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ネトゲジャンクの門の前で

ネトゲジャンキーになりかけているから、コールドターキーをしよう。
そう誓った舌の根も乾かぬうちに、また新しいゲームをスマホにダウンロードしてプレイしている。
気がつくともう3時だ。

明日は昼からジムだというのに。
夜には友人とコンサートに行くというのに。
ジムの用意も曲目の予習も放り出して、サーヴァントやら戦術人形やら艦娘やらガーディアンやらを育てるのに熱をあげている。
(何ならこの記事の執筆も、投稿時間を見てもらえばわかるが、途中で放り出している)

いや、ゲーム自体はどれも名作だとは思っているのだが。
しかし割と「リア充」な1日が明日に控えているというのに、その前夜の空白を、明日の「リアル」に備えるのではなく、「ヴァーチャル」へと現実逃避する自分に苦笑いしながら、そうなっていることが単純に不思議に思えたりする。

時間割を与えてくれる安心感と、空白恐怖症

「空白恐怖症」という言葉を、去年の年末にTVで知った。
流行語のひとつで、スケジュールが空白なのを恐れることらしい。

僕は自分のことをかなりな怠け者だと思っているが、それでもこの感覚はなんとなくわかる。

思えばネットゲームを始めたのは、僕の人生の中でもひどくヒマで、何がしたいか、何ができるかわからず、かといって(プーさんのように)「『何もしない』をする」潔さもなかった時期だった。

ドイツ留学中の年末年始、友達は皆故郷に帰ってしまって、観光する金もなく、家に引き籠っていた頃。
大学を離れ、就職活動がうまくいかず文字通り「プーさん」をしていた頃。
世界に必要とされていないのではないかと殻に閉じこもっていたあの頃。
そんな時、一日の「時間割」を与えてくれたのはゲームだった。

何時に起きてログインボーナスを拾って、とか。
二時間の遠征ないしクエストが終わるまでに家事をこなそう、とか。

自分を見失い、何をすればいいかわからない人にとって、「遊び」でありながら「to do list」と「時間割
」を与えてくれる存在は、生きる「意味」にすら刷り変わりかねない。

では、まがいなりにも働いている今はどうか。

業種にもよるかもしれないが、現代の事務職は細切れにされた短いスパンの作業を、同時並行でこなしていくことを求められている気がする。
マルチタスクと呼ぶとカッコいいが、こなす作業のひとつひとつは全体のメカニズムの中の小さな歯車に過ぎず、前後の歯車のいくつかは様子がわかっても、全体の動きは見渡しようがない。

たくさん働いたのに、「成果」がよくわからないのだ。
だから磨耗するだけで達成感がない。

そのような分刻みの徒労の積み重ねが終わり、休憩時間に入る。

その時の心のありようは、「モダン・タイムズ」の冒頭、チャップリンが演じる工場労働者に似ている気がする。
ボルトを締めるという単純作業、全体の製造ラインの中のどういう役割かもわからない労働を超高速でこなすことを強いられた彼は、狂う。
ベルトコンベアで流れてきた部品のネジを締めるのも、男の乳首をつねるのも、もはや彼にとっては「意味がわからない」「意味などない」、同じ動作に過ぎないのだ。

少し風呂敷を広げすぎたかもしれない。
まとめると、休む時間だが心はまだアイドリング状態で、「『何もしない』をする」ことは出来ない。かといって、10分くらいで出来ることはそう多くない。しかしマルチタスクに慣れすぎた心は「ヒマ」に、「空白」に耐えられない。
だからヒマ潰しに、SNSを巡回したり、ゲームをしたりすることになる。

Die meisten verarbeiten den größten Teil der Zeit, um zu leben, und das bisschen, das ihnen von Freiheit übrig bleibt, ängstigt sie so, dass sie alle Mittel aufsuchen, um es los zu werden.
Goethe“ Die Leiden des jungen Werthers” - Am 17. Mai 1771

ウェルテルの(プー太郎なりの)観察は、決して的外れではない。

そしてこういう「ヒマ潰し」の仕方に慣れすぎた人は、10分15分よりは長い「余暇」があっても、上手く使うことが出来ない。
仕事でもゲームでも「時間割」を与えられることに慣れすぎた人間が、急に長い自由時間を得ても、自分でスケジュールなど立てられるわけがない。
だからゲームに、「時間割」を与えてもらい、せっせと「プレイ(与えられた役割を演じる)」ことになるのだ。

僕にとって幸福なのは、休日を「リアル」の世界で楽しむ術を、見つけさせてくれる仲間がたくさんいたことだ。

「痩せたら付き合ってあげる」と言ってくれる女友達がいなかったら、ジムなんて死んでも通わなかったろう。
よく行く飲み屋つながりでサバゲーを始めなかったら、「軍事」というテーマに興味を持つことも、「オタク道」に足を踏み入れることもなかったろう。

そしてブログ。
大学時代の友達に勧められなければ書き始められなかったろうし、やはりブログを書く馴染みのバーテンダーに叱咤激励されなければ、続けることは出来なかったろう。

僕はもう、世界に必要とされない人間ではない。
何がしたいかわからない、などない。
自分の時間割は、自分で作ることが出来る。
だから、ゲームなんていらない。

そう呟きながら、セイバーとエクスカリバーを探して巡回している。

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