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くちづけ

日曜の晩は寝苦しかった。翌朝、寝汗の乾いた後の奇妙な爽快感は、明らかに夜中に出た熱のせいだった。喉の奥がじくじく痛んだ。今日は血圧の薬をもらいにいく日だからその時に診てもらえばいいと思った。

「この時期喉風邪は多いからな」
そういいながら口の中を覗いた先生は抗生剤を処方し、万一今晩も熱が出たら翌朝電話しろ、とぶっきらぼうに言ってから、このご時世だからね、と笑顔で付け加えた。事ここに至っても自分が感染しているかもしれないとは微塵も思わなかった。

翌朝先生に電話した。晩になって三十八度の熱が出たからだ。すぐに来いというので出かけていくと、自分のところでは検査をやっていないので、紹介状を書くから今からここへいきなさいといわれた。

その足で近隣の別の診療所に出かけた。裏口へ回れといわれて駐車場の奥で待っていると看護婦が裏口から手招きをした。建物に入ると狭い廊下の壁際に透明のビニールシートで囲われた即席のブースがしつらえてあった。中には椅子がある。看護婦はそこで待てという。椅子に腰かけているうちに少しづつ緊張してきた。次に現れたのはものものしい防護服姿の人物だった。自分は担当医であると説明してから小さな試験管のようなものを渡して、それに唾液を入れろと指示をした。いわれるままにその試験管に唾液を吐きだし、分厚い手袋に覆われた手に返した。試験管は入念に蓋をされてビニールの小袋に密閉された。結果は電話で知らせるといわれてすぐに裏口から追い出された。このときですらまだ感染しているとは思わなかった。自分を安心させるために無理矢理可能性を否定しているのではなくほんとうに疑う気持ちにならなかった。

翌日の午後電話があった。唾液を採取した人物とは別の人物らしい野太い声だった。                                                                                                     
「陽性です」
 電話を切ってまず何をしたかといえば、予約していた店を二件キャンセルした。深刻な気持ちにはならなかった。ただ、どこで感染したのか、それだけが頭をぐるぐると駆け巡った。

それからは国家当局の対応メカニズムの歯車が静かに回りだした。いくつかの電話に出て話をするとホテル療養の手はずが整い、迎えのタクシーがきて、あれよあれよという間にホテルに収容された。よく言えば手厚く、悪く言えばカフカの「城」の会社員のような有無を言わさない連行だった。

ホテルでは個室をあてがわれ、三食の弁当をロビーに取りに行くときにだけ部屋を出ることができた。食事の用意ができたことを知らせる放送が流れると、収容者が一斉に部屋から出るのでエレベータは混みあった。それでも先を争うようなことはなく全員が静々と秩序だって動いた。ボタンのそばに立った人はロビーにつくと必ず開ボタンを押して待ち、後ろの人々を先に降ろしてから自分が最後に降りた。見えないグリッドのような静かな秩序があった。

弁当は一日で飽きた。味つけが薄くまずかった。食事を取りにロビーに降りたとき、黙りこくった人々がゾンビのようにゆらゆらと群れている中で、エレベータの脇に置かれた白いロボットが身振りをまじえながらおどけたおしゃべりをしていた。この光景を目にしたときほど、この疫病騒ぎが趣味の悪い冗談のように思えた瞬間はなかった。

ここの人たちがゆらゆらと存在感なく漂っているのは病気で元気がないのではなく、世間への申し訳なさが募っていて自分の存在をふだんのように地面からまっすぐに据えられないからだった。

大声でスマホに向かって話している水商売らしい金髪の女性は、そうすることでこのよどんだ空気をなんとかかきまぜたいと考えたらしいが、ゼリーのようになった空気に波風を立てることがまるでできず、あきらめて通話を止めてエレベータに乗り込んでいった。

放送で行動を促され、外出する自由を剥奪された生活は「1984」の世界の縮小版、あるいは日当たりのいい(部屋の南側に窓があった)収容所で病気のため役務を免れた囚人のようだった。さらに厳しい収容所に移されるか、処刑場に引っ張られるかは体温計と酸素濃度計が知っているようだったが、彼らは数字を表示するだけで将来については何も教えてくれなかった。できることといったら、指示された通りにその数字をウェブのシステムに入力するだけだった。時おり電話がかかってきて、調子はどうですか、と尋ねられるので、元気です、と答えると、そうですか、では、といって電話は切られた。電話の相手の看護師には二タイプいて、一人は極めて事務的に質疑応答を展開し、もう一人は言葉の多いやさしげな方だった。アメリカの探偵小説に出てくる刑事もこんな二人組が多い気がする。強面と人情家のペアである。感染事情についてのインタビューのようなことはなかったが、発熱からの日数をチェックする中で、さりげなく感染前の行動を洗うような会話に導かれることはあった。その際は体調不良でぼんやりとしているフリをして切り抜けた。ただそういうことがあって初めて、自分が感染判明以来なんともいえない後ろめたさを抱えていたことに気づかされた。

僕が感染したのは、あのときの嬢のくちづけのせいのように思えた。別れ際に僕がおどけて突き出したくちびるを彼女はすばやく寄ってついばんだ。くちづけに味はなかった。彼女の強い体臭が鼻孔を刺激した。嬢は客にくちづけはしないものだとずっと思っていたから驚いた。こらえていた情欲が一息に高まって彼女を抱きしめた。素裸に近い彼女は僕の腕の中でぐにゃぐにゃと蠢いた。その嬢が僕がホテル療養をしている間も普通に仕事を続けていることは twitter で確認していた。保菌していても健康なままな人もいるという話は聞いたことがあった。彼女がそうなら僕のほかにも感染して療養や入院をした人がいるにちがいない。彼女が僕にだけくちづけしてくれたのでなければ。彼女が元気に仕事をしている様子は毎日のようにつぶやかれる言葉で分かる。言葉とともに煽情的なポーズの写真も載っていてこまめに客を誘っている。魔のくちづけ。丈夫な彼女はおそらく何も知らないのだろう。今度行ったら他の人にもくちづけをしているか聞いてみようと思った。

五日ほどして内線電話で、明朝ホテルから出ていい、といわれた。まずい食事にうんざりしていたのでたすかった。出るときも誰も現れず電話での指示のとおり、ただ入ってきたところから出た。ホテルの裏口、通用口である。裏口から入って裏口からでたことになる。どうもこんな病気に罹患することは後ろめたくお天道様に顔向けできない仕業なのだぞと非難されているような気がしてならない。僕のやったことは無論自慢できないが他の人はそうとは限らないからずいぶんな仕打ちである。中は奇妙な世界だったが外もまた奇妙な世界なのだ。

外に出ても誰かが迎えに来ているわけじゃない。機械式の駐車場を清掃している年配の作業員がいるだけだ。裏路地から表通りの繁華街に出ても平日午前中は人影は少なかった。風景全体がまだ寝ぼけているようだった。嬢のところをたずねるには時間が早すぎた。洗濯物の大荷物を抱えてうろうろするのはいやだったのでおとなしく帰宅した。

「あの人、きれいだけど過剰がすごいって」    
くちづけをしてくれた嬢のところに行く前に別の嬢に入った。情報収集というよりはいきなり乗り込むだけの勇気がなかったという方が実際に近い。名前を出す以上には水は向けなかったつもりだが、古参の嬢からは噂話が次々とこぼれ出た。女が女をほめるのは地に落とす前ふりであるという諺通りのコメントに呆れる思いだった。
過剰とは女自身を売りに使うことで、新規顧客の取り込みや本指名を飽きさせないための常套手段である。無論使いすぎは禁物でそのコントロールはベテランでも難しい。というか、それに訴えずともパフォーマンスで客を惹きつけておけるのがベテランの定義といってもいい。野心ある若い嬢は客の取り込みに必死なあまりそれに走りすぎる傾向がある。うまく登りつめることもあるだろうが、踏み外して破綻、自滅もある。いったん踏み外せば、よくて退店、下手をすればお縄だ。僕が入った時には多少彼女とネッキングめいたことにはなったが最後まではなかった。しかし、普通の嬢ならまずしないくちづけをいきなり新規の客にするあたり、その芽はあったというべきだろう。もちろん、彼女が犯人と決まったわけではまったくない。事実は三つしかない。僕と彼女がくちづけをしたこと、僕が陽性になったこと、そして、今の彼女が、客なら誰彼構わず股を開いている。という噂を立てられているということだ。

ネットで店周辺の情報を調べても「感染した」というようは話は見つからなかった。こういう話は流れにくいのは分かっていた。自分のバカさ加減をわざわざさらすヤツはいないし、証拠もないのにこの店で感染したということを軽々しく公言すれば、反発を受けた上に流言扱いで店から損害賠償で訴えられる可能性すらある。僕がしたいのはそういうことではなく、くちづけ嬢がどこまで状況を分かっているかということだ。くちづけの意図は何だったのかということだ。

ある日、彼女が「体調が悪くて店を休みします」というツイートをした。このところすっかり人気嬢になった彼女の予約は連日いっぱいだったようだ。その彼女の短いツイートはなぜか僕の胸を強くつかんだ。嫌な予感というやつだ。だから少し我を失った僕は、そのツイートに対していつもなら決してしない直接の返信をした。           

  「医者に行かないで大丈夫?」

フォローこそされていないがDMで何度かやり取りをしているので、この返信が僕からだということに彼女が気づく可能性は大いにあった。あては外れなかった。一時間もしないうちにDMにメッセージが入った。

「おひさしぶりです。心配してくれてありがと。大丈夫、いつものことだから」

この短い文面で彼女が自分の状況を分かっていると僕は確信した。彼女のメッセージはすらすらと続いていった。

「わたし、ずっと昔に免疫不全の判定が陽性だったの」
「でも、たまにちょっと具合が悪くなるだけ。大したことない」             
「ホテルにいたの?わたしがキスしたからうつっちゃった?」              
「熱はないのに悪寒がするから、ひょっとしてとは思ってた」            
「おかしいよね、免疫不全なのに感染が平気で元気に保菌って」             
「安心して。キスであっちはうつらない」
「噂はただのウワサよ。誰彼構わずじゃない。好きな人だけ」                
「ただ、人を人とも思わないような嫌なヤツとは折れたふりしてGなしでするのよ。こわいでしょ」                                                           
「あなたはやさしかった。大好き。また来てくれる?」

僕はかなりのヘアピンカーブをガードレールをこすりながらも辛うじて通り抜けたようだった。彼女は彼女の基準で人を選別しているのだった。おそらく初めは自分だけが未来のはっきりしない運命をたどらされることへの怒りや恨みを抱えて衝動的に他人に八つ当たりしていたのだろうが、そういった気持ちは次第に薄らいで、今はあまり考えず習慣のようにこの選別を行っているのだろう。女王のお気に召さなければ濃密な罰を受けて薄暗い出口から少し小さくなって退去させられる。お気に召したら召したで、その花びらのようなくちびるで甘いくちづけをいただけるが、くちづけにどんな毒があるのかは時によってまちまちだ。

僕はこれを知って彼女を人命を危険に陥れる犯罪者として告発すべきなのだろうか。しかしこれが事実であることを誰かに信じさせるのは難しい。明らかにすれば自分の行状をも詳らかにする必要が出てくる。黙っているという選択を誰もがするであろうと先読みしてメッセージを送ってくる彼女のやり方は雑なようで巧妙だった。

彼女を再訪するかどうかはまだ決めかねている。興味深い話は聞けるだろうが、暗い淵の水際にたたずんだらそこへ飛び込む誘惑にかられそうでこわいのだ。たまに夢に出てくるのは彼女の面差しではなく、ぽってりと肉厚のくちびるである。


エピローグ:
思った通り彼女は店を辞めてしまった。行方は分からない。彼女と初めて会った時に鼻梁が不自然なほど高くて真っすぐなのを見て少し整形したのかなと思った。だから彼女は顔を少し変えてまたどこかに現れるかもしれない。いや、顔を変えて誰だか分からなくなったなら同じ店に現れることだってあるだろう。愚かな常連客は何も知らずに新しい美人に群がって、そのうちの何人かは命を縮めることになるだろう。

数か月後新しい子が入店した。派手な顔つきの美人だった。写真を見て僕はすぐに「これは彼女だ」と気がついた。だいぶんダイエットしたようだが背丈や全体の骨格は変えられない。目は大きいし頬骨が高くてあごがほっそりとしていた。口は前よりも小さいように思えたし胸もずいぶん膨らんでいた。そういったことはすべて今の技術なら可能だ。彼女はここで働いて手術のお金をためていたのかもしれない。なぜまた同じ店に入ったのだろう。自分をぞんざいにあしらった客への復讐だとしたらこの店には近づかないことを薦める。しかしそのことよりも僕は、姿を変えても見抜けるほどに自分がたった一度の出会いで彼女を頭に刻み付けていたことに気づいて驚いた。なんのことはない僕は彼女に恋をしていたようだ。自分でもそれほど意識できないほどささやかな恋を。別に彼女に特別扱いをしてもらいたくて、見逃してもらいたくてこんなことを言っているわけではない。気がよくやさしく母親のような包容力のある嬢と出会ってよかったと今は思っている。たとえそれが一抹の哀しみを残す出会いだったとしても。

おわり

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