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2分50秒小説『母乳カフェ☆ミ』

 繁華街を歩いている。息切れがして立ち止まる。前屈み両膝に掌を当て、肩を上下させながら首を曲げると寂れた横丁がある。いや寂れているとかそんなレベルではない。いわゆる横町としては明らかに機能していない。かつて飲食店が軒を連ねていたが今はただの通路、といったところか。如何にも猫が好みそうな空間だ。建物の裏側と裏側が向かい合わせになっているだけ。ふと目に飛び込んだ文字。

 母乳カフェ☆ミ

 見間違えだと思った。天を仰ぎ眉間を摘み深呼吸、も一度見直す――母乳カフェ☆ミ。
 発砲スチロール、色褪せたゴミ箱、枯れた植木、エアコンの室外機がやたら沢山、人間の営みの残滓をレゴブロックにして組み立てたような景色、その間隙を突く”母乳カフェ☆ミ”。
 昼日中、白い板に赤く縁取られたピンクの文字、看板の周りは黄色い電球で縁取られている。目を凝らす――点灯している。つまり営業中ということか?周りを見渡し、さっと横丁に身を差し入れる――誰にも見られなかっただろうな?

 高鳴る心臓、期待と不安、妖琴に撥が吸い寄せられるように看板へ引き寄せられる私、扉の前に立ち、自問する――これは自分の性癖に敵う趣向か?意味の無い自問、途方に暮れる。
 
 歳を重ねるにつれ、精力が弱ってゆく実感、反比例して、なぜか高まる好奇心。刺激を求めている。弱り切った雄の本能蹴り飛ばすよな強烈なkickを日常に求めている。
 そんな自分をみすぼらしい、卑しいと感じている自分もいる。それでも、これから先の人生に、若き頃の高揚感を取り戻したい。恒常的ではなくてよい、ほんの一瞬でも、裏山に棄てられたエロ本を見て初めて勃起をした少年の日の瞬間を追体験したい、死ぬまでにもう一度味わいたい、真摯に探し求めていた日常をぶち壊せる刺激――陰鬱な罪悪感を伴う退廃的な刺激、それが今視界の先に――。
 
 ネクタイを緩め、横丁の中から表通りを眺めた。表通りには通常の時間が流れている。でもこの空間の時間は止まっている。
 山積みになったゴミやガラクタから生活感が溢れているが、生命の気配が無い。地獄から苦しみを、天国から幸せを取り除いたような空間だここは――。
 軽く股間に触れてみる。平熱、商談中や、資料をまとめている時と同じ状態。このままではきっと一生――嫌だ!耐え難い。私は叫びたい!"血は立ったまま眠っている”と、私は叫びたい――自分の男性器に向かって声高らかに!一歩踏み出す。
 扉に触れる。今までの人生にない奇妙なにおい。眼底に酸味を帯びた熱、扉を開けた。

 薄暗い店内。テーブルが5、いや6。テーブルごとに乳の張った牛が1頭、そしてその乳に貪りつく複数の仔牛。人の気配は無い。カウンターの向こう、背が異様に盛り上がった黒い牛が角の先端を振るわせて私を睨んだ。
 どうやらここは、仔牛専用のカフェらしい。

 私は後ずさりして扉を閉めた。そして、鼻腔の奥に張り付いたにおいを振り落とすように向き直し、表通りに歩きだす。
 絶望?羞恥?正体の定まらない強烈な感情に視界が歪む。元の世界にはたどり着けないかもしれない。若き日の感情にたどり着けないのと同じだ。私はもう二度と、元の世界にはたどり着ないかもしれない。表通りが何キロも先に見える。少年には、いや中年男には遠過ぎる距離だ。
 静寂が嘲笑している。

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