足音

誰かがわたしの跡をつけていた。もうずっとだった。わたしの足音と少しだけずれた調子でもう一つの足音が後ろから聞こえた。わたしが立ち止まると足音は止んだ。わたしはそれが気になって仕方がなかった。暗い道をわたしは肩越しに半ば振り返ったまま先を急いだ。わたしが急げば足音も早くなった。街灯のある所で立ち止まると足音は消えた。足音の主は灯りの届かない暗がりにいるようだった。わたしはいっそ後ろ向きになって歩きたかった。そうすれば追いかけてくる姿を見ることができると思ったから。わたしはつかの間この現実味のない妙な考えにとらわれたが、すぐにそれを捨ててまた歩き出した。街に出ればきっとこの追っ手もあきらめるだろう、いや、早く街に出なければ、今この暗がりで追いつかれたら何が起こるかわからない。ただどうしても走ることはできなかった。それは追手がわたし以上に足が速くいつでも追いつけるのでわたしが逃げないうちは遊ばせているがいざ逃げ出せば全力で追いつきその勢いのままに襲い掛かってくるような気がしたからだ。わたしはすでに嫌な汗をかいていた。胃の辺りに差し込みもあった。
その時だった。わたしの後ろに聞こえる足音が大きくなった気がした。そしてその足音が刻む調子が早まったような気がした。いよいよ追いついてくる、そう思ったわたしの全身に鳥肌が立った。わたしは重くなってきた脚を懸命に動かして速足を続けた。これ以上急いだら足がもつれて転びそうだった。足音はいよいよ迫っていた。わたしは恐怖に打ち勝てなかった。口をかみしめてわたしは速足から走り出した。さほど逞しくもないわたしはすぐに横腹が痛くなった。地面を打つ自分の足音のせいで追手の足音はよく分からなくなった。足音よりも自分のぜいぜいいう呼吸音が大きくなった。眼の先にまた街灯の明りの傘が見えた。そこに人影があるようだった。わたしは何とかしてあそこまでと思いながら必死に駆けた。疲れのあまりからだが斜めになってしまっているようだった。わたしが灯りに近づいたときその人影はもう灯りの照らしている場所から暗闇へと踏み出そうとしていた。
「おおい」
わたしの後ろからいきなり声がした。全身が総毛だった。反射的に振り向いたわたしの顔はきっと血の気が引いて真っ白だっただろう。追手は思っていたよりも迫っていた。追手は白っぽい顔に汗をかいていた。それはわたしだった。やつれた顔と着古した背広はまさしくわたしだった。悪夢。わたしは目をつぶって前を向き直りまた駆けだした。その場所から離れたかった。見なかったことにしたかったからだ。灯りの中に前を往く人の足のかかとが見えた。わたしはなんとかして気づいてもらいたくて声をかけた。
「おおい」
半ば暗がりに入っていた人影の背中がびくっと震えたように見えた。暗がりではあったが振り返った前の人の顔をわたしははっきりと見た。わたしだった。わたしは恐怖に顔を歪めていた。そしてくるっと向こうを向くと駆けだしていった。わたしにはもう追いかけて走り出す気力がなかった。おおい、と呼ぶ声が遠くで聞こえた。わたしはあまりの出来事にその場でぼうっとしてしまっていた。不思議なことに追手は最初からいなかったかのように影も形もなかった。立ち尽くしていたわたしの耳に機関車のような、何か大きな機械が激しく歯車を回しながら動いているような音が聞こえてきた。わたしはその音に聴き憶えがあった。わたしは思い出した。わたしはこの音を立てるものから逃げていたのだった。昨日のわたしはもう食われてしまったに違いない。彼も必死に逃げていたのに。わたしはまだ逃げよう。どこまでいけるかわからないが。明日のわたしにはもう警告したからわたしの務めの半分は終わったのだが明日のわたしがわたしのことを憶えていられるようにもう少し抵抗しよう。何千頭もの豚がいっぺんに鳴くような悍ましい音が轟いた。それは間近に迫っていた。わたしは気力をふり絞って足を動かした。地面が揺れ始めた。

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