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明日へ向かって 45

 三河製薬の研究員にとっては、オープンディスカッションだけが出張目的とならないように、高津製薬研究所を見学するという大義名分が設けられたため、オープンディスカッション前には高津製薬研究所のラボツアーが実施された。
 合併前とはいえ、外部の製薬会社に研究所を案内することは異例中の異例であるため、中には三河製薬側の視察と勘違いした者も少なくなかった。
 製薬会社の研究所といえば、社内でも機密のベールに包まれた、いわば聖域である。関係者以外の立ち入りはかなり慎重な判断が必要となる。これには、オープンディスカッションの開催によって、両社の研究員たちが交流することに理解を示した両経営陣の判断といえた。
 実は、三河製薬ではすでに何年も前からオープンディスカッションが導入されていた。最初は営業部門でこのような活動が取り入れられ、次第に展開し今や活動規模は全社に広まっていた。主に部署内の交流を目的としたオープンディスカッションを実施し、一通り全社員がミーティングへ参加したことで活動自体は数年前に一旦終息していたが、オープンディスカッションを通じて生まれたいくつかの活動は、いまでも社内の有志メンバーによって続けられていた。また新入社員や管理職などの研修でも活用されるなど、三河製薬では、オープンディスカッションは社員たちの新たなコミュニケーション交流の場として、浸透していたのである。
 合同ミーティングの朝は、全国的に晴れ渡っていた。すっかり梅雨も明けて、突き刺すような夏日が青々とした大地に降り注いでいた。
 三河製薬の研究員三名を希美と榎本の二人で出迎えた。
 三名とも男性だった。ひとりはおそらく希美と年も変わらないほどの年齢に見えた。あとは、四十代前半と後半と思しき男性の二名。いずれも話しやすそうな印象であった。
 簡単な自己紹介を終え、冷たいお茶を飲んで一息ついたところに頃よく、長原が会議室に入ってきた。来客者三名を研究所に案内するためである。
 榎本と長原がラボツアーに出た後、希美はひとり会議室の準備に取り掛かった。机を壁に寄せ、椅子を部屋の真ん中に円形に並べ、壁に寄せた机の上に飴や小さな個包装のお菓子をバスケットに詰めて置いた。ミネラルウォーターは居室の冷蔵庫にあるが、これは開始前に啓大が会議室へ持ってくる段取りになっていた。
 会議室の準備が整ったところへ城戸が到着した。
「いま長原さんと榎本さんで研究所の見学に行ってます」
「いいなあ、私も見てみたい」と城戸が無邪気に微笑んだ。
 それから城戸は、今日の段取りを大まかに説明すると、三河製薬から来た三名の研究員の印象について希美に訊ねた。
 希美は、三人のそれぞれの見た目の年齢と三人とも話しやすそうな印象であったと伝えると城戸はそうですかと柔和な笑みを浮かべて頷いた。
 ラボツアーから五人が会議室に戻ってきた。オープンディスカッションの開始時刻までにはまだもう少し時間があった。
 長原は開始時刻にまた戻ってくると希美に言い残し、会議室を出て行った。榎本はプロジェクターの準備を始めた。
 会議室はしんと静まり返っていた。三河製薬からきた三名はノートや手帳をパラパラと捲っていた。
 希美は最初の自己紹介で聞いた三人の名前を頭の中で反芻していた。
 一番若い研究員は大友といった。大友はノートに何かを書き留めていた。せっせとノートに走り書きをしてはときおり顔を上げ、何かを思い出したように再びペンを走らせていた。他の二人がクールビズスタイルの半袖シャツとスラックス姿に比べ、大友はポロシャツを着たカジュアルスタイルで顎に短い髭をたくわえていた。
 三人の中で一番の年長者は緒方と言った。彼は榎本とほぼ同世代と思われた。ズボンから突き出たお腹の上にちょこんと手帳を開き、何をするともなくただ茫とそれを眺めていた。ときおり首と額に浮かんだ汗をハンカチで押えるとき以外に彼が動くことはほとんどなかった。
 三人の真ん中、四十代前半と思しき男性は片山といった。片山は、三人の中で一番の痩身だった。彼はやや退屈そうにちらりと壁の時計を見遣るとノートを膝に置き、腕を組むと静かに目を閉じた。

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