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明日へ向かって 61

 年明けの風土改革は、初の社外での活動となった。榎本の高校の同級生の勤務する病院を訪ねたのである。
 実は当の榎本自身も高校卒業以来ほぼ三十数年ぶりに彼と会うのだという。
「医者になったというのは知ってはいたが、果たしてどんな医者になっているやら。何せ、これまで年賀状だけでつながっていた友達だからな」
 それから、榎本の高校時代の思い出話へと移った。
 榎本は高校時代を静岡で暮らした。何でもその医者になった友達とは、中学から付き合いの続く悪友だったという。詩吟部で部長を務めたというその彼が入部した理由は、一番楽ができそうな倶楽部で、かつ部長をしていれば大学進学にも有利だろうという浅はかな考えに従ってのことだった。さらに詩吟部には何故か女生徒が多く、倶楽部の担任が二十代の若い女性の教師だったというのももうひとつの理由だったらしい。
「とにかく酒と煙草を覚えたのもあいつがいたからだし、喧嘩にしても、女遊びにしても、そいつと一緒にいろいろ派手にやったもんさ。いわゆる若気の至りというやつで、いま思い返してもよくあんなことできたな、みたいな恥ずかしいことを惜し気もなくやってたもんよ」
 それからお互い大学浪人を経験するが、丁度その頃、榎本が親の仕事の関係で関西へ引っ越すことになり、そこで交流はストップし、年賀状だけをやり取りする間柄になった。
「中学までは空手をやってたんで猛者みたいな風貌だったからな。あいつがまさか病院まで経営する医者になったとはなあ」
 年賀状で互いの進路や職業は聞いて知っていたものの、個人で病院を経営するまでになったというのもつい最近、ソーシャルネットワークを通じて知ったという。
「ソーシャルネットワークなんて、榎本さん、案外若いっすね」と啓大が茶化すと、
「案外は余計だよ」と榎本は笑った。
「俺が連絡すると、うちはいつでも見学自由だから一度おいでの一点張りで、結局どんな病院かも聞いてないんだ」
 まさか霊感商法みたいなことをしている胡散臭い医者じゃないでしょうね、と啓大は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。もしそうだったら、長原さんに任せてその場は逃げてやろうか、などとひとりで考えていた。
 病院は六甲ケーブル下付近だった。阪急六甲駅からバスに揺られること二十分少々。所々積雪の残る六甲山の麓に一行は辿り着いた。バス停を降りると冷たい雨の降りしきる中を一列になって歩いた。雨は朝から小止みなくしとしとと降っていた。
 バス停から歩くこと十分。ようやく病院らしき白い建物が見えてきた。病院の入口の自動扉を入るや湿気を帯びた温かさにほっとする心持ちがした。
 希美も長原もマフラーを口元から外した。受付で榎本が名前を告げると、ほどなくして榎本よりさらに大柄な体躯をした白衣姿の医師が姿を見せた。
 山の麓にいる医師にしては日に焼けて浅黒い健康的な笑顔を見せた。名は、坂野昌彦といった。
「ようこそ、六甲の家へ」
 そう言うと、坂野は丁寧にお辞儀をして回り、また慌ただしく奥へと消えていった。
 エントランスは通常の病院とさして変わりはないが、全体的な雰囲気がどことなく違って見えた。
 何が違うのか、すぐに希美は気がついた。先ほど挨拶にきた坂野医師以外に職員らしきひとが誰も白衣や医療着を着ていないのである。そして、エントランスホールに集まる老人たちは鼻に酸素チューブこそ付けてはいるものの、さも楽しげに談笑し、ジーパン姿の若者と将棋に興じる姿さえ見られた。
 これが本当に病院?希美の真っ先に抱いた感想はそれだった。それは他の三人も同じであった。三人はただ、しばらくの間物珍しげに周囲を見渡していた。
 いつまでそうしていたであろうか。四人ともが何を言うでもなく、そのままエントランスに止まり、外の風景を眺めていた。
 外は依然として薄暗いまま、ときおり霰交じりの雨が激しくガラスに打ち当る音が聞こえた。

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