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わたしのキッズダンスの世界〜始まったはいいけども〜【2/6】

何も知らずに飛び込んだキッズダンスの世界。たしか2007年くらいの出来事。

昼間はスポーツジムでレッスンをして、夕方からは自宅スタジオで毎日のように子供達と過ごす日々が始まりました。のほほんと楽しいしかない時間。

名前のないダンススクールから、お祭りや地域のイベントで生徒たちを踊らせるために即席でついた【青空キッズ】というチーム名。
人数がたくさんいたので、全員が集まる場所はいつだって公園の青空の下だったから。

当時、行田市のお祭りの一環でダンスコンテストがありました。
そこに5チームに分かれてエントリーし上の写真がその時の写真です。

初めてのキッズダンスコンテスト。

コンテストに全く詳しくないわたしは、ダンスレッスンの延長で振りをつけ(大人数でループされた振付けに直線の多い構成)、またはとある芸能人のダンスグループの完コピだったりと。みんなを自信満々に送り出したのです。衣装もお揃いのTシャツ程度で。優勝する気満々で。

そこに同じくエントリーしていたチームに、都内や福生の方からキッズチームがエントリーしていました。

いざワクワクでコンテストが始まると

その都内組の子たちは、キッズとは思えないオシャレな衣装。
息を呑む高いスキルに圧倒的にオーラ。
見たこともないような振付。
話しかけるのもちょっと気を遣うほどの貫禄。
鳥肌が立ち、なんだこれは。とそれしか出てこない。

もちろん満場一致で優勝やら準優勝。

わたしの生徒たちは、到底足元にも及ばない空気。

なんですかこれは、、、、

コンテストが終わり表彰式が終わり、すぐにその女の子たちのママさんに話しかけ、どこでレッスンをしているのか、どんなスタジオなのか、どのくらい練習しているのか、コンテストについても色々質問しました。
その子たちは今でも忘れない『スプラッシュ』という3人組の小学生の女の子。

そして今でもその時のママさんとは繋がってる。笑

あの衝撃なショーを見てからというもの、落ち込みに落ち込んだわたしは、このままじゃいけない。田舎のダンススタジオが、田舎だから仕方ない。なんてままで終わらせるわけにいかない。
子供達はプロでもない同じ歳なのに、地元の子供達は、全く都内のレベルの足元にも及ばない。

コンテストで賞が取れないのは、全て先生であるわたしの責任。
これはお祭りでも楽しいイベントでもないんだ。戦いなんだ。と知ったのです。

どうしたら、あの会場にいた観客が息を呑むようなショーを子供たちに踊らせることができるんだろう。どのくらい練習したら、どんな練習したら、わたしにできることはなんだろう。

必死に必死に考え、絞り出した答えが

基本と基礎を叩き込んで、わたしはわたしでたくさんの振付を学び、センスを身につけ、これは相当に本気出さなきゃダメだ。
それにはまずわたしだけの本気ではなく、この子達と保護者たちと全体の意識を変えて、スキルを上げること。
一回500円で楽しいだけのダンススクールではダメなんだ。

そう思い、50人近くいた生徒たちの保護者に

『わたしは先日のコンテストで大変落ち込みました。申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。これからわたしは、生徒たちのスキルを加速してあげてゆくつもりです。わたしも本気で学び時間を費やします。コンテストに出て、優勝できる生徒たちに育てます。今までとは方針を変えますので、一旦、全員、やめてください。特にやめるやめないの報告は不要です。ただし、この方針に乗って、コンテストで優勝できるチームになってゆきたいと思える方のみ、再入会の連絡をください。レッスン代も一回500円から、月謝3500円にします』

という手紙を出したのを鮮明に覚えています。

今思うと、え?全員解雇?ですよね。笑

そうなんです。全員辞めさせたんです。

レッスン代が月謝になって高くなって、それでも気合を入れてダンスを続けたい子だけ連絡をください。と。

内心、自分の娘ぐらいしか残らないんじゃないだろうか?って思ってたんですけど、残ったのは‥というか退会した子が、2、3人程度でした。

2009年

こうして少しづつ垢抜けて、少しづつ、少しづつ、わたしと生徒たちみんなの成長が始まりました。

名前のなかったスタジオには

【SKY/HI】スカイハイという名前がつきました。  
空高くぐんぐんいこう。という願いを込めて。

キッズダンスを知ってから初めての再スタートでした。

【3/6へ続く】


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