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5分40秒小説『たれ6,500円』

「先生、親父と二人きりにしてもらえませんか?」
「分かりました。何かありましたら、ナースコールを鳴らしてください」
 主治医が病室から出て行った。残ったのは、ベッドの上、呼吸器を付け目を閉じたままの初老の男性と、短髪の青年。


「親父、聞こえてるか?いや、聞こえていなんだよな?分かってる。先生がそう言ってた。事故でこんな姿になってしまって、もう1年が経つ。一向に意識が戻る気配もなく……そうか、もう1年経つんだな。早いな」

 モニターに波形、父親の心臓の鼓動が緑色の線となって映し出されている。青年の指がその線に触れる。

「鰻屋を継ぐと決め、親父の下で修業を始めたのが3年前。親父は、板場に入ると鬼になるからな。家ではあんなに優しい父親なのに……正直、最初は怖かったよ。でも、分かったんだ。あの厳しさも親父の愛情なんだって、ふっ、つい最近だぜ、そう思えるようになったの」

 波形は一定の起伏で、左から右に流れている。

「親父がこんなことになって、”うな吉”はもう駄目だと思った。だってそうだろ?常連客の殆どは、親父の腕に惚れ込んでうちに通っていたんだから。”串打ち3年、裂き8年、焼き一生”俺はまだ串打ちすらまともにできない半人前だ」

 波形に合わせて、電子音が鳴っている。一定のリズムで。

「最初は常連さんたちも応援してくれていた。俺が焼いた不出来な鰻でも、”日に日に腕が上がってる”って褒めてくれてさ。通ってくれてたんだ。でもそれも最初の数か月だけ。客足はめっきり途絶えてしまった。そんな時だった。田村の御隠居さんが、俺にこう言ったんだ『清一郎君、いくら頑張っても君はお父さんにはなれない。君は君にしかなれないんだ』って、電流が走った。俺は、親父の影を追い過ぎていたのかもしれない」

 父親の手に手を重ね――。

「怒らないでくれよ親父、半年前から、俺はあの店で鰻を焼くのを止めた。親父の下で修業を始める前、6年間修業した和食が、俺がお客様に提供できる最上の料理なんだって……江戸時代から続く”うな吉”の暖簾を汚すことになるのは、承知している。でもこのままじゃあ、あの店も敷地も、全部銀行に取られてしまう。だから、俺は、”うな吉”を和食の店に変えたんだ」

 ぴっ ぴっ 緑の波が流れる音。

「常連さんたちが戻ってきてくれた。新規の客も増えた。親父がやっていたときほどではないにしても、連日それなりの客の入りで、店はなんとか持ち直した――と思った矢先に、食中毒を出してしまったんだ」

 青年が泣き崩れる。

「俺……俺、もうどうしていいか分からなくなって、灯りを消した店内で、一人泣いていた。そしたら表で戸を叩く音がして、開けると、田村の御隠居、磯松先生、ぎおん呉服店の西村さん、松屋の若旦那……常連さんたちがこぞって俺を訪ねて来てくれてさ、俺を励ましてくれたんだ。俺は涙が止まらなくなって、涙をぬぐった。そうしたら松屋の若旦那が、『清一郎君、そのハンドタオル”youna”の生誕祭限定品じゃないか?』って、『え?若旦那、younaを知ってるんですか?』『ああ、大ファンだよ。彼女がグループを抜ける前から推してたんだ』って、盛り上がっちゃってね。で、驚くことに、磯松先生も、西村さんも、yuunaの大ファンだっていうじゃないか。後はもう察してくれ。皆が融資してくれて、うちは一月前から、younaのグッズを中心としたアイドルグッズ専門店になっている……大盛況だ。鰻を売っていたときの比ではない。売り上げは3倍以上に跳ね上がったよ。俺、気付いたんだ。あ、これが親父が言っていた。”常連さんを大事にしろ。困った時は常連さんが助けてくれる”ってやつなんだって」

 ぴっ ぴっ

「店は変わってしまったけど、”うな吉”の魂はしっかり受け継いでいる。店の名前も”you☆な!”に変わってしまったけど、”うな”っていう響きは店名に残っているし、建物もリノベーションして、古民家っぽい感じも残しつつ、現代的な飾りつけをして、そうそう、こないだ新聞の取材が来たんだぜ。連日、若い子で店内は賑わっている。そうだ。秘伝のたれ、江戸時代から継ぎ足しているあのたれ、あれ、売れたよ。いくらで売れたと思う?改装前に常連さんや、建築屋さんに声を掛けたらね、なんと6,500円で売れたんだ。鰻じゃないよ。ただのたれだ。それがあんな高額で売れるなんて……その時に、親父が守ってきたものが、いかに価値があるものだったのか、俺、分かったんだ。そうそう、こないだインテリアプランナーの女の子に『あのたれ、どうやって使ってる?』って聞いたら、『ミートボールを作った時に、ソースとして使ってます。最高ですね』って言ってたよ」 

 ぴっぴっぴぴぴっぴぴっぴぴ

「店は軌道に乗ったけど、正直、もう辛い。親父の延命、これ以上は経済的にも精神的にも負担が大き過ぎる。今日、親父の顔を見て気持ちが固まった。安らかな顔をしている、もう何も心配していない。そうだよな?さっき手を握った時、握り返された気がしたんだ。『清一郎、お前にすべて任せる』って、親父の心の声が聞こえたんだ。安心してくれ!”うな吉”、いや”you☆な!東口店”は、親父の魂を受け継いで、いつまでも残り続ける!口幅ったいけど、俺もようやく一人前に――」
 
 ぴぴぴぴぴ
 ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ
 ぴぴぴぴぴ
 ぴーーーーーー
 ぴぴぴぴぴ

「死にきれーん!」
「うわっ……親父っ!?」

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