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水銀燈試論②「『絶望』をプレゼントしたい」

「『絶望』をプレゼントしたいの」

雪華綺晶にさらわれた柿崎めぐはそう言って、この「白い悪魔」と結託する。ただし、「黒い天使」水銀燈との「重婚」にならない形で。

水銀燈の(恐らくは)生涯唯一のマスター。
そして、ローゼンの死んだ娘によく似た(であろう)病弱の少女。
いや、「『少女という現象』の永遠化」への強い意思という点ではローゼン自身にまず類似しており、実の娘以上の疑似他者=「私」の分身という意味では、アリス以上のアリスとすら言えるのかもしれないが…

その彼女が、自分の愛する水銀燈に与えたいものは、「絶望」だった。

「私たちは『絶望』するために生まれてきたの」

これは水銀燈自身の言葉である。真紅達との戦いで、「絆」の素晴らしさを説く真紅に向かって放った台詞だ。

では水銀燈にとって、いや薔薇乙女達にとっての「絶望」とは何だろう?

それは「お父様」から捨てられること。
姉妹との「絆」が断ち切られること。
そして何より、「絆」が切れることによって、自分が生まれてきた意味、生きる意味を失うこと。

真紅が言ったように、存在とは観念なのだ。他者(「お父様」、姉妹、マスター)との絆が切れ、「ここ」が「私」の居場所でないと思った瞬間ローゼンメイデンは、他の人形と同様に「迷子」になってしまう。

しかし絶望する「ために」生まれてきた、という台詞は、「まだ絶望していない」もしくは「生きている限り絶望できない」という水銀燈自身の無意識の表れではないか。

この台詞の直前に彼女はこう言っている。

「姉妹の絆もマスターの絆も最後にはぜんぶぜんぶ引き千切られてしまう…」


しかしこのように冷徹な諦念の台詞を吐きながら、またあえて姉妹の絆を裂くような言動をとりながらも、作中で他の姉妹に自分から積極的に接触し干渉するのは(雪華綺晶と薔薇水晶はある意味で異質なドールなので除外する)、水銀燈だけなように思える。一人で生きてきたように見えて、いや一人で生きてきたからこそ、「絆」への執着が人一倍強い、それが水銀燈なのではないか。

姉妹とは別に「お父様」との関係も、他のドールと比べても非常に深いだろう。
詳細は「水銀燈試論①」で考察したので割愛するが、彼女は自分が「お父様」にとって特別な役割を担っていることを自覚している。「お父様」の罪を担わされた水銀燈は父の「イノセントな共犯者」であり、その意味ではこの父娘は罪によって常に繋がっている。彼女は父を強く憎み、かつ愛してもいる。その「憎悪」と「愛」が、彼女の「生きる意味」になってしまうほどに。
だから彼女は、「絶望」できない。

父親への「憎悪」と「愛」に捕らわれているのは水銀燈のマスターめぐも同様だ。だからこそ二人は共感し、愛し合えたのだが、一方で「鏡の素顔を見るようで大嫌いだった」のではないか。

二人は非常に似た気質だが、もちろん違う点もある。

水銀燈はアリスゲームを含めた姉妹との関わり合いの中で、「人間らしい」感情を持って「人間らしい」穢れ、醜さにまみれる生を選んだ。父の箱庭を出たあの瞬間に。

しかし白い病室に閉じ込められためぐは、穢れや醜さを極度に排除し、純粋で無垢なものになろうという願望があるように見える。
もちろめぐ自身水銀燈と同様父親に対する激しく時に歪んだ愛憎を持ってはいるのだが、そのような「すがる気持ち捨てて」純粋な状態で昇天したい願望が見えるのだ。「人形のように」汚れのない状態で。

いまわの際にめぐは水銀燈に、二人の「父」に対する憎悪を捨てよう、という主旨の言葉をかける。愛憎という穢れを捨てて、キレイな状態で天に召されよう、とでもいうような。
めぐが水銀燈にプレゼントしたかった「絶望」とは、実はこれではないだろうか。

憎むこと、愛することに対する「絶望」。
「生きる意味」になりつつあった「醜い」愛憎の無為を知り、解脱すること。

それによってめぐは水銀燈を、「汚れのない完璧な少女」という意味の「アリス」にしたかったのかもしれない。

めぐの死を嘆く父親に、水銀燈はこのように声をかける。

「貴方の罪は私が持っていくわ
さようなら 『お父様』」

めぐが「捨てて」昇天しようとした罪と穢れを、水銀燈は「受け入れ、持って」いった。
絶望するために生まれてきた彼女は、生きている限りは絶望しない。

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