2 そこらへんに落ちているネズミの死骸よりも価値のない自分の身体


昨日、人とご飯を食べた際に、保証会社の話になった。

私は不動産や金融分野に酷く疎いので、家賃保証会社の存在があることすら知らなかったわけで、全く面倒な話だとアルコールに犯された萎縮した脳を最大限に活用して聞いていた。

資本主義を生きるこの世界の大半の人間は、モノとカネのやりとりで関係を築いているわけだから、そのやりとりを遮断するのは不可能でありつまり死ぬの同然であろう。

最近は、何をするのも銭になる。

体を売っても、履いたパンツを売っても、彼女を装うフリをしても、それが「サービス」として第3次産業の仲間入りになっている今、何がために人は働いているのだろう、と疑問に思うのである。

縄文時代に戻れば、ヒト対ヒトの単純なもののやりとりで全ては解決し、仲介業者なんていうものは存在せず、性行為は子孫繁栄の手段に過ぎず、そもそもパンツなんて履いていないし、そりゃもう、単純で簡易的で、楽な生活ではないか。

そうは言っても、この時代に生まれてきてしまった段階で縄文時代の生活に適応できる訳がなく、嫌でも今の生活をせざるを得ないのである。


私の価値はどれくらいなのだろう。そう考えると、そこらへんに落ちているネズミの死骸よりも価値がないのだと考えてしまう。

別に他者の価値をはかるつもりはないし、他者を価値がない人間を感じることなど全くないが、自分の価値だけは考えてしまう。なんて理不尽な話と思われるかもしれないが、カフェで周りの人間の幸せそうな表情を見ると、考えてしまうのである。

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