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【私小説】続、図書室とマリーちゃんと私 9.花の名前を教えて

 小学校での仕事もようやく慣れた6月のはじめ。
 この山に囲まれた東北地方にあるとある盆地は、非常に暑い。
 梅雨に入る前の時期が、蒸して夏のようになる。
 クーラーのない小学校の図書室で、私は暑さにげんなりしながら窓を全開にする。
 すると、勢いよく白いカーテンが舞い上がり、山から緑の香りのする清涼な風が吹き込んできた。
 各教室の扉も全開になっているため、授業の様子が聞こえてくる。
 先生の問いに答える元気のいい子供の声。  
 カツカツという板書の音。
 かつて私も子供で、あの中にいたのかと思うと、とても不思議な気がする。
(ああ、もうすぐ子供たちの休み時間になる)
 私は、本の貸し出しで忙しくなる前に切りの良いところまで目録のデータを入力してしまおうと急いで指を動かした。

   *

 その日は、四年生の女の子が本を借りに来た。
 彼女の名はヒサコちゃん。
 最近、少し反抗期に入っているのか、担任の先生も手をやく問題児ぶりで授業中に脱走をしたり、廊下で暴れたりといった行動を私も見かけていた。
 実際、授業を抜け出し私のいる図書室へ来たこともある。
 私はその時、どう対応すればいいのかとても悩んだ。
 常識的な大人ならば、授業に戻るように促したり、叱ったりするべきだと思う。
 けれど、私は教師ではない。生徒を指導するのはいけないような気がした。
 それに、教室に居場所がないような気持ちになっている子を図書室からも追い出していいものだろうか?

 私は悩んだ挙句、ヒサコちゃんへ声をかけた。
「今、授業中だけどどうしたの? 先生、心配しちゃうよ?」
「…………」
 彼女は私と目も合わせず、そっぽを向いて無言だった。
 私はそれ以上何も言わなかった。
 遠回しな言い方だがとりあえず戻るように促した。
 それを聞かないふりをするのは、戻りたくない意思表示だろう。
 ならば、あとは危険がないように見守るのが司書としての私の役割だと思った。
 担任の先生がこちらをチラリと覗いて、本を読んでいるヒサコちゃんを確認すると、私を見てぺこりとして授業に戻った。
 後で確認したところ、よくあることのようで危なくないように校長先生や教頭先生が見守っているらしい。
 
 そんなヒサコちゃんだが、今日は脱走ではなく正式に本を借りに来てくれたようだ。
 私はそのことをうれしく思いニコニコと見守っていたが、今まであまり本を借りたことはないのか借り方に手間取っている。
 貸し出しカードを見れば今年度の最初の一冊目だった。
 ヒサコちゃんにカードに書名と日付を書くことを教えてあげると、だまって記入したあと、やはり無言で私に貸し出しカードを差し出す。
「〇日までに返してね」と言うと、たいていの生徒は『はーい』と元気よく言って去って行くのだが、彼女は返事もしない。
 そして、本を持ち帰ることもせず私のいるカウンター脇で広げて読みはじめた。
 ちょうど、他の生徒も少なかったのでフリースペースの方で読むことを促す必要もないなと、その場で見守ることにした。
「なにかしらべ物かな?」
 と私が聞くとヒサコちゃんは、首を横に振って、小さな声で「……見たかった」といい春の花のページを開いている。
 そのページに、私の見慣れたくるくるとした蔓にピンクのかわいらしい花をつけたカラスノエンドウを見つけた。
「この花よく見かけるよね?」
 私が指差すと、ヒサコちゃんは首を傾げた。
 どこにでもあるありふれた植物だけれど、 少し盛りを過ぎてしまっていて気付かなかったのかもしれない。

 次のページにも見慣れた赤紫の可愛らしい花が載っていた。
 その花は、今が盛りだ。
 校庭の芝生にもたくさん咲いているのを見たことがあるし、今朝も駐車場で確認した。
 私が子供の頃から好きな花で、咲いていると意識して見てしまう。
 私は、六弁を持つ小さな花を指差して今度こそと願い言う。
「この『ニワゼキショウ』って、校庭の芝生のところにいっぱい咲いてるの知ってる?」
 残念ながら、再びヒサコちゃんは首を傾げた。
 
 しかし、その話を聞いていた違う子がやってきて、ヒサコちゃんの後ろから本を覗き込んで言う。
「えーっ。そんな花、咲いてないよ!」
「図鑑では大きく見えるけど、こんなに小さい花だよ。よく見ないと気が付かないかもね」
 と、私は親指と人差し指を広げて花の高さを示す。
 丈は10センチもない。花の大きさに至っては10ミリもない。本当に小さくて可憐な花なのだ。
「とってもかわいいお花で、私、好きなの」
「ふーん。そうなんだ」
 あとから来た子は、すぐに興味がなくなったのか走り去る。
 ヒサコちゃんはその後も図鑑を眺め、満足したのか本を閉じて大事そうに持って帰った。

 結局、今日はヒサコちゃんとは会話らしい会話を交わせなかった。
 私は、誰もいなくなった図書室で軽くため息を吐いた。
 子供たちへの不満ではない。司書というのは子供たちに積極的に話しかけていいのか、それともただ見守る方がいいのか……。
(私は、司書として子供たちの役に立っているのだろうか?)
 ただ、見守るだけなら私でなくともマリーちゃん人形にもできる。
 振り返れば、青い目の人形と目が合う。
 寂しそうに微笑むその人形を見ながら、私は自分の力不足を感じていた。

 *

 それから数日後。お昼休みの終わり間際に、ヒサコちゃんがやって来た。
 まだ、本の返却日ではないし、本も持っていない。
 しかし、その手には何か別の物が握られている。
 ヒサコちゃんは、その手に持つものを黙って私の目の前の貸し出しカウンターに置いた。
 それは、一輪の小さな小さなニワゼキショウの花だった。
「見つけたんだね!」
 私が驚いて言うと、ヒサコちゃんはコクンと頷き顔を上げた。
 初めて目が合う。
 真っ直ぐな目だった。
『あなたの言ったことは正しかった』
 そう、肯定されたような気がした。
「……あげる」
 小さくそうつぶやくと、ヒサコちゃんは足早に去って行った。
「ありがとね!」
 私はうれしくなりその背にお礼を言うと、 声が届いたのか彼女はチラリと私を振り返り教室へ入った。
 
   *

 それから、ヒサコちゃんはよく図書室へ来てくれるようになった。
 休み時間だけではなく、相変わらず授業中に抜け出してくることもある。
 最初と同じやり取りの繰り返しだ。
 そして、授業に戻ることもあれば、そのまま図書室で過ごすこともある。
 会話はあまりないが、それはそれでいいのだろう。

 私の任期が終わりに近づいた頃、ヒサコちゃんがニヤリとしながら、長いつる科の植物をもって来た。
 花芯が鮮やかなピンク色で白い可憐な花が付いている。
「あら、かわいい花ね」
 私が見たことのない花に、興味を持って触れるとなんだか変なにおいがする。
「ヒサコちゃん、なんかこの花くさいよ!?」
 そして、ヒサコちゃんは私の反応に満足そうに嗤い、その花の名は『ヘクソカズラ(屁糞蔓)』だと告げた。

 まあ、私とヒサコちゃんとは、そのくらいは仲良くなれたと言っていいだろう。