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明日へ向かって 65

 啓大は年明けから慌ただしい日々を送っていた。二月からのライブツアーに備えたバンドのスタジオ練習は週に三日をこなしていた。
 当然昼間は研究所で実験が待っている。スタジオ練習は、週末以外は深夜の時間帯を使うため、削られるのはおのずから睡眠時間ということになってくる。だが、それでもエネルギーは身体の芯からふつふつと湧いてくる。他のメンバーも同じように生き生きとしていた。
 ライブツアーが楽しみなこともたしかだが、それ以上に、これが最後のチャンスかもしれない、という期待に胸を膨らませていた。誰もそれをあえて口にはしないが、皆が心の中でひっそりと思っていた。
 何か本職っぽくなってきたよな俺たち、そう言って、彼らは互いを励まし合い、笑った。
 ライブツアーは想像以上にヘビーなものだった。毎週末のレコーディングも相当ヘビーだったが、ほぼ毎週のライブ、しかも北は仙台から南は宮崎と全国津々浦々を回るとあって移動距離だけでも身体的なダメージは十分に大きかった。
 ツアーした先々で得たものも大きかった。何よりも嬉しかったのは、ホーリーワークスと一緒だったおかげもあり、どこへ行っても歓待を受けたことだった。中には彼らのCDを手にサインをせがまれることさえあった。確実にウェーブは来ている。それが彼らの得た感触であった。

 啓大がライブツアーで忙しく動き回っている間に、高津製薬と三河製薬の合併が三月に完了した。
 前年度の売上高ランキングが十四位の高津製薬と九位の三河製薬の合併とあって、売上規模から考えて五位となる製薬会社が誕生したと各紙は報じた。しかし、会社の合併は規模だけで語られるものではない。合併とともに両社は互いの運命を背負うこととなり、互いの文化はぶつかり合い、混迷と停滞が訪れる。
 三河製薬のメイセン薬害問題は、高津三河製薬の問題となり、お互いが抱えてきた医薬品開発のプロジェクトには見直しが求められた。両社の持つ化合物ライブラリーは速やかに統合され、治療領域やマーケティングには交通整理がなされた。ただ、対等合併ということもあって、互いがそれまでに進めてきたプロジェクトが途端にストップしてしまうということにはならなかった。そのため、研究員たちの日常に訪れる変化は緩慢にして実感の薄いものだった。
 本当の大きな変化が訪れるのはもう少し先になりそうである。それは誰しもが予感していたことであった。大きな変化は、組織や研究所の統合によって人材の交差が始まってからしか起きない。誰もがそれを、雪解けの春を待つ山野のように、ひっそり待っていた。
 そんな中、希美はひとり取り残されたような気分だった。オープンディスカッションの日程を調整しようにも各自の都合が合わない。啓大は有給が計画されていることが多く、長原と榎本は合併後に会議が増えた。一月末に六甲の家を見学して以来、ついに一回も活動のないまま三月も終わりを迎えようとしていた。
 合併でそれどころではないのは百にも承知だったが、それでも正社員ではない希美にとって自分はまったく蚊帳の外であることを認識せざるをえなかった。ひょっとしてこのまま風土改革活動は、合併の騒ぎに浚われるようにして消滅してしまうのではないか。ついにはそんな思いが希美の脳裏を掠めるようになった。
 唯一そんな希美の心の慰めになったのが世話人会だった。とりわけ山本と話していると自分の立っている足元をしっかりと見つめ直すことができた。
「こないだ森下さんに話してもらったの、結構うまくいきそうだよ」
 山本が世話人会後の懇親会で開口一番、希美に報告へやって来た。
「何のことでしたっけ?」希美は聞き返した。
「ほら、練習とオープンディスカッションを一緒にしたらどうかって話」
「ああ、あれですか」
 話した当の本人はすっかりそのことを忘れていたのである。

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