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【12/17更新】Twitter小説「桜の花びらを踏みしめて」の制作秘話

【説明】Twitter連載小説「桜の花びらを踏みしめて」に関する制作秘話について連載と並行して執筆し、アップしていきます。

Twitter小説「桜の花びらを踏みしめて」を読みたい方は、こちらです。

▼ここから制作秘話の本編です▼

この小説を書き始めた当初のことを振り返ってみた。

記録をたどってみると書き始めたのは、2018年6月のことだった。

当時、私は、元編集者のMさんに小説のコンサルティングをお願いしていた。ちょうど短編小説「大切なひとを失ったときは」を完成させたところだった。

コンサルティングの期間は半年。短編を仕上げたところで一か月ほど期限が残っていた。そこで新たに書き始めたものがあるので見てほしいとお願いすると、Mさんは快く引き受けてくれた。

それがこの「桜の花びらを踏みしめて」だった。

先の短編を書き上げたときは、文学界に新たな風穴を開けたのではないかと思うほどの手応えがあった。

しかし、とある地方文学賞に応募するも一次すら通らなかった。しかして、風穴が開いたのは私の自尊心だった。

その無念さがきっかけとなり初の電子書籍を出した。その経験がいまにつながっている。

「大切なひとを失ったときは」Kindle版

また、この2018年という年のとくに後半戦は、私にとってなかなかタフな出来事の連続だったこともあり、ほぼ事実を書き殴りnoteに公開した。

「さっさと失敗しろよ、このクソったれ!」

思わぬ小さなほころびから物語が生まれてくることは実に多い。

短編「大切なひとを失ったときは」もある友人に詫び状を書いているうちに小説へと変化していった。

書簡体で小説を書いたのは、このときが初めてだった。

私は、昔から手紙を書くのが好きだった。年賀状も中高生くらいまで一人ずつの顔を思い浮かべてイラストやメッセージをせっせと書いては送っていたほどだ。こちら側の想いなどまるで一方通行でしかなかったのだけれど。

「桜の花びらを踏みしめて」も同様に書簡体で書き始めた。書簡体は私にとても合っていた。いくらでも書けちゃうのだ。

ただ、書きかけの原稿を読んでいただいたMさんからは、これは誰が何のために書いたものかそこをはっきりさせないと手紙にしては長すぎて違和感がある、といったご指摘をいただいた。

同時期に友人にも読んでもらったのだが、登場してくる人物が全員最低などといわれる始末。

書簡体であることを自然なものとすること、登場人物には彼らの行動に納得性を持たせること。この二つが「桜の花びらを踏みしめて」を書き出した当初で浮き彫りになった課題であった。

だが、そのまま私はこの小説の続きを書くことから遠ざかってしまった。

小説を書き続けることは、それ相応の情熱と頭のネジを何本か飛ばすくらいの没入感がいる。

私は立ちふさがった壁を前に書く情熱を失った。そして、頭のネジを締め直して、また元いた普通の生活に戻っていったのである。

小説を書くときの情熱が失せてしまうのも急だが、それを取り戻すときもまた唐突だったりする。

私は、書簡体で書いた「桜の花びらを踏みしめて」の原稿を脇に置いておくこととして、まったく別のところからこの物語を始めてみることを思いついた。

おそらく2021年のことだったと思うが時期は定かでない。

書簡体では、父から子へ向けた手紙として書いていた。そこで今度は子の視点からの物語として書いてみることにしたのである。

私は、書き始めるにあたり、ひとつだけ新たな試みに取り組んでみた。

登場人物たちの設定を簡単に決めたワード上に、それぞれのイメージに合う顔写真をインターネットから探してきて画像を貼り付けたのだ。

この方法は、「千里眼」などの著作で有名なベストセラー作家の松岡さんの著書に出てくるある手法に倣ったものである。

小説家になって億を稼ごう 松岡 圭祐(著)

その手法の詳細は、著作権のこともあるため、という表向きの理由で、ここには記載しないが、本当は説明するのがめんどくさいのと、何だったら私が金銭と引き換えに手に入れた情報をタダで不特定多数の方には教えたくないというのがホンネだ。

とはいえ、松岡さんの小説作法は、作家を志す方なら一度は試してみてほしい内容であり、またその他にも懇切丁寧に業界のことを書いてくださっているので、とても勉強になるのでおススメしておく。

少し脱線したが、登場人物の顔写真を貼ったワードをプリントアウトした紙は、いまも私の机の横にあるラックに縦横に並べて貼ってある。

だが、私が松岡さんから学んだこの手法に倣ったのはここまでで、他は全然守っていない。

私は、ひとから教わったことの半分も実践できない人間だからである。もうこれは物心ついたときからずっとのことなのでしょうがない。

教わったことをちゃんとできる人間なら、とっくの昔に読んだ最良の自己啓発本のひとつとされる名著「7つの習慣」をコツコツ実践していまではすっかり立派な大人になっているはずだ。

どんなに多くの書物から英知を得ようとも、いかに素晴らしいアドバイスをメンターから授かろうが、行動が伴わないヤツはずっと屑のままだ。いまの私のように。

無様な自虐ネタはこれくらいにしておいて、本題に戻る。

父が子に向けて書いたという書簡体で書き始めた「桜の花びらを踏みしめて」の原稿を一旦は置いておくことにして、その状況だけを活かして、今度は子の視点から物語を書いてみる、その試みはうまくいった。

子どもが大人になっているところから書き始めた。

子どもの名前を紘人と名づけ、彼が子を持つ親になっていて、ちょうど父である祐一を亡くしたところを物語の始まりとした。

書き始めてすぐに私は感触を得た。

小説を書く上で弾みは大事である。地面に置いたボールを小さく叩いて、震動を与え、少しずつボールが弾み始めて勢いが増してくるとどんどんボールは大きく跳ねていく。同じような状態を小説を書きながら作っていかなくてはならない。

小説に弾みをつけるにはいろいろな方法がある。ミステリーのようにいきなり死体が出てくるまではいかなくとも、ちょっとした事件から始めてみるのもいい。強烈なキャラクターの人物が派手に登場してくるのもいいだろう。

といいながら、私は小説を弾ませるのが得意ではない。得意ならもっとサクサク小説が書けるだろう。悲しいことに私はほとんどたいていサクサク書けない。

最近はよく手書きで小説を書く。駅のホームや電車の中でポケットにしのばせたボールペンを取り出して、スマホケースや本に挟んだ書きかけの原稿を開いて手で書くのだ。

ちなみに私がポケットに入れているボールペンはこれだ。

私が会社を辞める時に後輩がプレゼントしてくれた。そんな素晴らしい後輩に感謝の念を忘れない私もまた素晴らしい。

だが、いくらいいペンを持っていようが、サクサク書けない。

私は、いつもほとんどペンを持ったままポツンと立っている。真剣に書こうとはしているが、何も浮かんでこない。次第に目も点になっていく。ちろっと何か書けたと思ったらもう降りる駅に電車は着いている。

まあでもこれでいいのだ。

別に私が小説をたったの一行も書けなくてもこの世にいる誰も困らない。誰の迷惑にもならないし、心配になって夜も眠れないひともいない。

ほとんど書けなくても、私もいまのところたいして困らないし、夜も眠れないなんてこともない。

だから、私はいつも書こうとはするが、書けなくてもいいからペンを握ったままじっくりと待つ。そこに必要な言葉が浮かんでくるまで。

3 

小説には弾みが大事だと書いた。これは、小説に限らず、どんな文章にもいえることだ。
 
弾みをつける方法はいくつかある。だが、もっとも効果的なことは、自分が楽しめるものを書くことだ。
 
楽しんで心躍らせながら文章を書くことができるのであれば、おそらく大抵のひとは、ほとんど苦もなく、いくらでも書けるのではないだろうか。
 
喜々として文章を書くもっとも手っ取り早い方法は、お酒が飲めるのであれば、酔っ払った状態で夜中に書くことだ。
 
何なら飲みながら書くともっといい。酔えば酔うほどに、酔拳ではないが、書けば書くほどにどんどんと悦に入って、自分が全知全能の神にでもなったような気分で書ける。
 
で、当たり前であるが、そのような酩酊状態で書いた文章には、ほとんど何の価値もない。
 
もし仮に酔った勢いで書き上げた小説なり、著書なりが、世間から大絶賛の嵐を受けるようなことがあったとしたら、あなたはたとえ一時的ではあったにせよ、天才なのかもしれない。
 
だが、そんなひとはこの世の中で一厘もいないだろう。
 
薬でラリッた状態で書いた文章や曲が世界から評価されるみたいなことは、万に一つあるかもしれないが、そんなものは、ラリッてる真っ最中のひとの話をまともに聞きたいと思うかとあなたに問うてみれば、すぐにわかることだ。
 
ひとつ誤解のないように書いておきたい。
 
私は、薬でトリップする行為そのものを否定しているわけではない。正直にいうと、そうした体験に憧れすらある。
 
若いときは海外で合法的にドラッグをやってみたいと本気で思っていた。でも、それは私にとって、サグラダ・ファミリアを見てみたいとか、バンジージャンプがしてみたいといった、ありしり日の思い出としての一葉である。
 
そうした貴重な非日常の体験としてのドラッグはありだとしても、それを日常にはしたくない、と私は思っている。
 
だから、というわけではないが、私は文章を書くときに酒は飲まない。正直に打ち明けると、一年に何回かは酔った勢いで文章を書くときもあるにはある。
 
だが、それはよほど大切な何かをたまたま酔ったときに思いついて、忘れないうちに書き留めるために書いただけのことだ。
 
文章に弾みをつけるためには、書くことを楽しむこと、という話からかなり逸れてしまったが、楽しいだけではダメという反証として、じゃあ酔ったときに書けばよいのか? ということについて述べてみた。
 
でも、これを書いているいまは楽しい。なぜ楽しいのか?
 
それは、誰にも読まれないことを承知の上で、何も気負うことなく、好き放題書いているからだ。
 
正直、小説なんて書いても、びっくりするほど誰にも読まれない。理由は、私のことなんて誰も知らないからだ。
 
たまに読んでくれるひとがいるが、それは私のことを何かで知ってくれて、なおかつ興味を持ってくれたひとである。
 
知っているひとといっても、私の知人や友人は読んでくれない。私の存在は認識していて、たまに連絡をくれたり、一緒に飲みに行ったりはしてくれても、私の書いた小説には興味がない。
 
だから、文章を書くことを単に楽しんでいるだけではダメなのである。
 
読まれないことは重々承知で、誰にも読まれなくてもいいから、自分が本当に大切だと思っていることを楽しんで書けばいい。
 
「桜の花びらを踏みしめて」もそんな気持ちで書いた。まだ書き終えてはいないから、書いているといった方が適切なのだが。
 
この小説を書きながら思った。
 
どうせ文学賞に出しても一次すら通らないだろう。きっと小説サイトに投稿したところで、誰にも読まれない。
 
だったら、「いっそTwitter小説にして実験的に発信してみよう」とある日、唐突に思った。
 
「桜の花びらを踏みしめて」を読んでくれた元編集者のMさんが、手紙としては長すぎるといった点も、Twitterでつぶやいていくなら、不自然ではなくなるかもしれない。
 
亡くなった父親からのツイートが続くというのはどうだろうか、などとアイデアがじわじわ浮かんできた。
 
それであれば、Twitter小説「桜の花びらを踏みしめて」で物語を投稿していくのとは別に、父親のTwitterアカウントも実際に作って投稿していくのはどうだろうか。
 
おもしろいと思う反面、ただそれだけのためにTwitterアカウントをわざわざ作るのはやりすぎなのではないか? とも思った。
 
それもあって、実際に父親のTwitterアカウントを作るまで一週間ほど悶々と悩んでいたように記憶している。
 
結局は、父親のTwitterアカウントを作ることにした。そうして、Twitter小説「桜の花びらを踏みしめて」で発信していきながら、並行して父親からのツイートもせっせと投稿していった。
 
祐一の息子である紘人は、父亡き後、父が大学からの友人であったアリシマの導きで、父のTwitterの存在を知り、物語りは、父のツイートへと引き継がれていく、という流れがこうして出来上がった。

<この続きはまた書き次第アップしてまいります>

読んでいただき、ありがとうございます!