医療から離れて反医療の世界に進むわけ

医療をきちんと学んだ人がなぜ反医療の世界に進むのか、ということに興味があります。お二人のことについて、触れたいと思います。その人自身が書かれていることや伝聞も入れて考えます。

ある医師は、大学病院での研修後にすぐに離島へ。そこでは、人も物も何もかも不足している環境だったそうです。絶望した、とありました。反ワクチンの講習会を数多くされている医師です。

ある看護師は、小児を専門としていたそうです。救えた命も救えない命もたくさん見てきた。でも、我が子がアトピーになったときに、自分は命を救うことに長らく携わってきたけれど、医療は何も解決してくれなかったそうです。やはり絶望した、と。この方も、反ワクチンの方。

限界を感じて、絶望した、というお二人。

限界。。。はじめから感じていなかったのかな。

何でも誰でも救えると思ってしまったのかな。。。。

医学、そして看護学よりも、個人の体験が勝っちゃうんだなあ・・・とも思うけれど、私だって個人の体験で活動をしているくらい、個人の体験、我が子の体験が大きいということは知っている。

なんだか皮肉だ。そこで救われた子をもつ私は医療に感謝をして医療の啓発活動をし、そこで救われなかったと思っている方は(良くはならなかったのかな)、看護の世界から離れて、民間療法の世界へと突き進む。

この二人の例だけでなく、ある反医療の医師の動画は、何度も視聴した。その方が語られていたことの端々に、病院の中でまるで相手にされず、いかに排除されてきたかということがにじみ出てしまっていた。そして、今どれだけチヤホヤしてもらえるのかということも。この人の動機は、お金ではない。悲しく思った。あの人は違う、おかしい、と排除されたあとの行動なのだ。。。

民間療法がすべて悪だと思っているわけではない。

気持ちの良さ、心地よさ、そういうものを追求する世界もあっていいと思う。

けれど、そこには「●●(症状)に効く」「●●で治る」がなしであれば。

それがないのであれば、心地よさを追求するマッサージなど、私も受けます。足に痛みの残る私は、よく行くほうかもしれません。でも、「●●に効きます」と言われた瞬間に、行くのを辞めます。その橋は、渡っちゃいけないと思っています。
統合医療については、こちらに詳しくあります。

ひとつ、私が感じることは、医療の世界を離れたのであれば、この病院に何年いた、あの専門を何年やった、それを売りにするのは違うのではないか、ということ。

どの方も、大っぴらに、アピールされています。でも、離れたのであれば、それはもう別の世界に生きるということ。

そこを売りにして、西洋医学もすべてわかっていますが、こっちの世界も知ってます、というのは違うのではないかと。

伝わるだろうか。

たとえばボクシング選手は現役の間に誰かを殴ったら、
正当防衛と認められない、ということはよく聞く。
それは『拳は凶器扱いである』ということだ。

医師や看護師が、それを武器にして、反医療を唱えるのならば、そこには大きな責任が伴うのではないか。
やっちゃだめ、とは思わない。
でも、それをするのならば、その医療の中にいた経歴は捨て去る、ボクサーであれば、引退、そのようなことが必要ではないかと。

そんなことを思っていた最中、糖尿病患者にインスリンを投与しなかった医師が殺人認定された。

24日付の決定で「死の現実的な危険を認識していた」と述べ、死んでもやむを得ないという「未必の殺意」があったと認定した。一、二審判決の懲役14年6カ月が確定する。
被告は医学に頼らずに「難病を治せる」と標榜(ひょうぼう)し、母親に「インスリンは毒」「従わなければ助からない」としつこく働きかけて投与をやめさせたと指摘。「命を救うには従うしかない」と思い込んだ母親を「道具として利用」し、治療法に半信半疑だった父親も母親を通じて同調させたと指摘し、殺害行為に当たると判断した。弁護側は「インスリンを打たないと決めたのは両親で、治療費を受け取った被告が死をやむを得ないと考えるはずがない」と無罪を主張していた。

救える可能性が十分ある子に、打てるワクチンを打たずに命を落としてしまったら、そこに医療関係者が関与していたら、その行為を、どう考えるか。私はまだまだ考えていきます。

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