それは突然の。

ドアを開けたその向こうには、夫が立っていた。

午後5時。人通りも車通りも多かったが、あたりは薄暗くて、その小柄な男が夫だと気づくまでに数秒かかった。

彼だと気がついて、何かの反射のようにドアを閉めたが、思い直した。

せめて半年ぶりにぬけぬけとやってくる、その理由くらい聞いてもいいかもしれない。口のうまい彼に丸め込まれるのではないか、とか、ひょっとしたら刺されるのではないか、とか、いろんな考えが頭をよぎったが、ためらいながらももう一度ドアを開けて、暗がりの中の夫に目をこらした。

久しぶりの夫は驚くほど変わっていて、誰だかわからないくらいだった。あたりは苛立つほど暗く、彼の顔はよく見えない。あの頃は嫌ってかけていなかった眼鏡を今はかけ、髭を剃ったのか顔が丸く、まるでノビタ君のように見えた。細い首が、季節外れの薄いジャケットからにょっきりとのぞいている。こんなに細い男だったっけ。ずいぶん痩せたように思う。思ったより小柄だったのだと今更になって気づくばかりだった。

黙っていると彼が「Hi」と話しかけてきた。

「何しに来たの」とぶっきらぼうに聞くと、「No chance?」とぬけぬけと言う。何のチャンスかって、要するにもう一度やり直せないのかと聞いているのだ。冗談じゃない。

半年前、彼は、家に一銭も入れる気がない、お前となんてもう一緒にいられない、と大見得を切って出て行ったのだ。喧嘩両成敗というし、怒りを爆発させたのも出て行けと言ったのも私だ。でも、その後で謝って、もう一度やり直そう、話し合おうと、土下座して謝ったのも私だ。

どんな言葉も夫には響かなかった。勤務先から家を借りられたからと言って嬉々として出て行き、3ヶ月くらいは連絡を取らないで欲しいと言い残して去った彼を私は呆然として見送ったが、その後でだんだんと明らかになった事実。彼は私を警察に通報していたらしい。あろうことが「妻が僕に暴力を振るって、殺されそうだ」と言って。

それは全て、彼の職場と話して明らかになったことだった。警察から入国管理局に連絡が入ったらしく、彼は職場を辞めさせられたという。ここに至っても、私は夫が何を言って、何をして出て行ったのか、どうして出て行ったのか、その意図はなんだったのか、全くわからなかった。警察の口は固く、彼から通報が入ったかどうかは教えてもらえなかった。ただ、「あなたのところに事情聴取が来ていないのであれば、あなたが何らかの嫌疑をかけられている可能性はないから大丈夫だ」と言われただけ。

夫の行方はわからなかった。職場から家を借りたというのは嘘で、実際には警察に保護されたらしい。入管経由で、どこかのシェルターにいるらしいと彼の元上司が言っていたが、それもどこまで本当のことだかわからない。2ヶ月後、裁判所から離婚手続きの書類が送られてきたが、彼の住所は伏せられ、遥か遠くの町の、読めない名前の弁護士が代理人として連絡先になっていた。

「No chance」と答えた私の声は、怒りよりも緊張のために震えていた。「私たち、今離婚の手続き中でしょ。もう書類が裁判所に行ってるんだから、そんなのやり直せない」と言う私に向かって「僕は手続きを取り消せるよ」と言う夫。

そうじゃない。そう言うことじゃなくて、もう、嘘をつく人とは、夫婦でいられないの。もう、愛せないの。

「あなた、みんなに嘘をついたわね」

「何の嘘?」

「私があなたを殺そうとしたって言ったんでしょ」

一瞬間をおいて、夫はゆっくりと言った。「僕は、そんなこと言ってないよ」

まずい、と思った。いつもの、彼が私を丸め込む時のテンポだ。私たちはいつでも、喧嘩をするとこう言う流れで喧嘩になった。私が自分の気持ちや事情を説明しようとするたびに、彼が目先の言葉尻をとらえて、言った言わないの議論に持ち込む。それを一つ一つ説明しようとする間に、私は混乱してしまい、フラストレーションがたまって、爆発してしまうのだ。泣いたり、わめいたり。後にも先にも、この夫ほど、私を感情的に不安定にした男はいないと信じたい。こうやって皆を煙にまいて、夫はいろんな嘘をついて、いろんな人を操って、出て行ったのだ。私も馬鹿ではないつもりだったけれど、ずる賢い人には叶わない。こうやって会話して、丸め込まれたり、後で言った言わないの争いになる前に、夫に立ち去ってもらいたかった。

「そう言う話をしたいわけじゃないの。帰って。警察呼ぶわ」

急いでドアを閉めて今度は鍵をかけた。心臓がまだばくばくし、冷たくなった手が震えていた。

警察なんて呼んでも来ないだろうし、危害を加えられているわけでもないのだから、最初から呼ぶ気はなかった。だけど、彼が諦めて引き返すのかどうか、それも心もとなかった。それこそ外から放火なんてされるのではないかと、ちょっと恐ろしくもあった。

しばらく、何か危害を加えられるのではないかと、ドアの内側で息をひそめていたのだが、我に返って2階に上がり、窓からまだ夫がいるかどうかこっそりとのぞいてみた。やはり暗くてよく見えないが、バス停の方に大通りを歩いていく、カーキ色のジャケット姿は、夫ではないだろうか。あの春物のジャケットも私が買ってあげたのだ。その薄さを思って、私は無性に悲しくなった。出て行ってから冬物のコートは買っていないのだ。お金がないのか、それとも使いたくないだけなのか。いずれにせよ、あんなぺらぺらのジャケットしか着ていないのであれば。これから家で待ち伏せされたりすることはないのだろう。

いったい彼はこれからどこへどうやって帰っていくのだろう。これから帰って、今日中に帰れるところに住んでいるのだろうか。聞きたいことはいくらでもあったが、聞けなかった。彼は怖い男ではないが、ずるい男で、利用する男なのだ。それが私の夫だったのだ。


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