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さっさと失敗しろよ、このクソったれ!

 私にとって、2018年は実にたいへんな年になりました。2月に人生初の骨折を経験しまして。小指の付け根をほんの少し折っただけなのですが、手が腫れてお箸を持つだけでも痛みが走りました。それでも週末の水泳はかたくなに続けたわけですが。7月に義父が他界しました。心不全でした。9月に今度は私の父が脳梗塞で倒れました。何とか一命は取りとめたものの、15分も呼吸が止まっていたため脳に重い障害が残り、のちに要介護5と認定されました。10月に47歳になった3日後、真っ赤な精液が出ました。11月には図書館で借りた本を紛失しました。その翌日には文学賞に投稿した小説が1次で落選いたしました。

 どれもが誰にでも起こりえるような平凡な不幸です。世の中を見渡せば、もっとたいへんなご苦労をなさっている方はいくらでもいらっしゃいます。あるコラムニストは57歳という若さでアルコール性の肝不全でこの世を去っていかれたことを新幹線のニュースで知りました。飲酒運転で人身が事故を起こしたアイドルのことをテレビで見ました。ネットニュースを調べていると、元アイドルが35歳という若さで孤独死されていたことを知りました。富良野の開拓者たちは、30年かけて開拓した土地を火山爆発によって発生した泥流で家屋と家族を失ったそうです。泥流は大量の硫黄を含んでいて、強い酸性を有しているので、そのような土では農作物を育てることはできません。開拓者たちの多くは次男、三男で実家に住む場所がないから富良野に来たんです。だから、いまさら帰るところもありません。そこで、彼らは丘に残るきれいな土を削り、泥流を埋めるという途方もない作業を繰り返し、何年もの歳月をかけて土地を再生しました。そうやって富良野のラベンダー畑が生まれました。新宿の歌舞伎町のとあるビジネスホテルにワンフロアを何年も不法に占拠しているヤクザがいたそうです。そのヤクザを追い払ってグループでトップの売上を成し遂げた女性支配人がいらっしゃいます。彼女は、日本刀をもって暴れるヤクザの前にも一歩ずつ歩み寄って、あなたに私は殺せないといい放ったそうです。

 もちろん少しはよいことはございましたよ。小指の骨折程度でしたので、毎年恒例の北海道スキーには問題なく参加できましたし、夏には55分間で25メートルを50往復も泳ぐという自己新記録を樹立しました。1次で落選することになった小説を夏前に書き上げ、達成感に酔いしれました。これまでの中で一番の自信作でしたから。毎週のように友人たちと楽しいお酒を飲み、いくつかライブも見に行きました。初めて武道館にも足を運びました。クィーンの映画に深く感動し、人生に新たな気づきを与えてくれた良書との出会いもありました。しかし、10月の誕生日を過ぎてからろくなことがありません。47歳がずっとこの調子では困ります。これはもう明治神宮へ行くしかないと思い立ちましてね。といっても、お詣りではありません。父のお見舞いに。

 父はひとりで長机を占拠していました。スタッフステーションの真横に特等席をこしらえてくださったのです。
 父は、私の顔を見ると無言でそっと縦細に口を開きました。よお、よく来たな、と顔がいっているようです。それから、小さな声で、韓国はこれから伸びるだとか、何かしらスケールの大きい話をしてくれるのですが、ほとんど聞き取れません。話しながら、ときおり伸びすぎた鼻毛が気になるのか、震える親指で穴に押し込んでいました。話は聞き取れたとしても内容が分からないので、適当なところでこちらが頷うなずいて見せます。そうするとそうか分かるか、というように父もうなずくわけです。何度も何度も小刻みに。

 はるばる大阪から来た弟を父のところへ連れて行ったこともありました。帰り道に弟は、「あんな子どもみたいになってしもうて」といいました。たしかに彼のいう通りです。
 9月に父が倒れて初めて見舞いに行ったとき、父が目を開けました。誰かわかる?と聞きましたら、父はたしかに頷いて、微かな声でヒロくんと私の名前を呼んでくれました。そのときは、ほっとしましたね。もうこれで大丈夫だと思いました。集中治療室で父は72歳の誕生日を迎えました。

 見舞いに行くとちょうどお昼の時間に遭遇することがよくありました。そんなときは、スプーンでごはんを口まで運んであげました。白いトレイに白い山と緑の山と茶色い山のごはんが並んでいます。黄色い山とかオレンジ色の山はフルーツです。最初のうちはスプーンで口に運んでもなかなか食べてくれませんでした。でも二、三度訪問するうちに、食べてくれるようになりました。それでも何口か食べると、もういいと言って首を横に振るので、「なんで、これおいしいんやで、もっと食べようよ」などと言って、スプーンを口に運ぶとしぶしぶ食べてくれました。たしかに弟のいうとおり、すっかり子どもに話しかけるような口調になっていました。

 弟と父の見舞いに行った帰りにはランチを食べに行きました。
「いつか僕らもああなるかもしれん」
 私がそういうと、そうやな、と弟がいいました。いや、お前の方が先にああなるよといいましたら、弟はへへへっと不気味に笑っていました。それから、2人でどうでもいい昔話をしました。エレベータで偶然一緒になった女の子3人組に弟が話しかけました。たいして会話は続きませんでしたが、道に出ると弟は、おとんから引き継いだんや、俺は誰とでも仲良くなれる、といいました。弟の土産は2つとも私が持って帰りました。どうやら弟は父にも土産を渡すつもりだったみたいです。

 100歳まで生きる人生設計をこれからはしなければならないそうです。11月に紛失した図書館の本で読みました。そこに出てくる1971年生まれの男性(私と同じ年です)に、これからどのような人生が待ち受けているか、いくつかのシナリオが書かれてありました。100年を生き延びるためには転職も当たり前、業種も異なる新たなキャリアにも果敢に挑戦しなければならないというではありませんか。早速行動に移してみました。
 とある転職サイトから一社試しに応募しましたら、3日で返事をいただけました。残念ながら条件が合わないため、これ以上の選考は進めることができないのだそうです。そのくせまったくこちらの見当違いな募集ばかり連絡を寄こしてくるのでたいへん迷惑な思いをしました。ずいぶんと頭が悪いのではないでしょうか。すぐさまサイトのサービスを停止いたしました。転職エージェントにもメールしましたが、なかなかご返事はいただけません。
 私は、バリバリ働く自分の姿を想像してみました。英語を流暢に話す私とか。お医者さんの先生と静かに談笑しながら研究を進めたりします。ときには新型装置の開発会議で腕まくりをして発注業者をまくし立てたりなんかもしますし、空港のロビーであわただしくワードを叩いたりもします。いまいる業界とは違う新たな世界ではばたいているという妄想をしばらく貪りました。
 いわゆる団塊の世代(ちょうど父と同じ世代です)は、ひとつのキャリアだけで一生を生きて行くことができましたが、これからの100年時代は違うのでしょう。父は転職しましたが、ずっとひとつのキャリアで生きてきました。

 父が私たち家族を捨てて大阪から東京へ出て行ったのは、ちょうどいまの私と同じくらいの年の頃でした。父が家を出て行ったとき、私は大学の4年生で、3年ほど付き合っていた彼女と別れて、大学1年生のときからずっと好きだった別の女性と付き合い始めたばかりの頃でした。結局、その彼女とは3か月で終わってしまったわけですが。ちょうどその頃、私は人生で初めて1週間ほど検査入院いたしまして、退院して家に帰るとその彼女からお別れの手紙が届いていました。そして、飼い犬が行方不明になっていました。ちょうど1か月くらい経ったある日、犬は家の庭にひょっこり戻ってきましたが、後ろ足に大きな傷を負っていました。太腿の内側が大きくえぐられていて、筋肉がむき出しになっていました。肉の表面は乾いていて生ハムのようになっていたのを覚えています。身体を横たえたまま、じっとこちらを見て、何かにおびえているようにひたすら小さく震えていました。

 落とした本は出てきませんでした。メトロの網棚に置いてきたように記憶しているのですが、いかんせん酔っていましたので、記憶が曖昧です。JRとメトロと西武の三か所の落しもの窓口を毎日のように訊ねて歩きました。ホームページからも問い合わせましたし、交番にも届けました。失くしてから一週間が経ったとき、諦めて新しい本を買い直しました。もちろん、図書館に弁償するためです。父から去年の誕生日のお祝いにもらった図書カードを使いました。何冊かの本と来年の手帳を買うとカードの残金はすべてなくなりました。
「使用済みのカードはこちらで処分しますか?」と店員に聞かれましたので、
「はい」と反射的に答えてしまいましたが、すぐに、
「いや、やっぱりもらいます」と訂正いたしました。

 AIが発達すると仕事がなくなるなどとよく言われます。レジのような仕事は確実になくなるでしょう。人間にしかできないクリエイティブな仕事とか、身体を使う仕事が残るのだそうです。ネットで調べがつくような情報は覚えなくてもよくなりますから、記憶力学習はなくなって、問題に対する解決力が求められるようになります。いつもその時々のシステムにマッチしていない落ちこぼれがいます。これからクリエイティブになれないひとは、身体を使うしかないのかもしれません。私にいったい何ができるのでしょうか。分からなくなってきました。

 左膝に水が溜まりました。原因は分かりません。ついには屈伸もままならないほどにまで腫れてきました。幸い大きな痛みはありませんが、ジョギングはやめて水泳だけをするようにしました。慎重に歩くので少し歩くのが遅くなりました。自分が急にずいぶん年を取ったような気分になりました。小さい字が読みづらくなりましたし、暗がりでは鍵の番号が分からないときがあります。3つ以上同時に何かをやろうとするとたいていひとつは忘れたりします。白髪はどんどん増え続けていますし、爪が割れやすくなりました。異様に長い眉毛が1本だけ生えるようになりました。病院にいる父を思い出しました。私もいつかああなるのでしょう。あと2、30年もすれば。全部白髪になって、地肌が透けて見えるくらいに頭が薄くなって、鼻毛が外にあふれ出すほどに伸びて、聞き取れても分からないようなことを話して、身体の自由はきかなくなって、誰かの手を借りなければひとりでは生きていけない子どものような存在になるのでしょう。義父のように心不全でパタッと亡くなる方がいいのかもしれません。自殺でもしない限り、誰も死に方や死ぬときを選べません。そう思うと、自殺にもたったひとつだけいいところがあるんですね。もちろん、まだ死にたくはありません。でも、この先何があるというのでしょうか。
 整形外科に行きました。薬で溜まった水を抜きましょうとお医者さんはいいました。

 転職エージェントはまるであてになりません。年齢的にもう難しいらしいのです。となれば、自力で何とかするしかありません。キャリアチェンジです。転職には人脈が大事といいますが、私には何もありません。頼りになりそうなひとに声をかけてみましたが、お茶を濁されました。話を聞いていただけそうな方は誰もいなくなってしまいました。途方に暮れてしまいました。
「どうやったら転職できますか?」何を質問してもいいといってくださった方がいたので訊ねてみました。
「自分で考えて行動するよりも結構周りが自分のことを見てくれているなんてことが結構あるんだよ。誰かが手を差し伸べてくれるようなときがね」
 でも私には誰もいません。いたとしても、迷惑をかけるだけなのではないでしょうか。自分に手を差し伸べてくれたような方に迷惑はかけたくないですよね?でもそうなってしまうのです。これが私の証しのようなものかもしれません。それが私のやってきたことの結果。思えばテストの点数もずっと悪かったです。何をやってもいつも負け組でした。

 これからは資本主義から価値主義に変わるのだそうです。本で読みました。資本主義はお金が経済の中心でしたが、価値主義では個人の持っている価値そのものが資産になる。つまりお金のような役割をするといいます。さて、私の価値とは何でしょう。
 くすんだ赤色をした精液がでました。まだどこかに古い血が混じっているのでしょう。

 薬はまるで効きませんでした。左膝の腫れはどんどんひどくなっていきました。膝小僧だけでなく膝の裏側までぽっこりと。こうなるとおそるおそるのろのろとしか歩けません。会社でずっと椅子に座っていると足がしびれてきます。だから、頻繁に立ち上がって辺りをうろちょろするようにしました。外に出ると肌寒いんですよね。よたよた坂を下って上がり、また下がります。花屋を通りすぎて神社を過ぎて古本屋の前を通り過ぎました。足は腫れて歩きづらいわ、風は冷たいわ。奥歯をぎりりと噛んで、クソったれとつぶやきました。

 友人と飲みに行きました。1次で落選した小説を読んでくれましてね。感想までくれました。本当にありがたいです。友人いわく、誤解を恐れずにいうと、暗くて救いがなくてねちねちしているのだそうです。
「3行読んだら、閉じたくなりましたよ。これはあかん、やばいやつやーって感じ!」
 それから2人でバカみたいに笑いました。

 次の日にまた重い足をひきずってと整形外科に行きました。9人待ちでした。中には座るところがありません。それで仕方なく廊下に出ました。ふいに隣に泌尿器科があるのが目に入りましてね。行ってみることにしました。

「ふう、精液に血が混じってるってことで」問診票を見てお医者さんがいいました。小柄でちょっと料理人みたいな感じに見えるお医者さんです。
「はい、一度真っ赤っかのがでて、それから一旦白くなったんですが、また最近少し赤みがかったのがでるようになって、ネットとかで調べるとよくあることなので気にすることないってのも見たんですが、いちおうと思いまして」
「そ、そうだね。そんなに珍しいことじゃないからね。あんまり続くようだと詳しく検査しましょうってことなんだけどね。じゃあ、こちらでズボンと下着を膝くらいまで下してあおむけに寝てください」
 いまから異常がないかを簡単に調べますねといいながら、お医者さんはナイロンの手袋をはめました。心がざわつきました。
 お医者さんはとてもつまらなさそうに私の睾丸を持ち上げてころころ調べ始めました。たしかに男にとって他人の睾丸をつまむほどつまらないことはないでしょう。お気持ちはよく分かります。産婦人科の方がよっぽどましかもしれません。きっとこのお医者さんも……。
「とくに異常ないですね。今度は前立腺を調べますので、膝を手で抱えてお尻を上に向けてもらえますか」
 思いもよらぬ展開になってしまいました。そういえば前立腺マッサージというのが巷の風俗にあると聞いたことがあります。ひとたびその快感を知るやもう普通には戻れないというそうで。じっと椅子に座っているだけでも射ってしまうような身体になってしまうのだとか。いや、本当にそんなことあるのでしょうか。もしかしてこの検査が、47歳にして私の新しい性体験の扉を……。
「ちょっと気持ち悪かったり、違和感あると思いますが、すぐ終わりますからね」お医者さんが私の肛門にグリースを塗りながらいいました。
「あ、はい」
 お医者さんの指が肛門からグイっと入ってきましたら、気持ちいいどころか痛いです。違和感ありありでしてね。お医者さんの指でグリグリ押されると、かなり気持ち悪くなってきました。あう……。こ、こんなものが本当に快感になるんでしょうか!?
「尿検査も前立腺も異常ありません。どうしますか?もう少し様子を見てはどうかと思いますが」
 人生初の体験と引き換えに安心をえました。

 整形外科に戻りました。MRIを撮りたいとお医者さんにいいましたら、近所の施設を紹介されました。自転車で十分ほどかかりました。MRIはとてもうるさくてえらく高いんですね。びっくりしました。財布の中身がほとんどなくなってしまいました。帰りにコロッケとハムカツを買いましたら財布の中身が10円玉と1円玉だけになりました。

 仕事で大失敗をやらかしてしまいました。取引先から電話で怒られ、メールでも苦情がしたためられてありました。御社との契約内容を改めるべきではないかと。ええ、大問題です。またやっちゃいました。今年の夏にも客をカンカンに怒らせて30分くらい耳元で怒鳴られ続けられました。みんな悪いのは私なんです。失敗したのは私です。最低な私です。小説の文章も上から目線だと言われたりします。文章にまで性格がにじみ出てしまうのですね。そんな小説ならたしかに一次も通るはずがありません。最低な上に愚かな人間だから仕事も失敗するんです。相手はカンカンになって電話でもメールでも怒りまくります。最低な人間だから何をしてもいつまでたってもうまくいかないのです。何をやっても、みんなに迷惑をかけて、お相手さんを不快にさせてしまうのですね。最低な愚か者に居場所なんて、ありません。ニワトリはPecking Orderといって突っつき順でヒエラルキーが決められているのだそうです。トップにいるニワトリは群の全員を突っつくわけです。ナンバーツーのニワトリはトップ以外の全員を突っつくことができます。そうやって序列が決まっていきますから、当然ながら最下位のニワトリは誰も突っつかずに全員から突っつかれるんです。トサカもよれよれでところどころ毛もハゲてる哀れなニワトリを想像してしまいます。もうちょっとしたら私の頭もハゲてくるかもしれませんね。

 病院に行きました。父は前より元気そうに見えました。鼻毛はあいかわらず伸びたままでしたが、髭はきれいに剃られてありました。震える左手で茶碗を抱え、スプーンですくって上手に自分で食べていました。すごい自分で食べられるようになったんやねと言ましたが、父は反応しませんでした。
「ヒロくん、仕事はどう?」父がいいました。
「この頃、何もうまくいかへんねん」と私が答えると、
「そりゃ、最初からうまくいくこたあないよ」と父がいいました。
「何でも最初からうまくいってったらなんもおもろないやんか」父がさもおかしそうにいいました。
「そうやね」
「世の中どこもかしこも失敗だらけやないか」したり顔で父はいいました。
「そうなんや」
「そうよ」

 夜中に目が覚めるようになりました。しかも3時前だったりします。仕方なく眠れない身体を横たえていましたら、たいていそのまま朝になることもしばしばです。たとえ眠れたとしても、暗くて救いようのない悲惨な怖い夢ばかり見るんです。若い娘たちが次々と陸橋から電車に飛び降りて自殺していく夢とか、友人夫婦がアル中になって離婚寸前の危機を迎えるという夢もありました。夢の中でも私はまるで何の役にも立たないただの傍観者でした。

 電子書籍を買いました。少しだけ心が満たされました。無料の本をダウンロードしました。それらを次々に開いては閉じていきました。
 ネットで転職を探しました。興味のあるところにいくつか登録しました。どうせまたダメだろうと思いながら。それでもねちねち探すしかありません。

 これからはマクドナルドのようなファーストフードで若者がバイトをしなくなっていくそうです。少子高齢化の影響らしいです。マクドナルドがおじいちゃんおばあちゃんの店員ばかりになるのですから、オイドナルドにしたらいいのではないでしょうか。なんてくだらないですね。最低です。最低な人間ですから、発想も最低なんですね。

 使わない知識を得てどうするのでしょう。何に使うのでしょう。毎日机にただ座って論文を眺めて昼間にほんのちょっとだけ学んで賢くなって、夜になれば酒を飲んでたくさん忘れてまたアホになって、脳みそが委縮して変なシミを作って、何がいいのでしょう。どこにも使わない知識を学んで何になるのでしょうか。「必ず女をイカせるテクニック69」とか、いまさら学んでも使うところがありません。使わない知識なんて意味がないじゃありませんか。意味がないものに興味なんてありません。興味がないところに生きる力なんて湧かないのではないでしょうか。生きる力がなければ精も出ません。昔はもっと違いました。やりたくてやりたくてしょうがなくて、爆発しそうだから射精したものです。いまはそろそろしておいた方がよいだろうくらいの気持ちでしています。ちょうどパソコンのデフラグをかけるように。今日の精液は白かったので安心しました。

 左膝の腫れは少しマシになってきました。MRIの結果を聞きましたら、半月板と靭帯の一部が損傷しているとのこと。でもこれくらいならたいしたことはない、スノボもしてもいいとお医者さんは言ってくれましたので安心しました。でも期待は禁物ですので、今シーズンの北海道スキーは行けるかどうか分かりませんと友人にメールしましたら、私も若い頃から水はよく溜まるので走れないが、山登りはできる。交通事故で皿の内側いっぱいに血が溜まったこともあった。交通事故は2度あってうち1回は生死をさまよったと返事が来ました。私の膝なんて全然たいしたことありませんね。

 フトアゴヒゲトカゲを買いました。10年前から飼っているギリシャリクガメと同居させました。フトアゴヒゲトカゲの名前を考えたりしました。リクガメはトカゲの尻尾の臭いを嗅いで噛もうとしました。トカゲはゲージの壁によく貼りつきました。ミルワームをパクッと食べました。トカゲのお腹は想像よりも柔らかく滑らかな感触でした。

 2か月に一度だけしか父の見舞いに行かなくなっていました。家族を捨てて出て行った父とはいえ、こんなことでいいのでしょうか。私は、薄情な人間です。最低で薄情な人間です。最低で薄情な愚か者だから、誰からも相手にされないのでしょう。父が私の顔を覗き込んできました。
「ヒロくん、おばあちゃんのこと覚えてるか?」
 父方の祖母のことを私は岡山のおばあちゃんと呼んでいました。
「岡山のおばあちゃんやんな、覚えてるよ」と私はいいました。
 そう答えると、父はそれきり黙りこくって、眉間に皺を寄せました。みるみる険しい三角の目つきになっていきました。父が怒ったときの顔です。エスカレーターで転んだおばあちゃんを助けなかったときも三角の目をした父に怒鳴られました。気に入らんのやったら、この家出て行ったらええんやで、父はいつもそう締め括りました。
「なあ、ヒロくん、コーヒーでも飲むか?」そういって父は遠くを睨みつけていました。

 日曜の朝はいつも父が珈琲の豆を挽く音で目を覚めましたものです。父が挽いた豆を引きだして木箱にふっふっと息を吹きかけるんです。やっぱそれした方がおいしいわ、と母がうれしそうにいいました。しばらくすると珈琲の匂いがリビングに充満します。父がジャズのレコードをかけました。土日は家族そろって晩御飯を食べると決まっていました。水炊きが多かったのですが、お腹を空かせてじっと鍋が煮立つのを待っているのが何とも辛気臭くていやでした。肉を食べすぎると怒られました。だから春菊と白菜以外を食べるようにしました。ネギがにゅっと飛び出して舌を火傷したことがあります。誰も笑いませんでした。

「日曜の朝は、いつもお父さんが豆を挽いて珈琲を淹れてた。ジャズのレコードをかけてた。土日の夜はみんなで鍋を食べた」私がいうと、
「ああ、鍋よくしたな」と懐かしそうな目をして父がいいました。

 すき焼き用の鉄鍋がわが家にはありました。父が肉を鍋に並べて豪快に砂糖をまぶしました。醤油をかけるともうもうと湯気が立ちました。ガス火のたこ焼き器もありました。父が手際よくマッチで火を点けました。小学校低学年のとき、うちで友達と遊んでいましたらお腹が減りましたのでたこ焼き器を押し入れから出してきて、父の所作をまねて火を点けて卵焼きを焼いたことがありました。帰ってきた母は腰に手をあてて友達と私を怒鳴りちらしました。母は酔っぱらった父を罵りました。罵られた父は母を殴りました。殴られた母は、気の済むまで殴りなさいと近所に筒抜けんばかりの大声で叫びました。父が母をひっぱたく音が部屋まで聞こえてきました。私は頭から布団をかぶりました。

「すき焼きもよくやった。たこ焼きも作った。ガス栓につなぐたこ焼き器でな」私がそういうと、
「あれな、まだあるよ」と父が自慢げにいいました。

 父が絵本を読んでくれたことがありました。しきりにミカンが食べたくなったので、ミカンミカンと連呼していましたら、もう読んでやらんぞと父に怒られました。野良の小犬がかわいくて家に持って帰ったことがあります。犬は布団におしっこをしたので母はカンカンになりました。当時住んでいた団地で犬は飼えませんでした。次の日に父と犬を捨てに行きました。虫かごの中でかまきりが死にました。カブトムシが死にました。カエルが石鹸箱の中で干からびて死んでいました。

「それが家族や」父がいいました。

 父と一緒に外で絵を描いたことがありました。母は私の絵の方がいいと褒めてくれました。父が運動会のリレーで走ってこけました。父がくわえていたパイプを外して珈琲をすすっていました。父と母の三人でジャズ喫茶にいました。父と母のまねをして私は首を横に小さくリズムを刻んでいました。青いコップのしずくと暗がりでトランペットが馬の嘶きのように聞こました。

「だからあなたも自分の家族を大切にしなさい」と父がいいました。

 転勤の話がでました。社内の他部署からのオファーです。まだこの会社で私を必要としてくれるひとがまだいたのかと驚きました。本当なのでしょうか。どこまでが本音でどこまでが建前でどこまでがお世辞なのか分かりません。この私に何ができるというのでしょうか。嘘つきにはなりたくありません。嘘はついても嘘つき呼ばわりされたくありません、誰からも。私はもうほとんど疲れてしまったのです。

 ネットで応募した会社から書類を送ってほしいと返事がありました。送った次の日に面接をしたいと返事がありました。本当でしょうか。まだこの私に面接をしてくれる会社がこの世にまだあるとは驚きでした。

 今年最後の出張に行って、今年最後の議事録を書きました。今年最後のプールに行きました。今年最後になるかどうかはまだ分かりませんが、精液はちゃんと白かったです。左膝の腫れはほとんどなくなりました。

 トカゲは私の顔を見るとこっちにやってくるようになりました。お腹を空かせてじっと私を凝視します。ピンセットでゼリー状の餌を与えました。トカゲの糞はアンモニア臭がきつくてリクガメの糞と比べるととても臭いです。レタスと小松菜をいつものトレーを置きましたが、リクガメはそっぽを向いたままでした。

 家を掃除しました。窓はどれほど拭いても完全にはきれいになりませんでした。着古した水着を使って網戸を拭いてみました。ナイスアイデアに思えましたが、あとで見るとまだいたるところに汚れがこびりついていました。サッシの溝も窓枠も拭きました。終わると爪の奥まで真っ黒になっていました。ゴシゴシ洗ってもほとんど取れません。掃除したのに雑然とした家の中はまるで変わらないんですね。母の実家で父が窓を拭いていた光景を思い出しました。祖母が、そげんなことせんでもええですから、と止めるのも聞かず父はひたすら窓を拭き続けました。私の父と母はいわゆる「できちゃった婚」だったのです。いまでは「授かり婚」というそうです。うまいこというものですね。母は父と出会った岡山で岡山のおばあちゃんが見守る中、私を産みました。

 久々に走ってみました。思ったより走れました。少し膝に痛みを感じたので池の周りは一周だけにしました。水面にはところどころ薄い氷が張っていました。弧を描いてカモが泳いでいました。晩御飯を食べました。酒を飲んだら眠くなりました。

 父の声がしました。
「おばあちゃんが倒れたのに助けにいかんやったんやて?」
 幼い私は無言のまま立ち尽くし、目をゴシゴシこすっていました。
「おばあちゃんはエスカレーターで転んで立ち上がれんから何度も、ヒロくん、ヒロくん、助けてって呼んでたのに遠くで見てるだけでちっとも行かんやったんやて?ヒロくんはおばあちゃんにいつもおもちゃ買うてもろてるやろ。そやのに肝心なときに助けに行かんやなんて、最低なやつのすることや!」父が声を荒げました。
 おばあちゃんが倒れた?エスカレーターで?私はそのときのことを必死に思い返そうとしました。でも、何ひとつ思い出せませんでした。もうええんよ、とおばあちゃんはいいました。テレビではレコード大賞が始まっていました。
 母の声がしました。
「かわいそうに彼に取らせてあげたらええのに、だって彼にはもう来年はないんよ」
 父が笑いました。
「賞はそんな感情なんぞで与えるもんではないよ」
 母がそばを湯がきました。そばが足りなくなったら素麺を湯がきました。父と母がテレビに合わせて歌っていました。大晦日は歌番組ばかりでつまらなかったです。早く年が明けて新春かくし芸大会が観たかったです。早くお餅が食べたかったんです。早く大人になってさっさとこんな家なんかおん出て、世の中で立派に成功して父と母を見返してやりたかったです。

 目を開けましたら、電気が点けっぱなしでひとりテーブルに座っていました。テレビも点けっぱなしでした。テレビの中は賑やかに年越しを迎えようとするひとで溢れ返っていました。やけに騒々しいです。本当に平凡でひどい一年でした。こんなのは二度とごめんです。クソったれ。最低です。最低な人間です。そうか、私が最低な人間だから、いろんなひとから袋叩きにあうのですね。それなら、このまま最低なままでいようと思います。最低で薄情で愚かな人間として生きていきましょう。ですから、足を踏まれて当然。間違っても相手の方を睨んだりなんてしてはいけません。最低な人間ですから。他人からなんと罵倒されようと仕方ありません。最低で薄情な人間にいい返す権利なんてありませんから。小説も落選したらいいんです。通るはずのないものを書いて、次から次へとシュレッダーにかけていくように捨てていったらいいと思います。面接も全部落っこちたらいいんです。望みのない履歴書と職務経歴書を準備して、ろくでもない提案書を携えて、最低な人間です、とにこやかに面接を受けましょう。たくさんのひとからがっかりされて、迷惑をかけて、耳元で怒鳴られ、電話やメールでもじゃんじゃん怒られたらいいんです。膝に水が溜まったからなんですか。赤い精液が出たからなんだっていうんですか。実にくだらない。最下層の薄情な人間なら、それくらいの仕打ちは当然でしょう。驚いても怖れてもなりません。ましてやうろたえるなんてもってのほか。めそめそ悲しむなんて一体全体何様のつもりなのでしょう。最低で愚かな人間がいちいち自分を憐れむなんておかしいですよね?
 私はこのとおりクソったれです。2か月に一度しか父を見舞わない最低な人間です。子どもの頃からそうでした。だって、エスカレーターで転んで助けを呼ぶおばあちゃんを見殺しにしたんですよ?クソったれで最低な人間以外の何者でもないではありませんか。そうですよ、クソったれで最低な人間ですから、生かさせていただいているだけでも感謝しろ!ってなものです。

 ほら、このクソったれ!ついにカウントダウンが始まったよ。

読んでいただき、ありがとうございます!