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5分20秒小説『刹那』

 前科二犯が狙っている。シールを貼る私の手が止まる。私の視線、刺身のパックに貼る予定の半額シール、その上端から中年女性のパーマ頭が生えている。

 前科二犯、過去に二回万引きで捕まった経歴の持ち主、仲間内で”前科二犯”と呼んでいる。しかし万引きを見つかった店に性懲りもなく来るとは――しかも、割り引きの刺身を買おうと、シールが貼られるのを待ち構えている。常人では計り知ることのできない精神構造だ。
 私的には、このおばちゃんにむざむざと半額商品を渡したくはない。刺身はラストの一パック。映像が目に浮かぶ、半額シールを貼った瞬間に刺身パックを奪うようにしてカゴに入れ、勝ち誇った顔でレジに向かう前科二犯。くっ!でも仕方がない。
 前科二犯の向かい側に立ち、ため息と共に、シールを持つ右手を振り下ろす、その瞬間だった。
 
 前科二犯の横に、紫色の影が現れた。老婆だ。白髪を浮世離れした感覚でカラーリングした老婆。目線は刺身のパックにある。この老婆もラス一の刺身を狙っている?!突然のライバルの出現に驚いた前科二犯の。体勢が崩れる。
 前科二犯の右手――半額シールが貼られた瞬間に、パックを奪取しようと、私の手のスタートから若干遅れて振り下ろされた右手、最短距離でパックを目指していたその軌道が、直線から曲線運動に変化した。
 間隙を突くべく、紫婆の手が肉食獣のような瞬発力でパック目掛けて伸びる。脇を固め、ジャブを繰り出すような無駄のない動き。重心が安定していて、フォームが定まっている。きっと紫婆は、歴戦のファイターに違いない。

 すべての動きをストップモーションのように捉えている私、いわゆるゾーンに入っている?視線を外して辺りを観察する――生簀の中を昇っていく小さな泡がくっ付いて一つになるmotion。電子POPに流れる映像、場面が切り替わる瞬間のeffect。冷凍ケースが振動する際にmm単位で現れる残像、見える!やはりゾーンに入っているようだ。二人の怪物の争いに視線を戻す。

 手の軌道が鮮やかなラインとなって浮かぶ。勝者は?紫婆だ。そう確信した瞬間、瞳孔に突き刺さる違和感、前科二犯の手が加速した?!何故だ?体制を崩し腰の据わっていない彼女に、動きを加速させる手段なんて無い筈なのに――あ、何ということだ!
 前科二犯の体が更に傾いている。捨て身の作戦に出たのだ!つまり、体勢の崩れる方向に向かって敢えて更に体を傾け、体重をそのまま右手に乗せることで、手の動きを加速させたのだ。しかし、あのまま行けば、間違いなく転倒してしまう。それは彼女も分かっている筈だ。覚悟のうえの捨て身の作戦。倒れながらパックを掴むつもりだ。
 私の眼底に、未知の熱が熾る――前科二犯の輪郭が、炎で揺らめいて見える。あんなに軽蔑し、憎しみさえ覚えていた筈の彼女を、あろうことか応援している自分がいる。勝負は決した。前科二犯の勝ちだ。そう思った瞬間、黄土色の影が現れた。

 前科二犯を中心に見て、紫婆の反対側に、老人だ。男性、頭髪は無い。黄土色のセーターを着ている。口元に歪んだ笑みが張り付いている。三人目の参入者か?いや、流し目の視線の先、紫婆がいる。二人の視線が一直線につながる。夫か?黄土色と呼ぼう。黄土色の手が、前科二犯の肩に触れた。前科二犯の動きが止まる。倒れる勢いに乗せて加速していた手が減速する。紫と黄土色のコンビネーションプレイだ。これは、流石の前科二犯も予測できなかったようだ。今度こそ勝負は決した。紫婆チームの勝利だ。

 ゾーンから脱して、通常の時間の流れに戻ろうとした私の意識が、何かを察して立ち止まる。まだ勝負は決していない?いや、無理だ。前科二犯があそこから逆転することなど、できるわけが――ん?変だ。前科二犯の右手の軌道がおかしい?!振り下ろされていたはずの右手が今、振り上げられようとしている。前科二犯の手が向かう先は?――私の手だ!なるほど、シールを貼ろうとする私の手を叩き、シールを貼らせない気だ。なんという頭脳プレイ。まさかこんな手が残っていたとは。黄土色により体勢を引き戻されるその勢いを利用して、手を切り返すだなんて。『燕返し』――この技に名前を付けるとしたらそんな名称が相応しいだろう。
 勝負の行方は分からなくなってきた。ここから先は未知の世界。僅か一秒に満たぬ時間に、これほどの攻防が繰り返され、勝敗の行方が二転も三転もするなんて、きっと有史以来、人類が経験したなかで最も濃密な闘争に違いない。

 私の右手が、前科二犯によって跳ね上げられた。私はシールを離さないように指先に力を込める、が、踏ん張りきれずあらぬ方向へと飛んで行く。それを紫婆の左手が上から押さえつけ、パックに向かわせる。前科二犯の左手がパックを掴み、私の持っているシール目掛けて振り上げる。それを阻止すべく、黄土色の右手が前科二犯の左手首を掴む。動きを封じられ、空中に固定されたパックを紫婆の右手が奪おうとする。前科二犯が突如手を放す。フリーになったパックが落ちる。その先で、前科二犯の右手が待ち構えている。いつの間に?私の右手を跳ね上げ、上空にあったはずの前科二犯の右手、まさかこの展開を読んで先回りしていたのか?パックをキャッチする。そして、私の持っているシールに、ぶつける様に振り上げ――。


 店内に有線が流れている。

 前科二犯の右手に、半額シールの貼られた刺身パックがある。あれほど激しく振り動かされたのに、刺身は整然と並んでいる。
 前科二犯が笑った、紫婆と黄土色も笑った。私も笑った。もはや勝敗に意味は無い。言語を使わぬやりとりを経て、私達の心は一つに重なったのだ。
 紫婆と黄土色が、三割引きのイカの刺身をカゴに入れるのを見守りながら、私はシールを貼る作業を再開する。

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