イケメン神話の崩壊
お笑いを見て「面白い」ではなく「なぜ?」という疑問を初めて持った経験がある。12歳の私だ。
それは2005年のM-1グランプリをリアルタイムで見ていたときのことである。お笑い好きなら「2005」という数字だけで「ブラックマヨネーズ」を連想できるであろうし、人生のメモリ容量をお笑いに多く割り振っている人なら「3378」まで芋づる式に想起できるだろう。(その年の出場組数である)
ただ私が疑問を持ったのはその年の覇者ではなく、翌年トロフィーを高く掲げることになるチュートリアルである。
チュートリアルに属する徳井さん。向かって左側に立つイケメンである。イケメン。そうイケメンなのだ。その造形の美しさが当時の私を悩ませたのである。2005年のチュートリアルの漫才を見たことない人に簡単に説明すると(漫才を簡単に説明しようなんざ無礼だと自負はしている)、バーベキューに行きたいと切り出す福田さんに対して、イケメンの徳井さんがバーベキューの作法・極意を福田さんに指南していくという漫才である。話が進むにつれ徳井さんのボルテージが上昇していき、その語り口や表情に気持ち悪さが表出する。
気持ち悪さ。そう。これ。
何でこんなイケメンが人前で(それこそクリスマスの地上波ゴールデンで)堂々と自身の気持ち悪さを露呈させているのだ。友達だって元カノだっていつも通うパン屋のおばちゃんだって見ているかもしれないというのに。
当時小6の自分が属していた6年2組ではイケメンは常に頂点に君臨していた。
イケメンはヤンキーになる。イケメンはサッカーをする。イケメンは勉強をしない。イケメンは多くを語らない。我がクラスのイケメン4大原則である。イケメンはこれを守りさえすれば周りからチヤホヤされる。
「共にイケてる集団を作り平和を築きましょう」と、イケメンに手を差し出し同盟を結びたがる女子から。
「こいつらは俺が指導しないとダメだな全く」と、自分の立場を過剰に高く見積もっている先生から。
「こいつについて行けばおこぼれもらえるぜ」と、イケメンが持つその価値にいち早く気づいた男子から。
自分はというと、近くとも遠くともない位置からただただ羨望の眼差しをちらちら送るのみであった。
「黙っていたらモテるのに」どの時代になっても定型句として使われるこの言葉は、イケメンに産まれ落ちた時点で周りから好かれることが確定していることを表している。減点さえしなければ。
人の気持ち悪さを笑う光景は小学校でもたびたび見られたが、気持ち悪さの震源がイケメンであることは決してなかった。その役割は炊き出しのようにクラスのみんなに順番に配給されていく。イケメンはその列には並ばない。
テレビの前でチュートリアルの漫才を見ていた私は不思議で仕方がなかった。というより心配で胸がソワソワしていた。大丈夫?嫌われちゃうよ?なんでそんなことするの?黙っていたらモテるのに。
気持ち悪さを全国民に知らしめてまで、笑いを取ろうとしているこの人の目的はなんなのだろうか。イケメン原則を破ってでも得たい何かがある、それほどまでに魅力的な職業なのであろうか。
その後中学・高校・大学と進学していくにつれ、イケメン神話の脆弱性に気付くことになるのであるが、この時の私には神は1人しかいなかった。
徳井さんと近代BBQの父トーマス・マッコイの存在により、私はお笑いというものに深く夢中になっていくのであり、今私は芸人として活動するはめになっている。
わざわざ読んでいただいてありがとうございます。 あなたに読んでいただけただけで明日少し幸せに生きられます。