11分20秒小説『天使さん彼に伝えて頂戴』
随分昔の話です。
生まれつき耳が聞こえない。”声”というものを聞いたことがない。だから、喋ることができません。声だけじゃありません。あらゆる音が聞こえないんです。想像してみてください――音の無い世界。車のクラクションに気付かずにはねられるかもしれない世界。友達が歌番組の話題で盛り上がっていても、話に入っていけない世界。音楽室のピアノ、どの鍵盤を叩いても何の音もしない世界――私の世界には、無音という音階しか存在しない。
喋る練習はした。でもいくら上達しても、障害の無い人とは少しニュアンスの違う話し方になってしまう。
母親は手話の先生をしていて――というか私がこんなだからその道に進んだわけだけど――聾唖の人を対象に、会話のトレーニングもしていた。
母から学んだ。小さい頃から。健常者の口の動きを見て、何を喋っているか理解するトレーニングもした。
でも小学生の時に、一番仲が良かった友達の唇が「あの子の喋り方まじキモイよね」って、私を横目に見て笑っているのを目撃しまい。それ以来私は、喋ることが怖くなってしまった。唇を読むこともだ。それどころか人の顔が見れない。顔を見ると唇が見えてしまう、何を喋っているか分かってしまう。
音の無い世界で私は、自分の意思を伝える手段と、人の意思を読み取る手段を放棄したのだ。それは半分、いや2/3、自殺したに等しい。
角を曲がったら男の人にぶつかった。男の人は尻もちを突いて倒れた。私は焦ってメモを取り出し、”ごめんなさい。私は耳が聞こえません”と書いて見せた。何よりも先に私が障害者であることを伝えておかないと、色々と面倒なことになる。経験上そう理解していた。しかし男の人は、あらぬ方を見て私のメモを見ようとしない。
え?あ、この人、目が不自由なのかも?困った。私にはメモを書いて見せる以外に意思を伝える手段がない。それなのにこの男性は目が不自由だ。どうしよう?男の人の顔を見ることなんて出来ない、でもきっと怒っているだろうな。唇は見ないようにしている。だけど、酷い言葉で私を非難しているかも。色んな感情が爆発しそうになった。でも今は駄目!帰ってから泣こう。それよりも彼を起こしてあげないと。彼の腕に触れる。その瞬間――
電流が走った。
とても温かで緩やかな電流。腕の真ん中を通って心臓に達し、ドクンという振動が起こったた。この感覚は何?暖かくて柔らかくて、そして――何故だろう。懐かしいような泣きたいような気持になる。彼を起こそうと強く手を握る。すると電流も強くなり、触れている間中、電流は流れ続け、私の心臓をドクンと震わし、その振動が血管を伝って全身に伝播して、そして首筋を通り脳に達した瞬間、目の前に白い光が現れた。
「やあ」
小さな白い光――よく見ると白い服を着た子供、背中に羽が生えている。天使?!
「やあ、大丈夫かい?」
(え?私今、貴方の声が聞こえた?!)
「喋ったからね。聞こえて当然だろ」
(いや違う……無意識に唇の動きを読んだじゃったみたい)
「お困りのご様子だね」
(……ええ)
「手伝ってあげようか?」
(え?)
「僕が君の言葉を彼に伝えてあげる。そして彼の言葉を君に伝える」
(ほんとに?!そんなことができるの?)
「できるよ」
(じゃあお願い。まずは――)
「ちょっと待って、先に彼の言葉を伝えるよ。彼は『俺は目が見えません。ぶつかってゴメンなさい』って言ってる」
(天使さん彼に伝えて頂戴『こちらこそゴメンなさない』って)
「OK……伝えたよ」
(ねぇ、彼、本当に怒っていない?)
「怒ってない。それどころか君をお茶に誘っているよ。『良かったら喫茶店でちょとお喋りしませんか?丁度通訳の天使もいることだし』って、どうする?」
私は少し考えた。でも覚悟を決めた。
(彼に伝えて『分かりました。こんな機会は滅多に無いだろうから、お話しましょう』って)
「ちなみに、彼がさ、君がどんな顔か知りたいっていうから絵に描いて見せたよ。これがその絵」
天使が画用紙に書いた私?の絵を見せてくれた。酷い絵だ。
私は笑った。爆笑した。こんなに笑ったのは、生まれて初めてかもしれない。彼の顔を見ることはできない、でも彼もきっと笑ってる。こうして私たちは、天使を介して交流するようになった。
生まれてからずっと、いいことなんてなかった。友達もできないし、まともに人と意思疎通できない。私は当時自分のことを、人間の世界に紛れ込んだ獣のようだと感じていた。
目の不自由な人と耳の不自由な人が、意思疎通することは難しい。そもそも私はこんな性格だから、仮に耳が不自由じゃなくても、男の人とお話するなんてまず無理だと思う。でも私には天使がいた。天使さんを介して彼と沢山お話をすることができた。
誰にも――両親にも打ち明けたことの無い悩み、彼に打ち明けた。彼は、私が生きている、音の無い世界の話を聞いてくれた。そして彼が生きている、光が無い世界の話をしてくれた。(お互いの世界を足してそれに2を掛ければ丁度いいのにね)と伝えたら。「今がまさにそうじゃない?」と彼が言った。私はドキリとした。
或る時彼が好きなミュージシャンの話をした。そして私の耳が聞こえないことを思い出し、慌てて謝った。でも私は嬉しかった。一瞬でも彼は、私の障害を忘れ、健常者のように話をしてくれたのだ。それが嬉しかった。(歌って)とお願いしたら、歌ってくれた。でも相変わらず、私は人の顔を見ることができないので、彼の唇の動きを読むことはできない。代わりに天使が歌ってくれた。天使の唇の動きで、歌詞は分かったけど、音色までは分からなかった。たぶんだけど天使は音痴だと思う。
将来の夢を聞かれ、私は耳が真っ赤になった。しつこく彼が聞くので、仕方なく私は(可愛いお嫁さんになること)って答えた。しばらく間があって「きっとその夢は叶うよ。俺が保証する」と言ってくれた。その時に私は、淡い期待を抱く自分に気付いた。
或る日、彼から交際しようって言われた。嬉しかった。生きてきた中で間違いなく一番嬉しい瞬間だった。私の人生に、こんな瞬間が訪れるなんて夢にも思わなかった。
或る朝、私は強く願った「彼とずっと一緒にいたい」突然だけど、必然だった。もう彼無しでは私は生きていけない。
溜息を吐いた途端。天使が現れてこういった――彼が呼んでるよ。いつもの喫茶店においでって、何か大事な話があるみたい。
大事な話――私の胸は高鳴った。
緊張する。プロポーズされる?そうだったらいいな。でも不安だ。ひょっとしたら別れを告げられるかも?
「彼に伝えたいことある?」
(あのー)
「彼も『あのー』って言った」
私は笑った。彼も笑っているだろう。
(ねぇ、天使さん)
「何だい?」
(アドバイスを頂戴。女性から男性へ、プロポーズするのって、変かな?)
天使は急に不機嫌な顔になり、乱雑にこう言った。
「この際だから言っとくけど、この先もずっとこうして手伝って貰えると思ったら大間違いだよ!」
(そんな……それは酷いわ。だって貴方が私と彼を引き合わせたのよ!最後まで私たちを助けて頂戴!)
「ふー、分かってないね。僕は天使なんかじゃない」
(え?)
「正体を明かそう!」
天使が白い衣装を脱ぐ。
(あ?!)
「そう僕は悪魔だ!きっきっきっ、見ろよこの黒いマント、そして黒い槍、もじゃもじゃの毛で隠していたけど、ほら!頭には角も生えている」
「じゃあ、貴方最初から――」
「そうだ!お前たちを揶揄ってだだけだ。いい暇つぶしになったよ。でも丁度飽きがきた頃だ。これで俺はおさらばするよ」
(なんて人なの!許せない!)
(きっきっきっ、怒っても無駄だ。じゃあな……おっと、そうだ。せめてもの情けだ。最後に一言だけ彼に伝えてやろう。何て伝える?)
(……彼はなんて言ってるの)
「彼は『三か月後に、またこの喫茶店で会いましょう』って、言ってるぞ」(それだけ?)
「ああ」
(そう、じゃあ伝えて『分かりました』って)
彼は悲しんでいるのだろうか?怒っているのだろうか?彼の後ろ姿を目に焼き付けようとしたけど、歪んでよく見えなかった。
次の日から私は、会話のトレーニングを始めた。母の教室に、生徒として通った。ずっとサボってたから、かなり苦労した。だけど母は喜んでくれた。
或る日、あり得ない偶然が起こった。母の教室に彼が来たのだ!手話を学びに母の手話教室に。心臓がバクバク言ってる。彼に話しかけたかった。でももう天使は居ない。自分の口で話すしかない、でも駄目だ。今の私では駄目だ。もっと自然に話せるようになってからじゃないと。私は母に彼のことを打ち明けた。母は泣いて喜んでくれた。
三か月――我慢しよう。私はここに居ないことにする。授業内容が違うから、彼と同じ時間に、この教室で学ぶことはない。でも彼が来るたびに私は、彼の顔を、唇を見る練習をした。そして、約束の日の前日――
彼が母と喋っている。私は唇の動きを読む。
「先生」
「なに?」
「俺、もうだいぶ上達しましたよね?」
「そうね。もう日常会話ができるくらいにはなったわね」
「良かった。間に合った」
「ん?何に?」
「実は俺、明日結婚を申し込むんです」
「あらまぁ、驚いたわね。お相手は?」
「生まれつき耳が聞こえない人です。その人と暮らしていくために俺は、手話を学んだんです」
「そうだったのね。不思議に思っていたの。目の不自由な貴方がどうして手話を学ぶ気になったのか」
母が私に目配せをする。
「彼女、俺と結婚してくれると思いますか?」
「さぁ、どうかしらね。そうだ!最後におさらいしておきましょ。『僕と結婚してください』って手話、やってみせて」
「ふふ、それだけは自信がありますよ。俺が最初に覚えた手話だ」
彼が右手の親指を立て、左手の小指を立て、それを胸の間で合わせる。母が微笑み、私の肩を叩く、私は頷き、彼の耳元で――
「はい」
そして腕に触れる。あの懐かしい電流が走り、心臓がドクンと鳴る。母が彼に伝える。
「娘をお願いね」
「え?どういうことですか?」
「貴方が結婚したいと言った女性、実は私の娘なの。この三か月、娘も猛特訓したのよ。貴方に負けないくらいね。できるだけ自然に喋れるように」
「じゃあ……さっきの声は?」
「大、好き、です。ああたの事が」
私は泣いた。自分では聴こえないけど、嗚咽しているのが分かった。嗚咽する声は多分、健常者とそうは変わらないはずだ。
「いやー、助かったよ」
「いいから早く返せ!」
「君のマントと槍のお蔭で、二人ともすっかり信じ込んだみたいだ。あ、それとこの作り物の角とね」
天使が黒いマントを悪魔に返し、白い服に着替え、こう言った。
「ミッション、コンプリート!」
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