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【小説】右折の苦手なリッツォス 

 溜め息代わりにちょっと書く。弟、リッツォスのこと。僕の後悔の記録。

 リッツォスは優しい。多くの優しい人と同じように気が弱い。いつも周りを気遣っていて、自らを省みる時間がない。リッツォスは酒も煙草もギャンブルもやらない。信じられないことかも知れないけれど、一切の経済的な仕事もしない。普段のリッツォスといえば、通りすがりの他人の仏頂面に微笑みかけたり、河原の薮の中で粛々と念仏を唱えたり、道に落ちているゴミを散歩のついでに集めたり、そんなことばかりしている。収集日までは近所の迷惑を気にして、腐ったゴミを玄関の中に置いておく。それでも家の中は臭くない。定期的に換気して、臭いを追い出しているからだ。窓を開け放つ際にも家の周囲を一周して、通行人がいないことを確認している。知らない誰かの鼻が悪臭でひん曲がってしまわないように。
 酒も煙草もギャンブルもしない人間に出会ったことのある人は稀だろう。大方の人は、そんな奴は存在しないし、いたとしてもどうしようもなくつまらない野郎だと決め込んでいる。しかし、リッツォスは違う。完璧なまでに整った顔の他に、ユーモアのセンスも抜群。長過ぎず短すぎない飴色の髪は、口笛を吹くみたいに軽やかにカールしている。健康的な肉体はがっちりし過ぎることなく、柳のようにしなやかで美しい。はにかむと白過ぎない小さな歯が幼児みたいに可愛く整列している。女たちはリッツォスの笑う顔が見たくて、おかしな話をいくつも創作しては、コミカルに身振り手振りを織り交ぜながら聞かせていた。故郷の村でもリッツォスは人気者だった。

 仕事をしているわけではないが、リッツォスは金に困ってない。強運で金を引き寄せるからだ。雑誌なんかで募集している懸賞にしょっちゅう応募していて、毎週のように砂糖だとか、米だとか、旅行だとか、車だとかが当選する。自宅も懸賞で当てた。住宅会社のキャンペーンで一年だけ無料でモデルハウスを貸し出したのだ。毎月住み心地や改善を希望する点を住宅会社へメールするのは億劫だったが、いい暇潰しになった。リッツォスは文章を書くことが得意なのだ。それを職にすれば何とか食っていけるくらいの才能はあるし、サイン会でも開けば本は飛ぶように売れるだろう。リッツォスは若い頃のクリント・イーストウッドを東洋的にしたような顔をしている。身長は高くないが、丁度品のあるサイズ。しなやかな指は青く滲む鍾乳石のように神秘的で器用。銃の扱いも上手いが、それ以上にギターを弾くのが上手い。故郷にいたときは、教会の裏手にある馬小屋の藁の上で、よくカントリーブルースを弾きながら歌っていた。三頭の馬はふさふさの尻尾で思い思いに拍子をとっていた。馬でさえリッツォスを好きになる。そういうわけで本なんか読まない読者の手には、当然のように彼の作品がいくつも収まることになる。
 リッツォスは車に乗る。基本的には家に引きこもりがちだったが、陽気の良い日曜日の午後なんかに僕を助手席に乗せて隣村の映画館まで運転した。近所の川には濛々としたガスを吐き出す工場群が浮かんでいた。油臭い緑灰色の汚水を眺めながら、グリーズダリーブリッジを渡るのだが、ここまで来るのに七回も左折した。一般的なドライバーなら三回も曲がれば十分なのに。三十分の道程に、リッツォスは一時間以上もかけた。寄り道をしたわけではない。とろとろ運転をしていたのでもない。リッツォスは右折が苦手だし、車線変更さえ上手くいかないのだ。自分が目を瞑りながら一世一代の気持ちで右折して他の車にブレーキを踏ませることが嫌なのだ。リッツォスはとても優しい。多くの優しい人と同様に気が弱くて繊細だ。左折や直進だけで目的地にたどり着くことに僕はいつも感心させられる。目的地までに時間がどれだけかかっても、お目当ての映画が半分終わっていても大した問題ではない。ほとんどイリュージョンに近い芸で、どんなに遠回りしても必ず目的地に着く。下手な映画を見るよりもよっぽど面白い。
 
 映画館でもリッツォスは相変わらずだ。フードやジュースを買うことを促してみても、首を縦に振ったことは一度もない。上映中にポップコーンを落とすかもしれないし、転がっていった一つが前席の紳士の革靴に油を塗るかもしれないからだ。もし、彼がデート後のプロポーズを画策していたとしたら、一張羅に汚点が付いたショックで何もかも失策とあいならないとも限らない。映画本編が始まってから中に入るなんてもってのほかで、次の回まで二時間でも三時間でも時間を潰す。なけなしの金で映画を見に来た客にとって、上映中の人影ほど煩わしいものはないからだ。ロビーのソファーでぼうとくつろいでいる間もリッツォスはこちらを気にかけて、トイレに行きたくないか?としきりに訊ねてくる。本当は自分が行きたいのだが、話し相手を欠いた相手の退屈さを思って、一緒に行くことを好むのだ。
 リッツォスは好奇心が強い。普段は夕方の散歩以外あまり外に出ないためか、どこかに出掛けたら犬のように辺りを嗅ぎ回る。朝の光に満ちた子供の目で「新しいパンケーキ屋さんが出来たんだね」とか「あの家は外装をスカイブルーにしたんだ。素敵だね」とか、そんなことばかり言っている。でも、パンケーキを食べたいとも、自分の家の壁をスカイブルーにしたいとも言わない。リッツォスは優しいし、誰かに迷惑をかけることを何よりも嫌うから。パンケーキ屋に行けば、小さな駐車場で事故をおこして甘い気持ちが台無しになるかもしれないし、家の外壁をスカイブルーにしたら塗装業者は一日中同じ色を塗るという退屈を味わう。リッツォスは他人の不幸を徹底的に排除しようと涙ぐましい努力をしているのだ。
 リッツォスは優しい。この優しさは、病気だ。勇気欠乏症。これがリッツォスを蝕む病の名前だ。
 リッツォスに会うと、気まぐれに確認していることがあった。「医者には行ってるのか?」
 半年毎にリッツォスの回答は変わった。

「関係ないだろ?」


「構わないでくれよ。うんざりだ」


「ああ」


「行ってる」


「行ってるって」


「病院は陰鬱だな。いつ燃やしてやろうかってそんなことばかり考えているよ」


「カウンセラーがちょっと可愛いんだ」


「先生も年だな。鼻毛まで真っ白なんだ」


 半年毎に、表情も豊かになって、心なしか猫背も治ってきた。

「もうそろそろ医者には来なくていいってさ。まったく長かったよ」

 ブーツを新調したいんだけど、良い職人を知っているかと訊ねられたときは嬉しかった。ブーツのソールがほとんど擦り減ってしまう程に、よく歩いているのだ。勇気欠乏症を患ってからしばらくは部屋から一歩も出なかったのだから、これは大いなる進捗だ。ぼくは興奮して浮き足立った。リッツォスがリッツォスらしくなってきたからだ。つまり、右折が苦手になる前の、勇気欠乏症に罹患する前の、弱々しさとは対照的な満ち満ちたエネルギーの隠し方を知らない、光るような青年に。
「リッツォス。パーティーでも開こうか。病院いらずになった記念に」
「おおげさだよ」
「おおげさなもんか!皆リッツォスのことを待ってるんだ」
 僕は待ちくたびれた主人の帰りに狂喜する犬だった。回し過ぎた尻尾が千切れたってよかった。嬉しかった。

 
 少し僕の話を書いておこう。僕が僕自信をどれほどネガティブに感じているか、個人的に客観視してみたいので。
 僕は世間体ばかりを気にしている当世風の人間で、端的に言ってろくでなしだ。誰が見たってそう言うに決まってる。けばけばしいブランドの衣服に、むせるような香水、ワニ革の上にミンクの革を縫い付けたブーツ。そのミンクも毛皮が伸びきらないように、太り過ぎないよう飼育された特別なミンクだ。偉そうな髭を生やして、胸を仰け反らせながら歩いている。時代が違えばサーベルでもぶら下げていそうな出で立ちだ。爬虫類的なギョロ目で、いつも空にガンを飛ばしている。運悪く道で遭遇したら、月に一度のデートを楽しむカップルの女の方でさえ、寝起きの一番濃い唾を吐きかけたくなるだろう。そこはかとなく漂う邪気は、愛する彼の優しいキスにうっとりした女の甘く丸い心さえも、一秒とかからず殺伐とした尖った心に変質させてしまうだろう。
 おまけに、僕は脅迫的なまでの守銭奴でもある。優しさだけが取り柄で酒も煙草もギャンブルも、仕事もやらないような、社会に寄与する何ものも持たない人間は、殺人者も同然。そんな人間が実の弟とあらば自分の社会的地位も危ぶまれると念虜している。生活出来る程度の物品を送り食べさせておけば盗みをすることも人を殺すこともないだろうと本気で信じている。リッツォスの兄は阿呆だ。馬鹿だ。すかぽんたんだ。僕は本来、他人の悪口は酒の肴にさえしないタイプなのに、自分のこととなるといくらでも悪く言えるから不思議だ。
 リッツォスの両親、つまり僕らの両親は生まれた土地で育ち、そこで今も生活している。二人とも誠実な人間で素晴らしい人生を歩んでいる。父は猟師を、母は教師をしている。大きな森の獣たちは、父の銃声で危険というものを学んだし、小さな村の子供たちは皆母の子供も同然だ。誰もが褒めそやして英雄視する程ではないにしても、両親を悪く言う人は一人だっていなかったし、今だってそうだろう。至って健康的で嫌味なところのない愛すべき田舎の小市民だ。
 リッツォスが反抗期で手の付けられない悪童だった十五歳の頃の話だが、村でのリッツォスの評判は最悪だった。父の猟銃を盗み出して、熊を撃ちに行ったことがあった。体長二メートル近いヒグマだ。幸い父が銃口を向けるリッツォスをすんでのところで発見し銃口を殴って逸らせた。弾丸は空に飛び出して、ヒグマは大慌てで逃げ出した。父はリッツォスを簡単に嗜めただけで、こっぴどく叱ったりはしなかった。機嫌を損なっている父が夕餉の茸スープに手をつけないでいる横で、リッツォスは馬みたいにばしゃばしゃとスープを飲み干した。その夜、ヒグマを撃ち損なったリッツォスは教会の鐘を撃った。ヒグマを殺せなかった腹いせに、というわけではなかった。ただ面白いことを好奇心の赴くままに自分のやりたいようにやってのけたのだった。寝しなに、「思ったより大きな音はしなかったな」とベッドの中でくすくす笑いをしながら囁くのを聞いた。リッツォスは笑うとき全身で笑った。くすくす笑いでも同じだった。二段ベッドが微かに揺れていた。あんまり楽しそうで、つられて僕まで噴き出してしまった。それを合図に二人揃って腹を抱えながら大笑いした。ベッドがこの日ほど軋んだ日はなかった。この部屋の窓からこそこそと村の女が出入りするのを目撃したことがあったから、リッツォスはその後もこっそりと何度も軋ませていたようだけど。
 この頃のリッツォスは、今のように他人の迷惑ばかりを考えて、自分のしたいことを我慢するような人間ではなかった。路上駐車する車のボンネットをトランポリン代わりにして跳ね回ったり、手製の爆弾を家畜のケツの中に入れて火を付けたりして遊んでいた。「下痢の豚がいてそいつだけは助かった。爆弾が湿気て使い物にならなかったんだ」と、リッツォスは残酷なことを言ったあと、からっとした悪意のない笑いをした。リッツォスはよく笑った。口角はいつも錨みたいにバランスよくつり上がっていた。目の下に虎猫みたいに三本の皺が浮き上がっていた。三日月型の目はいつも甘い光を放っていた。
 書き上げればきりがないくらいリッツォスは悪さをした。あんまり楽しそうで、叱る気にもならなかったけど。たった一年で恋人を九回変えた。村中の納屋に恋人と忍び込んだ。とある日の真夜中、馬小屋に入ったとき、九人目の恋人が馬の右足に蹴られた。彼女の肩の骨は粉々に砕けた。あの馬は右効きだったんだと言って、リッツォスは小さな発見を喜んでいた。

 僕ら兄弟の運命を永遠に変えてしまったあの日。僕は居間の白枠の窓辺に突っ立っていた。ガラス片みたいな雨粒が、オレンジの街灯の下で、ジープの幌に刺さっているのが見えた。雨期の湿っぽさが家の中の空気にまで重みを加えていた。父は夕刊に顔を埋めていた。母は煮えたぎる鍋に乱切りのじゃが芋を沈めていた。リッツォスが外から戻って来て、蛾の羽音さえ聞こえそうな静かな食卓についた。その時動いた空気には、女の香水の匂いが混ざっていた。茶色いサスペンダーに藁の屑が挟まっていた。父は目眩したみたいに表情を崩しながら、ゆっくりと立ち上がった。本棚に立てかけてあった猟銃を杖代わりにしたかと思うと、紫電一閃、目の色を変えた。そして、恐ろしい狂気を披露した。銃口を実の息子に向けて構えたのだ。出て行け!と、鉄を鋸で切るような声で怒鳴ったあと、不安定な呼吸を繰り返していた。リッツォスへの積もりに積もった怒りがついに臨界点に達したのだ。テーブルの上にはウォッカもウイスキーも、ビールさえ出ていなかった。そのうち一つでもあれば、すべてを酔いのせいに出来たのに。父もリッツォスもこの事態を冗談にする言葉や、アイデアを持っていなかった。換気を忘れて張り詰めて膨らんだ父の頭の中で、理性は完全にお休み中だった。やがて銃口は僕の脳髄へと向きを変えた。リッツォスを庇っていたからだ。銃口が的から的へと向く時、真っ先に動くのは銃でも腕でもなく効き目だ。渋色に沈殿した深い皺の目が、加齢に伴う隈さえも勇ましいと思われたあの目が、銃弾以上の威力で僕を殺した。背中に冷たい汗の線が一本引かれた後、充電でもされたみたいに全身が熱く痺れた。父は、相棒だったビーグル犬が狼にやられた夜にも、結膜炎で膿ばかり出していた朝にも、あんな目はしなかった。圧死寸前の爬虫類みたいな目だった。父の右足には母がしがみついていた。母は飢饉の果てに神に懇願する子供の目だった。村の教会の宗教画にこんな絵があった。絵の中で子供の濡れた目は、確か天に向かうキリストの光に向けられていた。このときの父は控えめに言っても、悪魔だった。偉い違いだ。いつしか銃口は僕の眉間にじりじりと食い込んでいた。僕はそんなことおかまいなしに悪態の限りを父のシャツに叫び続けた。目を見る勇気はなかった。唾液に色がついていたらあのシャツはどす黒く染まっていただろうと思う。僕はリッツォスを守ることに必死だった。父が撃つわけがなかった。本来は温厚で冗談好きの人好きのする人なのだ。それでも引き金は引かれた。彼の理性は理想的な父性と共に長い長いホリデーを楽しんでいた。ダイニングチェアの右後ろ足が弾け飛んだ。チェアはしばらくバランスを保っていたが、やがて足のないことに気付いたみたいにゆっくりと倒れた。父の乱心は続いて、棚に飾っていたアンティークのランプまで撃った。真鍮とマホガニーで出来ていて、アールデコのデザインが彫られていた。ダイニングチェアとランプ。どちらも僕のお気に入りだった。父は何やら自己防衛的な罵詈雑言を大声で喚き散らしたあと、空気が抜けたみたいにへたり込んだ。 
 その日のうちに、僕はリッツォスを連れて家を出た。母の蒼白く憔悴しきった表情のせいでドアを蹴破ったりは出来なかった。雨は止んでいた。ブーツはよく滑った。僕らは夜中歩いた。明け方に駅にたどり着き、草臥れた待合室で遠い朝を待った。やがて耳元で鳥のさえずりが始まり、幕を開けるみたいに空が白んできた。朝の光と特別な湿度を鼻の粘膜に感じながら、隣で寝ていたリッツォスを見た。両手足を一杯に広げて、冷たいコンクリートに貼り付いていた。大きく二回揺すっても起きなかった。もぞもぞ動いたかと思うと、続けざまに二回放屁した。僕は腐りかけたベンチの上で、膝に荷物を包むようにして抱えながら小さく丸くなって、切符売り場の上に貼ってある時刻表を凝視していた。
 村から仕事の転がっていそうな中部の町グリーダリーシティまでは汽車で四時間かかった。僕は大きな革製のボストンバッグの中に、リッツォスは大きな軍使用のリュックサックの中に、着慣れた服としるしだらけの本と少しの金とを持っているだけで、母がこっそり持たせてくれた女性用の腕時計が唯一の財産といったところだった。バーガンディの革ベルトに、落ちていた釘で穴を開けた。そうやってサイズを調整した後、シルバーの盤面を太陽に翳した。旅のシンボルみたいに輝くそいつをリッツォスにも見せた。「お前が持っていたければそれでもいい」と僕は言った。リッツォスは笑いながら、「正気の奴の方が財産を持ち歩くのに向いているさ」と言った。リッツォスは父親の半狂人的な姿に自分の不道徳的な生活全般を重ね合わせていた。確かにリッツォスは顔も性格も父親に似ていたけれど、思春期に特有の猟奇的で奔放で嬾惰な生活は狂人のものとはまるで違った。噴出するエネルギーを一つ一つ認め表現するというのは、狂気というよりはむしろ神秘だ。母が心配していたのは、僕よりも弟のことだったから、リッツォスが見ていない隙に軍使用のリュックのポケットに時計を滑り込ませた。しかし、兄のおせっかいを拒絶するみたいに鍵付きのファスナーは口を閉じなかった。「壊れてるのか?」
「うん。でも、マジックテープでとめられる」
「随分ひ弱なマジックテープだ」
「埃塗れだからね」
「ファスナーが直るまでは時計はこっちで持ってるよ。他に鍵のかかる貴重品保管所はないからな」
 僕らを家から遠ざけた父の一幕は一時的な発作に過ぎないだろう。母の顔色も直に戻るだろうし、僕やリッツォスだっていつか故郷に戻るに決まっている。それが物語のセオリーだし、物語は実人生の具体例なのだから、僕らだって自ら望まない限りはそう大きく脱線して奇妙な人生を送ることもないはずだ。そんなことを話すとリッツォスは艶の良い頬を固めてすかしたような薄笑いを浮かべた。「それならわざわざ家を出る必要はないじゃないか。近くの森の中で何日か身を潜めて、父の一時的な狂人という役が抜けたら戻れば良かったんじゃないの?」僕は言った。「もう僕は家を出ていい年齢だ。でもお前はまだ早い。三つ離れているからな。でもさ、どこに行くにしてもお前が一緒にいたら楽しいだろうなと思ったのは確かなんだ。いいきっかけだったんだよ。あれだけ派手にやられれば二三日家出してとんぼ返りってわけにもいかないしな」本当のことを言えば、僕はあの村を愛していたし、あそこで一生を終えるというのも悪くないアイデアだと思っていた。それでも、あのときは若くて、外の世界を覗くということに浮き足立たないわけにはいかなかった。風に睦む枯れ葉にさえ怯えるほど臆病なくせに、大胆に生きることには憧れがあった。大胆な生き方についての具体的なシナリオは持ち合わせていなかったけれど、リッツォスといればそれが手に入るような気がしていた。それだけリッツォスにはカリスマがあったし、いつもキラキラした光のような目をしていた。誰もが虫のように光の中で飛びたいと希求していたし、僕だって例外じゃなかった。
 リッツォスは汚れたブーツを前の座席に放り出すと、「一世紀前の飯もたまに食うと美味い」などと冗談を飛ばしながら、売り子から買った鉄のように硬いパンを齧った。紺色の褪めたベルベットのボックスシートは広く、乗客は疎らだった。リッツォスはグリーダリーシティについてのガイドブックを丹念に読み、それに飽きると詩を読んだ。それにも飽きると派手な音をたてて本を閉じた。本の隙間に押しつぶされまいと逃げる、空気の赤い顔が見えそうだった。それを合図に僕は訊ねた。「おもしろい言葉見つかった?」リッツォスはいつもの答えを役者ぶった気障な口ぶりで答えた。「利口ぶった言葉と、素面じゃ言えない言葉ばかりさ」この会話は何度も繰り返された。旅に出る以前、父と母のいるあの家にいた頃から何度も。どうしてこんな会話が生まれたか忘れてしまったけど、何か特別なきっかけがあったわけじゃない。リッツォスの本を閉じる音がいつもあんまり五月蝿くて、ぼくが皮肉のつもりで言った言葉から始まったのだったかな。どうだろう。忘れてしまった。一時的なつまらない流行がほんの少しばかり長引くことがある。この会話は二人の間でまだかろうじて流行していたのだ。くだらないことでも何度もくり返しているうちに一定の意味を持つようになる。いつの頃からか、音を合図にしてある種の合言葉を言い合うという儀式は、つまらない流行から僕らが単なる兄弟以上の特別な関係であることを確認するための神聖な儀式へと変化していった。これまでは因襲的で黴臭い儀式は片っ端から油をぶっかけて燃やしてやりたいくらいに不要なものだと思っていた。しかし、リッツォスとの儀式を経験するうちにその重要性を理解するようになった。
 たとえば、人が死んだら葬式をしなければいけないが、本来そんなものは必要ない。宗教上の取り決めがなければ誰も葬式なんか出さない。と、それまでのぼくは考えていたけれどこれは間違いだった。我々凡俗の民は儀式があってはじめて死というものを受け入られるのだ。死のように実在しているのかいないのか曖昧なものは、合図を決めて認めなければならない。そうしなければ死んだはずの人間は死んだことにならないのだ。葬式という合図には悲しみとか、涙がパックにされているから、死は永遠の別れで、暗くて悲しいものであると我々は信じ込む。儀式をすることによってはじめて人間は死ぬのだ。愛し合っている二人が結婚式をあげるというのも同じ理屈だ。儀式があってはじめて守るべき愛の実在を容認し得る。リッツォスといるといろいろと意味のないことを教えられて楽しかった。意味のないことに意味を与える遊びも楽しかった。途中の駅で停車中の車内に白い猫が紛れ込んだとき、猫は当然至極といった態度で僕の隣に座った。そうして、銜えていた鼠を膝の上にぽいっと放した。僕はこれは何かささやかな幸運が運ばれてくる合図に違いないと確信した。さらにその後、鼠が少し間を置いて手足をばたつかせたかと思うと一目散に窓の隙間から逃げて行った。それを見たときには、奇跡的なラッキーと遭遇するかもしれないと欣喜雀躍した。こんな感じで、意味のないことに意味を与える遊びは最高の遊びの一つだった。
 汽車に揺られている間、リッツォスはノートに何かを書くか、鼻歌を歌うか、手遊びをして時間を潰した。破れたシートの隙間に指を突っ込んで綿を穿り出す度に僕の鼻はむずむずした。リッツォスは田舎者のくせに埃に敏感な兄をせせら笑って皮肉を言った。「都会者のカブオスだね」
 この年代の少年にありがちなことだが、新しく始まることすべてが自分にだけは好意的な顔をすると妄信していた。無鉄砲な希望や情熱がどこに向けられるわけでもなく、車内にも、軍使用のリュックサックの中にも充満していた。一体誰のせいで知らない町へこんなに慌ただしく旅立つ必要に迫られたのかは忘れてしまった方がいいな、とリッツォスのあどけなく膨らんだ頬を眺めながら思った。開闢日和だな、と自分に言い聞かせることも忘れなかった。土埃に鱗状に黄ばんだ車窓は、一万マイル続いていそうな金色の平原を映していた。隙間風には、青草の匂いとタールの匂いが混ざっていた。僕は風景に吸い込まれまいとして、陶酔的な一場面を肺の中に大きく吸い込み、可能な限りゆっくりと吐き出した。甘く朗らかに揉みほぐすような、安らぎのエネルギーが、身体の奥か、心の奥か、もっと別の何かの奥かは分からないけど、手の届かない深いところからじんわりと滲み出すのを感じた。緊張の繊維がバラバラに解けて、これまた手の届かない彼方に溶けた。太陽は素っ裸で大胆に光っていた。僕は衝動的に若竹のような伸びをして、ぷはーと跳ねるような声を上げた。
 グリーダリーシティーは僕らが訪れた始めての町らしい町だった。独特の鉄臭さと、生臭さがあった。昼間は町にも人にも薄い靄がかかっていた。陰鬱で湿っぽく黴臭い靄。村ではまず感じることのなかった無遠慮な背徳感といった風情の気味の悪い嫌な感覚だった。夜になるとその靄が煌煌と電飾を灯した商店や昼間の陰鬱を振り払った人々の明かりで光って、町中が俄に活気づくのだった。都会というのは昼の間は概ね死んでいるのだということを僕ははじめて知ったし、人間は集まり過ぎると幽霊になるということもはじめて知った。ほんの数センチ横を通り過ぎているのに、声をかけ合うこともなければ挨拶を交わすこともないのだ。まるで魂を消失した肉体の群れが追憶の町を彷徨っているように見えた。夜が深くなって街路がつやつやといやらしく光り出すころには、僕は眠たくて立っていられなかった。体のシステムが田舎の生活に慣れきっていて、この町に来てもしばらくは都会の夜の長さを夢の中でさえ味わえなかった。 
 ほどなくして僕らは寮付きの工場に職を得た。ボールペンのクリップに溝を彫り、金の筋を入れるというのが仕事のすべてだった。クリップなんてなくてもボールペンの機能は変わらないし、金の筋なんてなくても何一つ不自由はない。三流のデザインに一流の退屈。縞模様のない囚人服そっくりの作業着には、グリスの汚れが疲れた影の残骸みたいに繊維の根っこにまでこびり付いていた。いくつもある馬鹿でかいモーターは年寄りの咳のような耳障りな音を轟かせ、錆の饐えた匂いが工場内を蹂躙していた。工員の情緒は浮遊する気体のように不安定で、一秒毎にイライラしていた。ぼくらは感覚を可能な限り鈍感にすることで、犯罪的なまでに退屈な仕事を膨大な時間の中に放り込んだ。どこもかしかもモノトーンだった。日常はいとも簡単に腐りはじめた。自己尊厳は底が見えるくらいに蒸発し、厳めしい怒号にも慣れた。些末なことで持ち上がる軋轢には軋轢で対向した。長過ぎて端まで見えないベルトコンベアーは永遠に続く退屈を象徴していた。ぼくらはすぐにうんざりした。
 生活があんまりくさくさしてきたので、適当な理由をつけて僕らは3ヶ月ほどで退職した。それからリッツォスの発案でブリージング・グレインという近くの港町でサーカスのグリズリーの世話をする仕事に就いた。グリズリーの世話というと重労働で、臭くて、危険だった。グリズリーの小屋はいくら念入りに掃除してもグリズリーの小屋以上には綺麗にならなかった。僕は手に鼻水を一切付けずに手鼻をかみ、ゴミ箱代わりのバケツの中にヒステリックな唾を飛ばせるようになった。一方でリッツォスはこの仕事を好んでいた。随分長くサーカスにくっついてグリズリーの世話をした。半年が経つ頃には、グリズリーに食われた世話人が何人もいると言って脅かしていたオーナーも僕らのことを信頼し始めた。結局、冗談みたいに巨大な糞や抜け毛の始末、大量の野菜や果物、魚や肉のカットばかりであっという間に二年が過ぎた。僕はうんざりしていた。いつまでも巨大な糞と生活し続けるわけにはいかない。猟師の息子が熊の世話なんて馬鹿げている。少し前までは殺していた連中じゃないか。残念ながら、リッツォスの意見は違っていた。檻の中でグリズリーとリッツォスが恋人同士のように顔を突き合わせているのを見る度にひやひやした。リッツォス!顔が無くなっちまうぞ!と何度言ったか分からない。団員から貰ったギターを弾いて自作の鼻歌を歌ったあと、グリズリーの達磨みたいな頭を撫でるのがリッツォスの習慣になっていた。
 あるとき、僕たちは取り返しのつかない事件を起こした。リッツォスはグリズリーのビラビラした唇から滴る涎を清潔なタオルで拭いていた。
 「こいつ不安なんだよ。ほら、顔面神経痛だ。口元がぴくりとも動かないから涎を収めていられないんだ。こんな寂しそうな目をしているのに、明日には火の輪を潜らなきゃならない。落ち着きがないと怒鳴られて鞭で打たれどうしだから身体中傷だらけだ。こんな小さな小屋とステージの往復じゃ誰だって病気になるさ」
「リッツォス、グリズリーなんか放っておけ」
「カブオス兄さん、こいつは優しいだけなんだぜ。つやつやのリンゴを毎日二十キロ貰ったって足りないくらい優しいんだ。それなのに褒めるどころか、病気にしちまうんだから、人間様のやることは偉いよ」
「リッツォス、そんなことはいいから早く出てこい。用のないときは檻に入るなと何回言えば分かるんだ」
「まだここにいたいんだ。こいつだって一人よりは気の知れた仲間がいた方が心和やかってもんだ。何だか今日は思い出話でもしたい気分だな」
「勘弁してくれよ。僕はもう眠いんだ。昔話に花を咲かせる程年老いちゃいないだろう。昔話だってあんまり新しくて発芽さえしてないさ」
「つまんない洒落だな」
「素面じゃ言えないってほどでもないだろ?」
「まぁね。
 故郷にいた頃、森で熊を撃とうとしたことがあったろう。あの熊、病気だったんだよ」
「昔話は嫌いなんだ」
「ずっと話したかったんだ。睾丸に馬鹿にでかい癌があって、外部に飛び出してたんだ。それまでに何度も森でそいつを見かけていて、いつも辛そうにしていた。あの日もあんまり痛がっていたから、一思いに殺してやろうとしたところを親父に見つかったってわけさ。もう少しうまく撃っていればな。今でもあいつあの森で苦しんでるのかな。時々、胃の辺りが鉛みたいに重くなるんだ。ちゃんと殺してやればよかった。どこまでも追いかけて行って、脳天をぶち抜いてやればよかったって、後悔しているんだ」
「それで、何年も熱心にグリズリーの世話をするのが、病気の熊を楽にさせてやれなかった贖罪だって言いたいのか?」
「分からない」
「リッツォス。昔からお前には少しばかり繊細な性質があったが、今はそれをこじらせているようだぞ。お前は罪なんか犯しちゃいないのに、犯した気になっているんだ。僕たちはこれ以上ないくらいにうまくやってる。何も考えるな。思い出は自分自身によって丁寧に細部まで捏造されているもんだ。もう忘れろよ」
「忘れられるもんか」
「おいおい。モディリアーニの絵みたいな顔するなよ。これだから昔話は嫌いなんだ」
「酷い言い草だ」

「おい!リッツォス!」

 そのとき、グリズリーが大口を開けながら立ち上がって、リッツォスの上に覆いかぶさった。僕は鉄柵を半狂乱になって揺すりながら大声で助けを呼んだが、団員は残らず宿舎に帰っている時間だった。僕は必死だった。壁に立てかけてあったモップを手に、金網の隙間から眼球を刺してやろうと狙いを定めた。なかなか顔がこちらを向かなかった。それどころかグリズリーは金持ちの家の玄関にある敷物みたいにピクリとも動かなかった。僕は息もしないで汗ばかりかいていた。肩周りの筋肉が石みたいに硬くなっていた。少しするともぞもぞとグリズリーの腹が動いた。下手な手品師が細い針金で吊り上げてるみたいな奇妙な動き方だった。毛皮からリッツォスの右手が出て来て、すぐに落ち着き払った綺麗な顔がお目見えした。
「こいつもハグが好きなんだな。いつまでも抱き合っていたいけど、ちょっと重過ぎるね。カブオス兄さん、中に入って出るのを手伝ってくれよ」
 リッツォスの血に塗れた右手にはおもちゃみたいに小さなナイフが握られていた。
「刺したのか?」
「うん。殺したんだ」
「そんな小さなナイフでグリズリーが死ぬわけがない。刺されたショックで気絶しているだけだ。まだ誰にも気付かれてない。すぐに出てこい。まずいことになる」
「もう死んでるよ」
 リッツォスは閑雅な昼に青空でも見上げるような目で笑っていた。神の尊い教えに従って、一大事を成し遂げた敬虔な信者みたいに満足そうだった。僕は調子外れのうわずった声で言った。
「そんなはずない」
 そんなはずがなかった。グリズリーは体重二百キロで、近くで見ると岩壁のようだった。あんな小さなナイフじゃ兎だって殺せやしない。
「カブオス兄さん、死にたいグリズリーは機会さえあれば簡単に死ぬものだよ」
 リッツォスの目は一秒毎に美しく透明になり、優しく光った。目だけじゃなかった。身体中が、いやリッツォスの周囲すべてが、ゆるやかに発光しているように見えた。奇妙なことだが、ほんの少しだけ、ティースプーン一杯分だけ、実の弟に対して、神に対するような崇拝の念を感じた。

 サーカスの連中に知れたら事だった。高価な備品を壊されたと分かれば面倒は目に見えていた。しかしながら、物事は考え方次第でどうにでも解釈され得るものだ。どういうわけか僕は昔から悲観的な物の見方をする質ではなかった。楽観主義者というやつだ。グリズリーがいなければリッツォスももはやサーカスに未練はないだろうし、ここから逃げ出すには良いきっかけだった。
 リッツォスにはまだ話していなかったが、僕はもっと創造的で生産的な仕事がしたかった。熊の世話人は他にいくらでもいた。町には健康的とまでは言えないまでも足腰の立つ失業者が溢れかえっていた。
 夜明けまではかなり時間があった。月は出ていなかった。これを幸いに高麗鼠みたいに荷造りをして、サーカスを抜け出す準備をした。決行の瞬間が近付くと、リッツォスは「グリズリーだけじゃなくて、象も好きなんだ」と意味不明なことを不満そうに囁きながら、二の足を踏みはじめた。
「あの象は利口過ぎて神経がいかれちまってるんだ。鼻を見ればすぐに分かる。乾いて皹割れた血の滲む鼻先だよ。あの鼻を大きくふり上げる仕草は、観客の拍手を求めているんじゃない。助けを求めているのさ。わたしをこの奴隷地獄から開放して!ってね。悲しそうなビー玉の目を見ていると、堪らなくなるんだ」
「お前まさか、象まで殺すつもりだったのか?」
「殺しじゃない。ただあの象が好きなんだ。それから目脂が目玉よりもでかくなってしまったトラ、あいつも好きだな。あいつってびっこを引いているだろう。サーカスの連中は練習中に怪我でもしたんだろうと歯牙にもかけないけど、あれは神経症の兆候なのさ。痛くもないのに痛い気がしているんだ。心気症ってやつだね」
「リッツォス、お前が好きなのは動物じゃなくて病気なんじゃないか?」
「まさか」
「そんなことより、ギターを忘れるな。すぐに商売道具になる」
 ケツを押してもまだしぶっていたリッツォスのために、グリズリーを殺したと分かったら三ヶ月の減給どころか一年のブタ箱生活は必至だとか、新しい町にとっておきの女を待たせてあるとか、品のない嘘までついてなんとかかんとかその晩のうちに逃げ出すことに成功した。しばらく海岸を走った。深く暗い海が囁くように波を鳴らしていた。サーカス小屋から町の中心まで明かりはほとんどなかった。三時間程歩いて、町に着いた。商店は軒並みシャッターを下ろしていて、夜更かしのためのランプが数軒の家から漏れている以外に明かりらしい明かりもなかった。今、自分たちがどこの町にいるのか分からなかった。
 力なく光る蒼白い街灯に囲まれた駅前に、色の褪めた観光案内の地図があった。地図の言うことを鵜呑みにすれば、グリーダリーシティーから汽車で二日もかかる場所にいるらしかった。湾口に立てられていたサーカス小屋は週末ごとに他の町に移動していた。そのせいで自分たちが今どの町にいるのか気にしなくなっていたのだ。どこにいたっていつも同じことの繰り返しだったし、サーカスの片付けが終わって飲みに出掛けるのもいつも同じような酒場だった。そんな退屈な生活ともおさらばだ。 
 汽車を待つ間、暁の湿った空気の中に横たわった。足下から滲み出す安堵の波に攫われながら、創造的な仕事について考えた。二人で出来て飯を食えるような創造的な仕事。アイデアは捻りだすまでもなくいつでもこの掌に握られていた。
 リッツォスはギターを上手く弾く。僕は詞を上手く書く。おまけに僕たち兄弟は小さな頃から山の中で熊避けの歌を毎日歌っていたし、村の聖歌隊のメンバーでもあったから歌には自信があった(もっともリッツォスは娘目当てで参加していたのだが)。聖歌隊の評判は上々で他の村の教会にまで呼ばれた。バランドという隣村に行ったときは、たまたま居合わせたパイプオルガンの演奏家が僕らの歌に驚いて、急遽教会にレコーディングエンジニアが呼ばれた程だった。僕らはミュージシャンとして曲を作り、詞を書き、大勢の観客の前で演奏する。始めは苦労するだろうが、僕には自信があったし、リッツォスには才能があった。遠からずうまくいくのは目に見えていた。グリーダリーシティーへ向かう汽車の中でリッツォスに計画を打ち明けた。「ミュージシャンになるぞ。レコード会社を端から漁ろう」
 グリーダリーシティーには国中に知られたレコード会社が五社もあった。「ミュージシャンか。悪くないなぁ。でもレコード会社に行く必要はないよ」
「どうして?」
「大衆ではなくて個人を相手にするのさ。べらぼうな儲けは望めないだろうけど、それなりにはやっていけるはずさ。例えば、皮職人の息子と、農民の娘の結婚式でその場限りの特別な歌を歌うんだ。穏やかに流れる川の側にある小さな白い教会で、世界中の誰も知らない曲を新郎新婦のためだけに歌うのさ。特別な日には誰にも奪われない特別な曲が演奏されるべきだ。そんな音楽があれば、結婚式はまたとないものになるだろうし、僕らの評判もすぐに広まるに違いないだろ?」
「そのアイデアいつから持っていたんだ?」
「たった今だよ」
「最高だ」
「こちとらサーカスの動物と同じくらいギターが好きなんだ。いつでも熊の神経について考えているとでも?」

 商売を始めて半年はたいした仕事もなかったけれど、一年も経たないうちにまともなレストランで飯が食えるようになっていた。個人相手の文化芸術活動は想像以上にうまくいった。仕事依頼の多くは、冠婚葬祭を印象づけるための環境音楽の提供だったが、かなり個性的な仕事もあった。
 婚約破棄されたショックで、感情を失った娘のために、曲と詞を作った。あの曲は格別に良かった。コード進行も旋律も最高だった。嫌らしくないポップさで、アンニュイで、詩的だった。(有明の月に濡れた青い花にそっくりな)Eコード、(荒野の冷たい風の中で一人立ちすくむような)C♯マイナー、(唇を噛み締めて前を向くような)G♯マイナー、(力強く一歩を踏み出すような)Aコード、(ざくざくと枯れた地面を刻んでいくような)Eコード・・・。リッツォスはギターで伴奏をしながらコーラスをした。必要とあらば踊りまで踊った。僕は詞を書き、主旋律を歌った。娘と婚約相手の思い出の噴水の前で演奏した。見覚えのない大道芸人の登場に、広場の人々は冷たい視線を向けていた。そんなことおかまいなしに、僕らは依頼者の娘のためだけに全生命でもって歌い尽くした。

 あなたのこと 勘違い していたみたいだわ
 近頃じゃ私 項垂れて 部屋の隅 湿っぽくて嫌になるわ
 苔むす夜 黒目色 嗚呼迷路 飴色の青春
 教会の鐘のあの音色 いじらしく この空気 震わせてる

 憂鬱フルーツパールパーラーで
 静かなパトス
 桃色の溜め息で膨らんで
 寂しい風船が浮かぶ野原を探してたゆたう

 あなたのこと 勘違い していたみたいだわ
 悪口を言うわ 心から 言ってやる 
 泣かないわ さよならよ

 演奏が終わって、まだ音の残響があるうちに、涙で顔を崩した娘が礼を言った。喉が擦り切れるんじゃないかと心配になるくらいに、何度も、何度も。娘が顔を上げたとき、ドキッとした。憑き物が落ちて、凛と生きている人の目をしていたから。演奏前の陰鬱さはすっかり消失していた。そう思ったのは僕だけじゃなかったようで、この日を境にあの兄弟の曲には魔を払う効果があるという噂が立ちはじめた。さっきまで冷めた目をしていた人々の表情にも生気が溢れていた。いつの間にこんなに人が集まったのだろう。群衆は声や仕草でもって次の曲を求めていたが、僕らはほんのお愛想程度に自己紹介をしただけで、すぐに帰り支度に入った。人の川を渡って広場から出るまでに、十二件の仕事依頼があった。僕はメモ用紙に依頼人たちの情報を走り書きしながら、ふと隣を見た。リッツォスは新しい花のように笑っていた。僕は嬉しかった。仕事がうまくいきかけているということ以上に、リッツォスが楽しそうにしているのが溜まらなかった。あー僕は村の娘たちと同じだ。彼女たちもリッツォスの笑顔見たさに面白い話を作っては聴かせていたっけ。僕は自嘲気味ににやつきながら安心の息を吐いた。
 この娘の件以外にも個性的な依頼があった。叶わぬ恋に悶え苦しむ青年からのSOS。青年は中部一の財閥、リガート財閥の娘に恋をしていた。青年は少し前までパン職人をしていたが、ぼくらに仕事を頼みに来たときにはホームレスだった。娘は以前に彼が勤めていた店のたった一度の客だった。いつも同じ客ばかりの没個性的なパン屋にある日、何の前触れもなく光のような彼女は現れた。そりゃパンを買いに行くのに電話の一本も入れなくちゃならないという理屈はない。だから、何の前触れもないのは当然だと思って、僕は青年の話に耳を傾けていた。しかしながら、彼にしてみたら運命の相手と出会うときには、何かしらの合図があるものだと思っていたらしい。例えば、道ばたで白い蛇に出会うとか、夢に白い象が出てくるとか。何はともあれ娘を見た青年は全身が太鼓になったみたいにドキドキした。そんなことは未だかつてなかった。青年は焼きたてのマフィンのカップに一言書いて娘に渡した。何を書いたのかまでは教えてくれなかった。それから、たった一度だけ手紙のやり取りをした。それだけで青年はのぼせ上がってしまった。そして、娘をものにしたい一心で、今よりも実入りの良い職に就かなければならないと不幸な早合点をした。青年はパン職人を辞めた。が、残念ながら、金回りが良くて見栄を張れそうな仕事は、簡単には見つからなかった。青年は職を失い、恋の成就も儚い夢と化す寸前だった。青年は日に日に呼吸が浅くなって息苦しくなっていった。目につくものを端から敵対視するようになり、善良な野良猫に空き瓶を投げつけることさえあった。それでも青年の娘への情熱は燃え盛る一方だった。過呼吸の波の中でさえ、娘の輪郭が消え去ることはなかった。やがて精神を病んだ青年は、身を焦がす金縛りの連夜を過ごすようになり、ほとんど眠れなくなった。恋の矢が鉄の槍に変わって、まだ若い心臓を一秒毎に刺し貫いた。青年は憔悴しきり、いつ自殺しても不思議はないといった状態だった。素晴らしい友人が楽曲の依頼を持ちかけてくるのがもう少し遅ければ、僕らはとっておきの曲を真新しい墓石に歌うことになっただろう(実際に墓石に歌ったことも何度かあった。墓石さえない川の濁流に向かって歌ったことも)。この曲を作った時のリッツォスの顔は忘れられない。手応えがエネルギーになって全身から噴き出していた。今まで作ったどの曲とも似ていなかった。ユニークで革新的なコード進行と旋律だった。(一度だって開かなかったドアが、ふとしたきっかけでいとも簡単に開いてしまったような)Cadd9、(悩み抜いた過去を振り返って笑い飛ばしたくなるような)C♯7、(感受性の生まれ変わる気配を秘めたような)F♯マイナー、(運命的に切り裂かれた雲間から光の手が生えるような)A7、(優しく野原の草に触りたくなるような)D7、(草からは希望の汁が垂れているような)C♯7、(それを恐る恐る少しだけ嘗めるような)B7・・・。
 僕はリッツォスの名曲を台無しにすまいと幾晩も詞を捻り続けた。いくら書いても満足のいくものが出来なくて、随分と青年を待たせた。楽天家の僕の心にも焦燥感の苦い靄がかかるようになった。こんなに書けなかったことはなかった。イライラしていたし、多少正気を失っていたかもしれない。しかしながら、いつ何時でも神は我が子を愛した。とある朝。起き抜けに、何の前触れもなく青年の心が乗り移ったようになった。僕はほとんどトランス状態になって、一息に歌詞を書き終えたのだ。運命の相手と出会うときと同じように、奇跡が起こるときにも合図はなかった。痺れるような体験だった。完成した詞もこれ以上ないものだった。

 へっぽこ仮面が泣いたから
 僕は悲しみの傘をさす
 夕焼けこんこん
 雨さんさん
 心が排泄物を出す

 マジックテープにこびり付いた
 愛だってあんだぜ
 埃の隅でじたばたしてる
 夜だってあんだぜ

 左手の指がゆらゆらと
 君に触れている夢を見る
 燃える舌先がびらびらと 
 探しているのは夢の中

 マジックテープにこびり付いた
 愛だってあんだぜ
 埃の隅でじたばたしてる
 夜だってあんだぜ

 ラッカー塗装の人間よ
 クラックだらけの神経よ
 だまになった愛を解いてくれ
 冷たい悲しみ歯に染みる

 屢々物事は完璧なタイミングで起こるものだ。詞を書き終えた直後、僕は散歩ついでに例の没個性的なパン屋に立ち寄った。そこで、リガート財閥が近くの広場で演奏会を主催するという情報を得たのだ。世界中から有名なミュージシャンが招待されるという。演奏会当日、観客席の最前列には例の娘が座っていた。どうやって僕らがそこに潜り込んだかと言えば簡単なことで、他のミュージシャンの出番が終わって転換する間に、ステージの上にしれっと上って堂々と歌いはじめたのだ。人間なんて単純なものだ。身なりを整えて胸を張って歩きさえすれば誰だって一流に見える。僕はまずタイトルを叫んだ。「リガート嬢に捧げる、パン職人からの手紙」さすがにのろまな警備員も異変に気付いて止めに入ったが、早々に撤退する羽目になった。というのも、この頃には僕ら兄弟も中部ではかなり有名になっていたから。観客の中にも顧客が何人もいた。その中には町の有力者もいて、彼らが聴かせろと言えば、誰もノーとは言えないのだった。演奏のあと、僕とリッツォスはリガート嬢と目を合わせて会釈だけして帰った。会場のどこかには青年もいたのだろうが見つからなかった。後日、依頼人である青年の友人から礼の手紙が届いた。彼によると青年はすっかり健康を取り戻し、おまけにリガート商船への就職まで決まったのだという。それはもちろん娘の計らいで、彼らはそのうち両親公認のカップルになるだろうという内容だった。
 すべてがうまくいっていた。しかし人生はバランスを取ることに必死だった。良いことも悪いこともバランスよく起こらなければならないということを僕は学びはじめていた。この頃、リッツォスの非行が再燃し、酒や葉っぱやドラッグを何よりの友とするようになっていた。悪い友人を何人も作るようになったし、女を買うことにも抵抗がなくなっているようだった。それもこれも全部、僕のせいだった。酒を飲むと誰彼なしに仕事の愚痴を言うようになっていたし、こんな儲からない個人相手の仕事より、もっと大衆に向けて創作するべきだと嘯くようになっていたのだ。リッツォスはその言葉を何よりも恐れていた。今の仕事にやりがいを感じていたし、必要以上に多くの金を持つことを嫌っていたからだ。持つ者が生まれれば、持たざる者が生まれる。リッツォスはその真ん中にいたかったようだが、そんな嬾惰は臆病者の自己防衛に過ぎないじゃないか。僕は言葉の続く限りリッツォスを説得した。幾晩も、幾晩も。ヒエラルキーピラミッドの真ん中を目指すなんて馬鹿げている。何のために頂点があるんだ。リッツォスが兄の提言をいつまでも無下にしておくわけがなかった。リッツォスはいつだって兄を信頼していたからだ。僕は知らぬ間に、少しずつリッツォスからエネルギーを奪っていった。その気になればレコード会社五社はいつでも戸を開けて待っていた。どうして背を向け続けられる?花は陽の方へ、人は金の方へと生きるのだ。錬金術を持ちながら、いつまでも隠しておくことなんてできるわけがない。
 こうして僕たちのささやかな青春は終わった。そして、ビジネス音楽の世界へ大いなる船出となるはずだった。この浅はか過ぎた目論見は間抜けな程あっけなく崩れ去った。レコード会社からたった一枚の音源を出しただけで、リッツォスは精神を病んだ。勇気欠乏症の発作を起こしたのだ。環境の変化なんて想像がついたはずだが、想像以上に悪魔だらけの世界に一人の天使が魂を洗う場所を失ったのだった。僕も妄想を逞しくするようになった。ほとんど一秒毎に、顔面神経痛のグリズリーや、鼻の乾ききった象、心気症の虎が思い出された。連中はリッツォスの完璧な比喩として、病んだ唾液をまき散らしながら僕の決断を脅迫的に責めた。
 それでも僕は一人で仕事を続けた。詞を書き、でたらめなギターで嘘っぽい曲を書いた。体裁を保つくらいの旋律を捻りだすのがやっとだったし、楽曲はどれもこれも酷い代物だった。しかし、一度リッツォスの音楽に惑わされた民衆は兄である僕をも見捨てはしなかった。いや、リッツォスの作ったもの以上に僕の作品は売れてしまった。これがまずかった。リッツォスは必要以上に深く傷ついて、部屋からほとんど出なくなった。
 ある雨の日のこと。窓を閉め忘れたせいで、工場からの鉄の錆びた臭いが家中に充満していた。玄関にぽつねんと立ちすくむリッツォスがいた。溜まった財産を一杯に詰め込んだズタ袋と裸のギターをだらりとぶら下げていた。リッツォスの乾いた表情。僕はこの顔を忘れられない。
「そんなところで何してる?どこ行くんだよ?」
「無能な弟に分け前なんてあるはずがない。金もギターもカブオスのもんだ。もう弾くこともない」
 僕はリッツォスの感情を逆撫でしないように、冷静なふりをして言った。「村へ帰ろうか。お前は疲れ過ぎてる。もう潮時なんだ。家に帰れば身体が良くなるまで何年だって休んでいられるし、回復したら猟師になればいい。言わなかったけど、僕はあの森が大のお気に入りだったんだ」
 リッツォスはかぶりを振り、もう二度と熊を殺したくないと言って、ズタ袋とギターを同時に床に放り投げた。金属が発狂したような酷い音がして、埃が波みたいに舞い上がった。リッツォスは鼻を啜りながら下を向いていた。僕は気持ちを落ち着かせようとして、リッツォスに悟られないように三度鼻だけで静かに深呼吸をした。そして、三度目の空気を吐き出すときはっとした。持病の鼻炎が完治していることに気付いたのだ。随分環境が変わった。立派な髭が生えるようになっていたし、街中の溜め息の意味を知るようになっていた。華やかで、勝ち気で、エネルギーの塊みたいだったリッツォスは酷く弱ってしまった。光るのをやめた裏通りの街灯か、病んだサーカスの動物のようになってしまった。リッツォスはホームレスになると宣言して、何も持たずに出て行った。次の日には本当に川縁で寝はじめた。生活排水に汚れた茶色い川の、リッツォスが寝床と決めた巨木の裏には、グリーダリーシティーでただ一つの教会があった。しばらくは気になって、僕はリッツォスを遠くから観察していた。リッツォスは落ち着かない様子で遊歩道を行ったり来たりしていた。頭を股に押し付けるみたいにして胡座をかきながら揺れていることもあった。教会の鐘が鳴ると、さも自由を謳歌しているみたいに、空に伸びをして石の地面に横になった。かと思うと、急に立ち上がって行く当てもなしに走り出したり、奇声を発したりした。正常じゃなかった。朝になると人々が起きる前に近くのゴミ箱をがさごそとやり、食いかけのパンとか、フライドチキンを拾い上げて空腹を誤摩化していた。僕は自分が何をどうすべきなのかさっぱり分からなかった。金を渡しても川に捨てられてしまうだろうし、食い物を渡しても同じことだろう。リッツォスの病の原因は、疑いようもなく兄である僕にあるのだ。
 散々思案した果てにリッツォスの漁りそうなゴミ箱の中に懸賞の雑誌を捨てて歩くことにした。絶望に飽きたら誰だって生き始めるものだ。そうなればたまたま見つけた些末なアイテムでも希望の種にするだろう。僕は実りを信じて植え続けた。郵便屋に週末の酒代とレジャー代をまかなうくらいの瑣末な賄賂を払えば、リッツォスがどの懸賞に応募したのかが分かるだろう。その情報を基にいろんな品を方々へ注文すればいい。おめでとうございます!当選しました!という派手な色の手紙を添えて。
 いつかまた兄弟で仕事をしたいとか、金を稼ぎたいとかそんな欲はもう枯れ果てていた。リッツォスが生きてさえいれば良かった。きっかけさえあれば彼の大好きな神経症ともおさらばしてくれるはずだ。僕は人でごった返す商店街を歩きながら何気なく腕時計を見た。母から貰ったバーガンディの皮ベルトの時計はずっと昔に売り払ってしまっていた。今では目の痛いような金色のギラギラした時計がその代わりだった。なんて冷たい材質の時計なんだろう?どうしてこんなの買ったんだっけ?どうしてあの時、リッツォスの鞄に母の時計を入れなかったのだろう。弱々しいマジックテープでも、僕の心よりは強かったんじゃないのか。ちくしょう。どこでボタンを掛け違えたんだ。村を出たところか?サーカスを仕事場に選んだところか?リッツォスにギターを持たせたところか?違う。僕が強欲になったからだ。どうしようもない俗物に成り下がったからだ。ふいに自己憐憫の気怠い痺れが足下から上がって来るのに気付いた。一瞬で地面が目の前に迫って、額に刺さった。一呼吸置いて顔を上げた。にやつきながら見下ろしている通行人と目が合った。一人や二人じゃなかった。僕を囲むようにして固まった野次馬の群れが、一人の落伍者に憐れみと嘲笑の眼を向けていた。血流が混乱しているみたいに全身を猛り回っていた。後頭部が病的なまでに熱くなっていた。僕は腕時計を石畳に思い切り打ち付けた。ガラスが割れて手の甲が真っ赤に染まった。破片に拳をぐいと押し付けた。身体中を切り刻んでしまいたかった。汚い川に投げ捨てられたってよかった。イメージの中でバラバラにした肢体は、互いに反響し合いながら不快感を共有していた。ぐにゃぐにゃした空間の溝にひとりぽっちで置き去りにされたような不安感が、胃袋を鉛みたいに硬くした。どこからかやって来た得体の知れない恐怖心が、弱い心を快適な住処に選んだ。身の捩れるような後悔には、吹く風の一筋さえなかった。僕はどうすればいいのだろう。緑灰色の空を仰いで、母さんの名前を囁いた。分厚い雲の奥に、父さんの顔を笑い顔にして思い描いた。僕の目は海になっていた。光のない寂しい深海だ。雨が降ってきて、人々はそれぞれの場所に足早に去っていった。僕も帰ろうと思った。

 どこに?

 重たいブーツが地面に張り付いていた。雨音が遠い幻のように響いた。沈黙を含み佇む夜は、この手で照らすにはあまりにも暗かった。「確かにこの手は星の形をしている。だけど、てんで光らない」そう呟いたあと、怒濤の大波のように、ほとんど脅迫的にリッツォスの笑顔が見たくて溜まらなくなった。僕は血を吐くみたいにして叫んだ。

「汚れた世界を拭いた雑巾!それを絞ったような灰色の雨!とくとくと降る悲しみ!僕は悲しみの傘を探している!煙る幽霊のように当てもなく歩いている!ちくしょう!」

 そのとき、ブーツの紐が解けているのに気付いた。いつから解けていたのだろう。ぼくは濡れた紐を震える手で結んだあと、すぐに解いた。それからまた、結び直した。それを何度も繰り返した。解いては結んだ。同じ動作しか出来ない薬局の前の人形みたいに間抜けだった。どうしても第一歩が踏み出せなかった。それでも僕は歩き出すことに必死だった。

 最後に、一編の詩を記しておく。混迷の中で書かれた詩だし、今更読ませるほどのものではないのだろうけど。リッツォスが音を立てて本を閉じ、にんまりとしながら、あの頃の合言葉を言ってくれるんじゃないかという期待がある。『利口ぶった言葉と、素面じゃ言えない言葉ばかりじゃないか』って。リッツォスがまるで、光そのものだった頃の合言葉を。
 リッツォスの勇気欠乏症もだいぶ良くなった。今は再び光り始めたリッツォスのことを祝っていたい。


 右折の苦手なリッツォスへ。愛を込めて。


 この後に詩を書き記していたのだが、削除した。リッツォスが、そんな恥ずかしい詩を書き残さないでくれって本気で懇願するので。


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