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明日へ向かって 75

 風土改革活動の再開は、思わぬところから訪れた。旧三河製薬の静岡研究所からオープンディスカッションの申し出があったからだ。
 研究所統合の第一歩として、両研究所の交流のための合同ミーティングを開催しよう、というのが目的であった。開催場所は、静岡研究所である。当日のアジェンダは、榎本と旧三河製薬の緒方の二人で作成した。旧高津製薬からの参加者は、榎本、長原、啓大と希美の四名に決まった。
 希美から、本部長説明のときと同じ資料を用いて、静岡研究所で旧高津製薬での活動を紹介することになったのだが、不思議と前回ほどの緊張感はなかった。多喜田へ説明したことが、希美の大きな自信となっていた。だが、それよりも彼女を大きく変えたのが、研究所の閉鎖という突然の知らせだった。それを受け入れることで、希美にまた新たな力が湧いてきた。それは、決死の覚悟で勝負に挑むファイターのように、限られた時間の中で最善を尽くすこと、少しでも前へ進もうとする逞しい力であった。
 研究所が閉鎖されることを知った瞬間から希美の心の中に吹き荒れた嵐は過ぎ去った後に静けさだけを残していった。或いは、風土改革活動に関わるうちに、変化を前向きに受け入れる姿勢が彼女の中に備わってきたのかもしれない。
 現に、研究所閉鎖以降の契約更新は難しいという事実を榎本から明かされたときも、希美は落ち着いて冷静に話に耳を傾けることができた。申し訳ないと謝る榎本に対し、希美は、むしろお礼を言いたいほどの気持ちであることを素直に打ち明けた。
 静岡研究所での合同ミーティングは、終始和やかなムードで進められた。前回の合同ミーティングに参加した、緒方、大友、片山の三人に迎えられた四人は、会議室に鞄を置くとすぐに静岡研究所内の案内を受けた。
 静岡研究所は、建屋の作り自体も大きく、実験スペースにもかなりのゆとりがあるように見えた。
 中でも最新鋭の分析装置が整然と列を成して立ち並ぶ機器室の光景は、壮観であった。これには長原もいたく関心を寄せ、またここで新たな一歩を踏み出せることに胸を躍らせた。
 ラボツアーの一行たちが会議室に戻ってくると、旧三河製薬の研究員たちが机を端に寄せ、椅子を円形に並べているところだった。希美たちも準備に加わり、挨拶よりも前に共同作業が始まった。
 会の始まりに静岡研究所長の峰尾から挨拶があり、それから四人と旧三河製薬側の参加者十七名が円形に座った。一言ずつ自己紹介した後、希美ら四人はバラバラに分かれて旧三河製薬参加者の円に加わった。
 きっとそれまでの希美であれば、ひとりになっただけで顔を真っ赤に火照らせていただろう。しかし、その日の彼女は違った。むしろ、冷静に周囲を見渡していた。
 チームに分かれた後、ひとり三十分ずつ自己紹介をしていった。次に旧三河製薬で継続して議論してきているテーマに沿って会は進められた。
 テーマはいくつか用意されているうちから、チームごとにひとつを選んだ。今回の共通テーマは、プロジェクトマネージャーの選択についてであった。いずれも実際に様々な会社で起きた事例を挙げ、それについて議論をするという形式だった。
 テーマごとに用意されたA4三枚のテキストをその場で読み込んでから議論を開始する。テキストには、それぞれの事例について、それまでに至った背景と組織とプロジェクトの目指すべき目標が書かれてあり、抱える問題点が克明に記されていた。最後に書かれた質問はどのテーマも同じであった。
「あなたがもしも、このプロジェクトのリーダーであったなら、どうしますか?」
 希美のチームが選んだ事例は、とある自動車メーカーの畜電池開発プロジェクトの話だった。
 ひとりひとりが自分自身の考えを述べた後、互いの考えの異なる点と同じところをホワイトボードに書き並べた。
 希美にとっては、非常にチャレンジングな議論であった。みんなの意見を集中して聞くだけでも精一杯で、自分の意見を述べるのはかなりの困難さを伴った。
 全体的に議論は深いところにまで踏み込んでおり、質もかなり高かった。取り扱っている内容も実用性が高く、何より自分たちの業務に直結している。しかし、そこには肝心な何かが欠けているように希美は感じた。

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