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松永久秀の最期と、その後のイメージなど(1) 久秀の最期について

「梟雄」扱いされる戦国武将の代表格、松永久秀

 自分の作品中で扱った話に、学術上の争点に関わるような事が多かったので、史料がらみの細かい話をする記事が多くなってしまいました。学術的な話が一段落したこともあり、あまり重くならないような話を扱ってみようかと思います。

 「梟雄」と呼ばれる戦国武将のうち、まず紹介される人といえば斎藤道三あたりと並んで松永久秀、となることが多いのではないでしょうか。松永久秀は主家を乗っ取り、将軍を殺し、東大寺の大仏を焼くという、大悪事を三つもやった人物だと織田信長が徳川家康に語った、という話が広く伝わっています。ところがこの話、江戸時代中期の儒学者湯浅常山が記した常山紀談という書物に出ているのですが、この書物、一体どこから聞いてきたんだろうという話だらけで、史料としてあてにしてはならないとされている書物なのです。史料的価値が低く学術的な文書の典拠として使用すべきでないとされているのは当然のこと。一般向けの本でも、しっかりした本では史料として扱われません。何の注意書きも無く常山紀談を根拠に持ち出している本には、警戒した方がいいでしょう。
 ここで、関連する話をもう一つ。武辺噺聞書という書物があります。常山紀談の元ネタになった本、ということは、あてにしてはならない書物です。学術的に日本史を扱う際の基本文献となる大日本史料や史料総覧でも、常山紀談と武辺噺聞書は基本的に「参考」として扱われています。ところが、歴史学者を名乗る人物の書いた一般向けの本で、久秀以外の人物の話でも、武辺噺聞書を引用しているものがあります。一般向けの本に面白エピソードとして書き入れているのですが、常山紀談が駄目なことは有名なので一般人でも気付く人がいるかもしれない、それらしい書名の武辺噺聞書なら、ということで紛れ込ませる。歴史上の人物のエピソードぐらい、学者なら史料から幾らでも探してくことが出来るはずなのに、手っ取り早いネタ本から話を採ってきているわけです。一般読者に向けてこういう事をする、あまり信用出来ない内容が書かれていたりするので、歴史関連本を利用する際は騙されないよう、注意が必要になります。武辺噺聞書の話が書き入れられているかどうかは、それ以上買う必要のない著者の本を見分ける一つの手がかりになると言えるかもしれません。
 なぜこんな長い話をしたかというと、参考資料を集めた時に、史料を使った部分すらあてにならないような本を何冊も買ってしまった結果、無駄な紙の山が出来て困ったから。歴史学者の役目は史料の検討であって、著者が「歴史学者」と称しているにもかかわらず、歴史上の人物について世間のイメージがどうとか書いている本があったら要注意。読者に対して印象操作をしようとしている可能性大ということですから。想像、創作、フィクションを扱うのは作家の仕事です。

『川角太閤記』に記された松永久秀の最期

 松永久秀については、色々な書物にエピソードが載っています。「太閤記」の一種としてよく挙げられる、戦国時代が終わって間もない江戸時代初期の元和年間に成立したとされる『川角太閤記』に、攻撃側の織田軍から見た松永久秀の最期が記されています。久秀を直接取り上げるのではなく、そういえば松永久秀の時に似ているな、と人々が思い出すという形で出てきます。大雑把にまとめると次のような話。
 本能寺の変に続く天王山の合戦で明智光秀が討たれた後、大河ドラマ「麒麟がくる」にも出てきた重臣明智弥平次(左馬助秀満)は、守っていた安土城から明智家本拠の近江坂本城へ移動。堀久太郎秀政の軍勢に包囲される中、天守に火薬を積み上げ、塀周りから鉄砲を撃って防戦しているように見せかけた後、包囲軍にいた堀家の家老堀監物直政に向け、天下の道具をここで滅失させては傍若無人と思われるであろうからお渡ししますと、天守にあった明智家の家宝を目録を添えて布団に包んで落とします。堀監物が、明智日向守殿秘蔵の郷義弘の脇差がありませんが、と返事をすると弥平次から、これは明智光秀が命もろともと秘蔵していた物なので、私が腰に差しておいて死後にあの世で渡すためです、との返事。信貴山城での松永久秀が切腹した時に矢倉の下にいた佐久間信盛が城の内に呼びかけたのと同じだな、と後に人々が語り合った。ここで松永久秀のエピソードが紹介されるのですが、先に弥平次の話をしておくと、明智光秀の一族を全員介錯した後、脇差を取り出して天守の戸を開き、「寄せ手の人々御覧候え、弥平次自害の様子を見習い手本にせよ」と言って十文字切腹。伏せると同時に火薬に点火し、煙となって空へ上がっていった。後で焼け跡を調べても、道具類の残骸に郷義弘の脇差は無く、後に古井戸から出てきた物もこれがそうかもしれないと推量するしかなく、松永久秀の首と平蜘蛛の茶釜に似ているなと、人々が語り合った。
 明智秀満の自害は、切腹と同時に火薬に点火しているので、爆死と言ってよいでしょう。話を松永久秀に戻して、内容を要約すると次のような話。
 松永久秀が大和の信貴山城で切腹した時のこと、佐久間信盛が矢倉の下に来た。申し付けられている事があって、久秀が秘蔵する平蜘蛛の茶釜を、織田信長も常々欲しがっていたのは分かっているだろうから引き渡してもらえないか、そこで滅失するのも不本意なことだろうと松永殿へ伝えてもらいたい、と城内へ呼びかけた。しばらくして城内からの返事。平蜘蛛の釜と九十九髪の茶入は後々まで自分で持っていようと思っていたところ、安土城での御点前で御茶を下さった時に信長殿がおっしゃったが、いつまでも九十九髪の茶入で茶の湯をなされよとの御意であった。新しく数寄屋を建てて九十九髪で一服差し上げようと思っていたが、その後の成り行きで九十九髪は安土城で進上した。平蜘蛛の茶釜と我が頸の二つは信長殿の御目に懸けはしますまい。こう言って久秀は平蜘蛛の茶釜を微塵粉灰に打ち割った。久秀の頸は火薬で焼き割って微塵に砕けたので平蜘蛛の茶釜と同様になった。九十九髪の茶入は信長が秘蔵したが本能寺の変で消失した。
 こうして久秀は自害したのですが、頸を「鐵炮の薬にてやきわり」と記されています。爆発によって死ぬ爆死そのものではなく、切腹後に首が爆破処理されたということになります。同時代に織田家に仕えていた『信長公記』の著者太田牛一は、信長公記に「防戦弓折矢盡松永天主に火を懸焼死候」「松永無詮企して己れと猛火之中に入部類眷属一度に焼死」、『太閤さま軍記のうち』に「松永父子妻女一門れき〱(れき)、天主に火をかけ、平蜘蛛の釜うちくだき、やけ死に候。」と記しています。
 頸の爆破処理に続いて発生した火災は大きなものだったらしく、奈良の興福寺の塔頭多聞院の記録『多聞院日記』には、現在の奈良市内にある興福寺から信貴山の火災が見えたと記されているぐらいですから、かなりの騒ぎになったようです。現代の言葉で表現すれば、爆発炎上といった具合でしょうか。信貴山城で爆発炎上が起きて松永久秀が死んだ、ということなので後の人々が大雑把に話を纏めると、松永久秀が爆死した、と言えなくもないというところです。

その後の展開など

 歴史上、自害の際に爆発が起きる大きな事例を挙げていくと、最初が松永久秀の自刃直後に起きた爆発、次いで明智左馬助秀満が坂本城で爆死。更に、明智秀満の身内である主君明智光秀の娘で忠興夫人となった細川ガラシヤが関ヶ原合戦の直前に石田方に人質に取られるのを避けるため自害した後、大坂玉造の細川屋敷が爆発炎上したエピソードが有名です。明智光秀という人、身内が二人も爆発を伴って自害していることになりますが、鉄砲の名人だったと伝えられていますから、明智一族にとっては火薬が身近な存在だったということなのかもしれません。その後の大事件としては、江戸時代末期に大塩平八郎の乱を鎮圧された大塩平八郎が、自刃する際に火薬を使って火を放った例があります。こうした火薬を使った自害の、まさに口火を切った人物が松永久秀、ということになるでしょう。
 当時は官職から松永弾正と呼ばれていた久秀は、今日では日本における爆死の先駆者、パイオニアとして名高くなり、爆弾正とかボンバーマンといった呼ばれ方で歴史ファンの間で語り継がれています。また松永久秀は、所有する茶釜をめぐって後世に語り継がれることになるほどに、茶人として有名な武将でした。茶の湯では抹茶を飲みますので、お茶の粉を扱い慣れていた人でもあったわけです。松永久秀は抹茶と火薬、どちらの粉に関しても、インパクトのあるエピソードを後世に残したと言えるでしょう。茶人を英語でティー・マスターと言いますが、少なくとも、ガンパウダー・マスターとか、マスター・オブ・エクスプロージョン、と呼べる人物であることは確かなようです。
 ちなみに私見ですが、久秀が砕いた「古天明平蜘蛛」の茶釜について書き加えておくと、茶道具の天明釜で現存する古天明の茶釜を見ても平らな蜘蛛のようには見えません。茶道書の『山上宗二記』に、松永久秀所有の茶釜として「平雲」と書いてありますので、もともと空に浮かぶ平らな雲の形をした茶釜という意味だったのではないかという気がします。後に松永久秀の話に尾ひれが付いていけばいくほど、久秀の持ち物は恐ろしげなイメージが増していき、茶釜もいつしか平らな雲から蜘蛛、スパイダーな形へ変化して書かれるようになったのかもしれません。
 久秀が何故織田信長に反旗を翻したのかという反乱の理由については、昔から色々言われてきましたが、私も自身の考えを著書の中に少し書いてみました。個人的には、文学的な自殺だったのではないかという印象を持っているので、そうした視点からの考察を書き入れてあります。松永久秀という人物、もし機会があれば、主人公として「純文学」的なアプローチで書いてみたいと思っています。
 最後になりますが、この記事のヘッダー画像は、イベントなどの際に販売する著者オリジナルデザインの戦国武将グッズの一つ、松永久秀のシールに使っているデザインです。キーホルダーなどは背景色が無いタイプのデザインになっています。松永久秀グッズのデザインでは、古天明平蜘蛛茶釜と弾薬運搬用の玉箱という、今となってはイメージが強く結びついた二つの物をモチーフにしてみました。商品の販売ページは下記の通りです。

著書「河内の国飯盛山追想記」のnote内ご案内ページ

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