猫には9つの命がある
家飲みはあまりしない主義だけれど、どうしても飲まなくてはならない夜もある。
隠してあったボウモアをグラスに注ぎ、コーヒーの用意をする。本当はビル・エヴァンスの『ポートレイト・イン・ジャズ』が聞きたかったけれど、CDがどうしても見つからない。お湯が沸く前にと急ぎ、とりあえずインターネットで探して流すことにする。
すべての準備が調ったらベッドに座り、照明を暗くする。ウイスキーを口に含んで眼をつむり、「枯葉」というよりはクリスタルの破片により近しく思えるほど鋭く硬質なピアノリフが僕の血管を巡り、心臓を傷付けていく快感に浸る。
アイツを忘れるため?
いや、心に刻みつけるため。
どちらも必要ない戯れだ。
どうやってもアイツは、まだここにいるのだから。
保護猫のカンタービレ(ター)が家に来たのは2007年。大河ドラマで『風林火山』をやっていた年だ。先住猫のヴィルヘルム(ヴィル)とはほぼ同い年で、元気に仲良く「川中島の合戦」を何度も繰り返していた。
先住の特権ともいうべきか、かなり多くの領土を共有地として分け合いながらも、「山の手」の一等地はヴィルの独占だった。タンスの上の高台はヴィルのもの。椅子の上がヴィルならその真下はターで、ヴィルの長い尻尾が顔にかかるので、いつもじゃれついていた。
例外はお風呂場と僕のベッドで、冬場はお風呂の蓋の上に二人並んで寝ていることもあった。僕のベッドは上下で分け合うこともあったけれど、大抵は二人とも上に上がって、枕側と足側にそれぞれ寝ていることが多かった。肝心の僕の場所が、残されていなかったけれど…
そのベッドに今、ひとりで寝転んでいる。
口に残るピート臭が鼻から抜ける。濃い目のコーヒーを舌で転がし、飲み下す。そしてまた、アイラを舐める。アルコールに爛れる舌。焼ける胸。
それでもまだ、冷たくなったターの感触を消し去ることはできない。
ヴィルが死んだのは、8年前のこと。
塩分の多い煮干しが好きだったし、ヨーグルトも好きだった。加減して食べさせたつもりだったけれど、やはり良くなかったのだろう。図々しく見えていろいろ気を使うヤツだったから(獣医さんにも「神経質な子」と言われていた)、いつの間にかストレスが溜まっていたのかもしれない。腎臓を悪くして、げっそりとした姿になり、燃え尽きるように逝ってしまった。
そして、ターは(猫としては)一人残された。
最初はいなくなった友を探しているようだった。ベッド、クローゼット、風呂。いそうな所を探す。ヴィルの縄張りだった窓際の日向に陣取ってみても、取り返しに駆けてこない。ご飯を食べていても、「味見」しにこない。ひどく静かで、ひどく寂しい。
頭のいい猫だから、時間が経つにつれて察したのかもしれない。いつしか一人に慣れ、ヴィルの縄張りだった日向をターが使うようになり、人間にも以前より甘えるようになった。
それでもヴィルのいくつかの縄張り(タンスの上、椅子の上など)は、聖別されているかのように寄り付かなかった。あるいはたまに、誰もいない廊下に向かっておもむろに走ることはあった。もしかしたら僕には見えないだけで、「いた」のかもしれないし、「来た」のかもしれない。
そんなターにも、来る時が来た。
3年前に頭のガンを取る手術をしてかなり弱ったけど、そこからうんと回復して、普通に生活できるようになった。当時15歳ぐらいでなかなかの高齢だったのに、「強い子」だと獣医さんも感心していた。
しかし、それでもやはり老いは来る。年を重ねるごとに行動範囲は狭くなり、寝ている時間も長くなった。たまに走ることもあるけど、よたよたと歩くことが多くなった。
それでもなんとか、冬は越えたのだ。ヴィルが真冬の寒い時期に一気に体調を崩したから、冬さえ越えればターもまた一年生き延びると、思い込んでいた。
しかし今年の季節は、あまりに気まぐれで、あまりに意地の悪い悪女だった。暖かくなり、春が訪れたと思ったらまた寒くなり、雨が上がって晴れたと思ったらまた雨が続き、肌寒さが戻ってくる。そのせいかはわからないけれど、ターは少しずつ、確実に弱っていた。
最後の一週間は人間のいるソファーに上がってくることもなく、食欲がないのかご飯を食べにベッドから出ることもない。大好きだったチュールを口に持っていっても、一本は食べられず、残してしまう。晴れた日には日向ぼっこしたくて窓際に向かうけれど、それとトイレ以外ではほとんど寝たきりになってしまった。
そして、土曜日。
思えば朝からおかしかった。チュールもほとんど食べないし、寒い日だったからベッドをヒーターの前に移動したけれど、体が一向に暖まらない。体を撫でてやると喉を鳴らして喜ぶけれど、声に力がない。いつも以上に弱っていた。
最初は寒い日だから少し弱っていても、暖かくなれば良くなると思っていた。あの手術に耐えたのだから今度も大丈夫だろうと、過信していた。
しかし、日向ぼっこに窓際のベッドに移動しようとする時、初めて異変に気付いた。いつも以上に歩き方がぎこちなかったし、ベッドに上がろうと踏ん張った時、体を支えられなくて倒れそうになったのだ。
すぐに体を抱き抱えた。元々抱かれるのが嫌いな猫で抵抗するのだが、それがなんとも弱々しいのだ。いつもなら身体中の力を振り絞って滅茶苦茶に暴れるのに、今は手足を伸ばして突っ張るのが精一杯、それも力なく、である。
ベッドに寝かせて体を触る。手足が、明らかに冷たく、固い。血が通っていないようだ。
手術時の検査で、心臓が悪いとは言われていた。薬を飲ませようと努力したのだが、食べ物に混ぜてもきづいて吐き出すし、無理矢理飲ませるのも難航して、最近は呑ませられていなかった。心臓が悪いから血がうまく循環しなくて、手足が麻痺してしまったのかもしれない。体と腹はまだかろうじて温もりがあるが、それでもかなり冷たい。なにより、顔に覇気がなく、ぐったりとしている。食べ物はもちろん食べられず、水で口元を濡らしても、それを舐めようとはなかなかしてくれない。
分毎に、いや秒を刻む毎に、老衰していくのに眼をそらすことは、もはやできなかった。
日曜日になってすぐ、午前2時ごろ、ターの体は冷たく固くなり、命は失われた。
もう抱き抱えても、暴れることはない。その代わり、あの跳ねっ返りの力強い生気も、温もりも、感じることはもうできない。
アイツと一緒に日向に座ったり、庭を散策する時間は、もう帰ってこないー
ー本当に、もう帰ってこないだろうか。
音楽が終わって静まり返った暗い部屋。
横たわるベッドで、僕は「なにか」の気配を感じた気がした。
お腹には、ヴィルの太った体が乗る気配。
枕元には、ターが顔を覗き込む気配。
起き上がって窓際を見ると、いつもの場所に二人が並んでいる。月明かりを浴びて、というよりは夜の庭を見回っているのだろう。
酔っていたのかもしれない。あるいは頭がおかしくなったのか。
溢れる涙を拭きながら(あるいはせき止めながら)、馬鹿なことを考えた。
有名なことわざで、僕は子供の頃観た『バットマンリターンズ』のキャットウーマンのセリフで知りずっと覚えている。画面の中で彼女は、ビルから落ちようと銃で撃たれようと、電気ショックを浴びようと死ぬことはなかった。
でも僕が感じたのはそういうことじゃなくで、猫だってもちろん死ぬ。
ヴィルの時もターの時も、アイツらが死んだことを信じたくなくて、目を覚まさないか何度も悪あがきをした。
それでもアイツらの体は残酷なくらい冷たくて、あれだけ生き生きしていた眼は光を失い、撫でてやっても喉を鳴らすこともない。
ここに、もう命はない。アイツらはいない。そう認めるしかなくて、抱き抱えた体に涙が落ちてびしょびしょになっていた。それでもやはり、ピクリとも動いてはくれないのだ。
そう、「ここ」にはいない。
でも、肉体を離れた観念的な意味では、「猫は死なない」あるいは「いなくならない」のではないだろうか。
多分、おかしくなってはいない。
飲んだ酒も涙に変わってしまって、酔いもとうに醒めた。
猫は、いなくならない。
確かに、「いる」のだ。
ヴィルと散歩したマンションの前の道。
ヴィルを連れていって買い物した近所の自販機。
ヴィルと一緒に寝た、このベッド。
ターと日向ぼっこした窓際。
ターを撫でながら昼下がりを過ごしたソファー。
ターが下、僕が上で昼寝をしたベッド。
アイツらは、確かにここに、アイツらと同じ時を過ごしたこの家に、確かにいる。消えてしまったわけでも、遠くに行ってしまったわけでもなく、確かにここに、いるのだ。
止めることも出来ずに溢れ出す涙に曇った世界も、そう思ったら、優しく愛らしく感じられた。