希死念慮と共に生きる
「もうしにたい。」
何度口にしたのか、数えきれない。
それは鬱状態で思い詰めた時だけではなく、
とても綺麗な青空の元、穏やかな気持ちで
「あぁ、しにたいな」
って思ったりもする。
わたしはほとんどリアルの人間関係の人達にそういった発言をすることは無い。
いわゆる健常者の人にそんなことを言うと驚かせてしまうし、心配をかけてしまう。
わたしが「あー、しにたいな」と発言するのは
私と同じように精神疾患で悩み苦しみ生きている人達と繋がっているSNSの中。
「もう消えたい」
「生きてる意味が分からなくなった」
「しんじゃいたい」
こういう想いの言の葉はわたしだけではなく、
フォロワーさんたちからも紡がれていく。
そして、余程思いつめられて危ないな、と
言う状況でない限りは、みんな優しく「いいね」を押す。その「いいね」は、「見てるよ」「分かるよ」の合図。
わたしはSNSに生かされている。
過剰に心配されたくない。
でも希死念慮を抱え込むのは辛い。
そんな時にSNSはとてもやさしい。
理想の死に方について論議したこともある。
普通のリアルの友達とはそんなこと話すことも無いだろう。
リアルの友達とは、お茶をして、同級生の近況を聞いて、無難な話をして、買い物、カラオケ、、、
それはそれで楽しい。
でも、わたしの心の中に巣食う希死念慮を吐き出せるのは
ネットのお友達。
なんて便利な世の中なんだろうなって思う。
私がそもそもnoteを始めたきっかけも、
いつかしんでしまったときに、あー、こいつはこんな考えをして生きてたんだなぁ、と読んで貰えたらな、と思うところもある。
いわゆる、遺書。
わたしの考え方、生きてきた中での価値観や本音。
生きているうちに知られるのは恥ずかしいけれど、
いつかこの世からいなくなったら、身内にバレてもいいかなって思う。
生きてるうちに言うのって、なんだか恥ずかしいから。
わたしはベンゾジアゼピン系の薬を毎日服用して、健忘もどんどん酷くなっている。
悲しい。
だから、思い出した時にここに書きしたためたいと思うのです。
わたしはおそらく、どんなに希死念慮がきたとしてもしぬことはないでしょう。
それは、SNSで繋がったお友達が定期的に連絡をくれて、遠くに住んでいるのに、旅行計画や、遊びの計画を立ててくれるから。
未来に予定を立ててくれるから、裏切れないなって思う。
たかがネットじゃんとバカにされてもいい。
でもわたしには大切なものです。
これからも何度も希死念慮は出てくるでしょう。
でも、そうだね、しにたいなぁ、って空を見て、あ、おいしいコーヒーでも飲もうか、って、希死念慮さんとお付き合いしていこうと思います。
きしねんさん。
いつまでの付き合いになるか分からないけど。
あなたが産まれてしまった理由をわたしはいつか解決するよ。
きしねんさんが、昇華してくれるまで。
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