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私を会社に行けなくさせた、あれこれ【私の過去の話】

最近、働いていた頃のことを思い出す機会があったので、なにが自分にとってつらかったのかを改めて整理してみようと思います。

今回は、配属されてからに絞ってみようかなと。


以前、会社に行けなくなるまでの話を少し書いたのですが、苦しくなり途中で断念しました。今も消化できていないものがあることを痛感しました。

今回も焦らず無理せず、書ける範囲で書いていこうと思います。



仕事編

オフィス環境


私の勤務していたオフィスにはコールセンターが併設されていたため、四六時中電話のコール音と受け答えの声が鳴り響いていました。

元々音には敏感で、勉強もカフェなどの雑音がある環境より、自分の部屋で沈黙の中やる方が集中できるタイプだったので、常に音がある(しかも結構うるさい)環境に居続けなければいけないのは、きつかったよなぁと思います。

視界
同じフロアに複数の部署が集まっている環境でした。オープンオフィスというのでしょうか、区切りがなく、開けている印象です(当時はコロナ対策のためパーテーションは設置されていましたが、透明のため視界が遮られることはありません)。

デスクの位置がフロアの真ん中あたりで、出入り口に向かう人がすぐ横を通る環境だったのもあり、パソコンに向かっていても、視界には常に様々な情報が入ってきました。

隣や向かいに座る先輩社員の一挙手一投足が目に入ってしまい、常に臨戦態勢のような状態でした。

空調
私がオフィスで過ごしたのは6月。真夏ではないものの、暑い日が続いていました。冷房が効いているのはとてもありがたいことだけれど、意味が分からないくらい寒かったんです。キンキンに冷えていました。カーディガンを常に羽織り、くるぶしまであるパンツを履いていたのに、パンプスを履いた足は悲鳴を上げていました。

(スニーカーを履ければ少しは違ったけれど、私服と言われてもどこまでカジュアルな恰好が許されるのか、まだわかりませんでした。)

空調の温度を上げてほしいということも、新入社員の立場で言っていいのだろうか、と思ってしまったし、そもそも誰に言えばいいのかもわからず、ただ耐え忍ぶ毎日でした。

徹底した管理
セキュリティに厳しく、オフィスに持ち込めるもの、持ち出してはいけないものが徹底されていました。

元の真面目な性格が災いし、間違いを犯してはいないだろうかと、常に緊張していたように思います。

ノー残業
残業を減らすための取り組みが行われており、残業をしない曜日が決まっていたり、残業をする場合には数時間前までに上司の承認を得る必要がありました。

残業申請の手続きもよくわからないし、なにより上司の手間を増やすことが悪だと思っていたので、とにかく残業せず定時で帰ることに必死になっていました。

人間関係

インストラクター
そもそも私の配属が総務のとある部署 兼 役員補佐というもので、役員にくっつきつつ、総務の仕事を覚えていく、という状況でした。

新入社員ひとりひとりにインストラクターがついてくれるのですが、私の場合は役員がインストラクターでした。

私が配属された時期、役員は特に忙しかったので、基本的には総務の仕事を別の先輩に教わっていました。

毎日の振り返りはインストラクターと一緒にやるものなのですが、役員があまりに忙しいので、部署の先輩などに代わりにやってもらうことが多く、役員の時間がとれたとしても、忙しい役員の時間を奪っている感覚になってしまい、少しでも早く終わらせようということばかり考えていました。

部署の先輩たち
優しい人しかいなかったのですが、みなさん仕事量が多く、人によってはかなりしんどそうでした。

その姿を近くで見ているだけでも苦しく、質問をしたくてもタイミングを伺うなど、とても神経を使いました。

先輩の立場で考えたら、もっと気にせず質問してよかったのかも…なんて思いますが、そもそもあんな死にそうな顔で仕事をしなければいけない状況になっていることがおかしくない?という想いは今でも消えません。

私のしんどさに特に気づいてくれている先輩がいたのですが、そういうことに気づける人ほど会社では苦しい思いをする、という現実も目の当たりにしました。人に手を差し伸べる人がどんどん苦しくなる構造。程よく人との距離をとり、困っている人がいても極力関わらない姿勢の人が生き延びる世界。

そんな状況に対する怒りや疑問も、私の中に渦巻いていたのだと思います。

業務内容

いくつかある業務のひとつに、[各部署の購入希望品について希望者と連絡をとりあい、詳細を確認し、購入の手配をする]というものがありました。

そこで私がしんどかったのが、顔が見えないということです。

同じオフィスで働いている人ですら名前がわからない、まして連絡を取り合う相手は、オフィスも違う、顔も名前も知らない人たちでした。画面の向こうには生身の人間がいるはずなのに、どんな人なのかがわからない。

自分にとって、相手を想像できる状態がとても大事なのだということが、よくわかりました。


暮らし編


私は生まれも育ちも神奈川です。配属されたのが福岡だったため、慣れない地での一人暮らしが始まりました。

ただでさえ知り合いがほぼいない(友人のお母さんが近所に住んでいたので、それだけは安心に繋がりました)うえに、コロナによってまだまだ気軽に外食できる状況じゃなかったため、同期や職場の方とおしゃべりすることもなく、まっすぐ家に帰る日々でした。

新入社員研修の期間は、同部屋の同期の子と話し、その日のモヤモヤなどを解消できていたのですが、配属されてからはただただひとりで、その日の刺激を処理することしかできませんでした。

仕事の内容、先輩に言われたこと、できるようになったこと、できなかったこと、気になること…1日を総復習し、定時内に少しでも業務を進められるよう、「明日着いたらまずこれをして、これとこれを確認して、○○さんにこれを聞いて…」と、次の日のシュミレーションをしていました。

仕事にとりつかれているような状態でした。そこまで仕事のことを考えなくてもいいのでは?と今なら感じますが、当時はただただ業務に追われ、もうそれしか考えられなくなっていました。

“業務時間外は、業務時間を最適化するための準備の時間”

こんな表現がしっくりきてしまうほど、すべてが仕事のための時間でした。

常に緊張状態。家でもそれは続いていて、休まる時間はありませんでした。


とりあえずまとめ


思いつくまま、箇条書きのように書き出してみました。

今でこそ力が入りすぎていることや、いずれ無理がくるであろうことがよくわかりますが、当時は本当に必死で、外にばかり矢印が向き、自分のことがなにも見えていなかったなと思います。

当時つらかったことは、人によっては「そんなにつらいこと?」とか、「それくらい耐えるもんだよ」と思うのかもしれません。

私も、ひとつひとつ個別に見ると「こんなことで苦しんでいたの…?」と思ってしまうときもありますが、でも、複数の要因が一気にまとめて押し寄せていたというか、些細なことがあまりにも積み重なりすぎていたのだと思います。

まだまだ書ききれていないことも含めて、あらゆることが当時の私にとってはしんどく、でもしんどいことにすら気づけず我慢し続けた結果、どうにもならなくなったのだと思っています。


会社自体にも思うところはありますが、あのままの私だったら、きっとどこへ行っても遅かれ早かれ似たようなことになっていたと思います。

なんなら、この歳で立ち止まり、自分の生き方や染みついた考え方の癖と向き合う機会を得られたことは、とても幸運なことだと思っています。


さんざん鞭打ってきた心や身体がついに言うことを聞いてくれなくなったというか、よく今までついてきてくれたな、と感心してしまうほどに、これまでの生き方に無理があったことに気がつきました。


私が働けなくなったのには、意味がある。


会社に行けなくなった頃からそう感じてはいましたが、ここ最近、それをより深く感じるようになりました。


働けなくなってよかった!とまでは言えませんが、この経験を少しずつ消化できている実感があるのは嬉しいなと思います。


働けなくなってから、もう2年半。

時間はかかるけれど、なにかものすごく大事なことが見えてきているような、そんな気がしています。


重たい内容になってしまいましたが、読んでくださりありがとうございました!



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