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【 自作小説投稿 】「黒い巣」

 私は子供の頃から少々、胸に病の巣を持っ
ていた。たまに咳に血が混じる事もある。激
しい運動とかは出来なかった。小学校の低学
年くらいの頃から体育の授業はほとんど見学
していたからか、寂しい想いをしていた記憶
がある。ただ、そんな生活が普通になるにつ
れ、そのリズムに慣れて来たのか、ゆっくり
と生きる事の楽しさがわかってきたような気
がする。秋の並木道でゆらゆら揺れながら落
ちて来る木の葉をじっと眺めながら、晴れた
空から流れ込む光と風の流れを観察する一日
に憂鬱さを感じることもなく若き日々、激し
く過ぎ去るような感動はないもののそれなり
の充実感を感じながら生きて来た。

 「肺の病巣ですが、以前と比べても拡大し
てるのは確かです。まあ、でもちゃんと栄養
を摂っている限りそんなに急激な進行はしな
いでしょう。」

胸の病気のせいで今でも定期的に病院に通っ
てはいる。しかし一向に治っていく気配はな
い。ほとんど薬をもらいに行ってるだけのよ
うな感じで、空しさを感じずにはいられな
かった。

 『どうせ治らないんだろ』

そんな諦めの感覚を覚えながらも、病院に通
うことを止める事は出来なかった。死にたく
はないのだろう。こんな消極的な生き方しか
出来ないのに、それでも死ぬよりはましだと
思っているのだろう。いや、心ではそんなこ
とは思っていない。身体が、生きている身体
がそれを認めないのだろう。自分という現実
が全て、この胸の病巣というものによって支
配されてる感覚。

 そんな私だが、人並みに恋などもしてきた。
女性と付き合った事もある。しかし、そうや
って女性と付き合ったりするたびに、何か胸
の奥からじわじわと沸き上がるような負い目
を抑えられずにはいられなかった。理性では
わかっていても感情に訴えてしまうようなこ
とも絶えなかった。何か寂しく感じながら、
お互い結局何もわかりあえなかったような漠
然とした絶望感に身体を縛られながら彼女達
と別れていった。きっと彼女達は、私のこと
を哀れんでいたのだろうという意味のない被
害妄想に苛まれながら、自分の欲望を押し
殺していた。

 そんな私も大学生になるくらいの歳になっ
た。私学の文学部に入った。ただ、積極的な
理由があった訳ではない。かぶれていたかっ
ただけかも知れない。昔から小説を読むのは
好きだったし、好きな作家なんかもいる。た
だ、なんとなくそんな自分が嫌だった。そう
いう感覚を持ちながらも、学生として生活し
ていくにつれて、心は落ち着いてきて、こう
やって生きているのも楽しいものだと今は
思っている。

 そんな生活の中、また一人の女性と付き合
うようになった。彼女とはあまり負い目を持
って付き合いたくないから、なるべく明るく
付き合うようにしているし、それ故にかお互
い別に何も気にすることなく爽やかな交際が
出来ているように思う。ただ、普通に彼女と
触れあってる時に、決まって胸が疼いて来て
しまうのである。咳き込んだ時に吐く血の量
が日に日に増えている。平常心を装えば装う
程焦りのような重圧感が胸を締め付けた。

 胸の病巣が日増しに大きくなっている。レ
ントゲンの写真を見たら、黒くどんよりとし
た陰が私の胸を覆い尽くそうとしているかの
ように。そして、それ以上に日を増してこの
黒い陰の中から沸き出して来る熱い肉欲を感
じずにはいられなくなっている。この欲望の
黒い渦の中から何か悶える程の熱となって溢
れて来る。ふと彼女の髪を触る時、背中に手
を延ばす時、汗をかく位の衝動が胸をかき回
していく。わかってもらいたいとか、そうい
う問題ではない。ただ、彼女の身体を支配し
たい、股間から心の奥底まで全てを無茶苦茶
にしたいという、抑え難い欲望があるだけ。
頭でそう考えているんじゃない。自分でそう
思っている訳ではない。身体がそう叫んでい
るのだ。胸の奥の黒い渦が足先から手の先ま
で支配しようとしているのだ。そうだ。胸に
棲み着いているこの黒い病巣は、私を支配す
るためにずっと私の中にいるのだろう。

 時々、胸の黒い病巣が、私に何かを語りか
けて来る。何と言っているのかはわからない。
ただ、その言葉ともとれない呻きの中に全て
を埋めている時が、今の唯一の安堵の時に
なっている。


(1999年執筆)
見つけられた誤字脱字のみ訂正。
漢字変換無しなどは当時の自分の
判断を尊重しそのまま残しています。

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