に参加して以来、希美の心境に変化があった。ひとつは、もうオープンディスカッションの参加人数くらいでは一喜一憂はしないということだった。たとえ参加人数が少なくとも、もう寂しいとは思わないことに決めた。
 長原と啓大がいてくれる、それだけで十分ではないか。最初は難色を示していた長原もいまは率先してミーティングを引っ張ってくれる。啓大も毎回楽しみにしていると言ってくれている。彼らがいてくれるだけで希美は満足だった。
 希美は、他にもいくつかの発見をしつつあった。それは、日頃の仕事の在り方と比べると、この活動はずいぶんと勝手が違うということだった。
 オープンディスカッションでの議論には、知識や経験はほとんど関係ない。サイエンスについて長原と議論するとき、そこにはそれまでの知識や経験が物を言う。少しでも込み入った話になると、長原の言っていることが分からなくなることに希美はよく遭遇した。
 たしかに人生経験が豊富な分だけ長原がオープンディスカッションで話す内容には重みもあれば説得力もある。しかし、それでも自分の考えと照らし合わせて、同じところと違うところを明確に分類することができた。その上で、自分の思いを打ち明けると、長原もそれに聞き入ってくれる。
 最初は、そんな場の雰囲気に少し気恥ずかしさのようなものもあったが、慣れればそれもまたどうということはなく、どんどんざっくばらんに話すことができるようになった。すぐに顔を赤らめてしまう癖こそ治らないものの、自分の気持ちを正直に打ち明けていくことが自分にもできるということがひとつの発見に値した。
 たしかに参加者が互いの立場を気にせずフラットな話し合いができる、というのはオープンディスカッションの目指すべき理想のひとつではある。だが、希美にとって、年齢も経験も違う人たちでここまで真剣な議論ができることに素直な驚きがあった。
 発見はもうひとつあった。集団的思考は継続するということである。風土改革を知るようになってからというもの、希美の目に向こうから情報が飛び込んでくることが増えた。一度アンテナが立つとそれまでは何気なく見ていた情報の中にも、風土改革のヒントになりそうな題材がいくつもあることに気付いた。
 それは希美だけでなく、長原や啓大にも同じであった。そうして三人のアンテナによってキャッチされた情報は、オープンディスカッションで共有され、またそれぞれが個々に考える時間と情報をキャッチするということが繰り返される。この繰り返しにより、三人による思考は継続していくことができる。
 まるで同じ映画を観てきた三人が感想を述べ合うように、それぞれが思い思いに語ることで議論が発展し、進んでいくのである。また、互いの意見を聞き合うことで自力では思いもつかないような発想に辿り着くことも多かった。
 いつか啓大がオープンディスカッションのことをジャムセッションに似ていると語ったことがあった。ジャムセッションとは、いわゆる即興的な演奏のことで、予め決められた通りに演奏するのではなく、アドリブで自由なアレンジを加えながら曲を演奏することである。キーやリズムが合ってさえいれば、その時々のインスピレーションで自由に楽器を弾くことができる。そうしたジャムセッションの中から新しい曲が生み出されることもあるという。
 それを聞いた長原は、じゃあ、俺たちのは、オープンセッションって呼んじゃうか、と言って笑った。

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