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7分20秒小説『咳き込む箪笥』

 古い民家でどの部屋も畳張り、最近照明をLEDに交換したそうだが、構造上光が届かないスペースが多く、夜は家の中を歩くのに苦労しそうだ。日当たりが悪く、庭に大きな池があるせいか、空気が陰湿で、石の裏と地面の間に籠っている気が、家中に流れ込んで充満しているかのように感じる。
 苔や百足は良く育つとは思うが、子育てには不向きな物件だと思う。率直に夫に伝えたが「こんないい物件には二度と出会えない。破格だよ!今買わないと絶対に後悔する」と私を説き伏せようと必死。この家――「事故物件なんじゃない?」不安がる私に「そんなことはないよきっと」と根拠なく笑った。もし仮に、近所に聞き込みをしたら、この家に纏わる怖い話の二つや三つすぐに出てきそうだ。でも夫は知りたがらないだろう。この家に私が感じている漠然とした不安に対して向き合う気もないようだ。観念するしかない。確かに夫が言う”破格の条件”には違いない。3月に引っ越すことが決まった。

 引っ越しの日、6歳になったばかりの千絵と手を繋いで、家の外観を眺める。
「今日からここが私達の家よ」
 千絵の反応を伺う。
「本当に私達の家なの?」
「そうよ」
「でもママ、この家、もう誰かが住んでるよ」
「昔はね。誰かが住んでたの。でも今は誰も住んでない。さ、荷物を片付けなきゃ。千絵の荷物はもうお部屋に置いてあるからね」
「え?私のお部屋?私のお部屋があるのこの家?!」
「そうよ」
「なんで教えてくれなかったの?」
「サプライズよ。嬉しい?」
「うん」
 屈託のない笑顔を見て、私も嬉しくなった。夫が夢に見たマイホーム、子どもも喜んでいる。なんの不安もない。玄関を開け、中に入る。薄暗い。外はさんさんと明るいが、この家は光を拒絶している。灯りを点ける。廊下の突き当り、暗い霧が立ち込めているかのように視認できない。そこに誰か居ても気づかないかもしれない。
「私のお部屋どこママ」
「ふふ、じゃあご案内しまーす。二階へどうぞ」
 ぎしぎし。
「ここよ」
 小さな部屋。部屋の大きさには不釣り合いな大きな箪笥が一棹、備え付けられている。
「大きな箪笥!」
「ぬいぐるみいっぱい入れれるね」
「うん」
 窓を開ける。家の裏に面している雑木林が見える。
「じゃあママ手伝うから、千絵のお部屋をいい感じにしようか」
 いい感じ――具体的にそれがどういった状態を表すのかは自分でも分からない。裏を返せば私は、この家、この部屋に対して、無意識に”嫌な感じ”を抱いているのかも知れない。それを払拭しようと――。
 引っ越しの日だと言うのに夫は地方へ出張。今日明日の二日間は千絵と二人きり。焦らずに少しづつ、この家の雰囲気を変えていこう。まずは千絵と二人で、この部屋を”カワイイ”で埋め尽くす。もし仮に妖怪が出てきたとしても、恥ずかしくなって退散してしまうくらいに。

 晩御飯は、ウーバーでマクドナルド。
「パパ可哀そうだね。フィッシュバーガー食べれなくて」
 千絵が口の周り、ナゲットのソースがべちょり。私は笑った。
「そうね。さ、じゃあお風呂に入って寝ましょうか。春休みで学校はないけど、明日も荷物を出していかないといけないからね」
「ねぇ、ママ」
「なぁに?」
「私、自分のお部屋で寝てもいい?」
「え?寂しくないの?」
「うん」
「そう……じゃあママも一緒に寝ようか?」
「いいよ。一人で」
 正直、私が一人で寝るのが嫌だ。でも千絵、思ったよりお姉さんになっているのね。自分のお部屋で一人で寝るのが、この子にとっては小さな冒険なのだろう。目がきらきらしている。
「じゃあ寝付くまで一緒に居てあげる。ママとパパのお部屋は向かいだから、夜トイレに行くのが怖かったらドアをノックしてね」
「うん」
 二人でお風呂に入り、パジャマに着替え、千絵の部屋、畳に布団を敷く。タブレットでディズニーの映画を観て、千絵の欠伸の感覚が狭くなって、瞼が閉じたのを確認し、小声で「おやすみ」を告げ、照明を落とす。

 ごほん

 咳が聞こえた。千絵は――眠っている。声はどこから?窓の外?箪笥と目が合う。中はぬいぐるみでいっぱいだ。聞き間違いだろう。箪笥の中で、ぬいぐるみが崩れた音かもしれない。


「おはようママ」
「おはよう。どう?ちゃんと寝れた」
「……うん」
「寝れなかったの?」
「……うん」
「どうして?」
「咳がうるさくて、ねぇママ風邪ひいたの?」
「え?」
 背筋に悪寒が走る。昨夜の咳――聞き間違いじゃなかった?
「ひょっとしたら林の中でタヌキさんとかが咳してたのかもね」
 引き攣った笑顔になっているのが自分でも分かる。でも千絵を怖がらせたくない。
「今日はママと寝ましょう」
「……うん」


「ねぇ、貴方」
「おう、どうだ荷解きは順調か?」
「仕事中に電話してごめんね。そのぉ――」
「何だ?千絵に何かあったのか?」
「いえ、そんなことはないんだけど。今日帰ってこれない?」
「無理だよ。福岡だぞ。明日にはお土産一杯持って帰るから。お前の好物の柚子明太も買ってあるから」
「そう……」
「どうした?やっぱり何かあるのか?」
「いや、なんでもないの」
「そうか……千絵と話せるか?」
「ええ、『千絵ー、パパとお話しする?』」
 言えなかった――この家、なんか変だ。でも夫には言えなかった。言ったところで笑われるだけだ。


「ママのお部屋で一緒に寝る?」
「うん」
 お姉さんぶってもまだまだ子供だ。私のお腹に顔を押し付けて甘える仕草が溜まらなく愛おしい。
「ねぇ。ママ」
「なぁに?」
「あのお婆さん誰?」
「え?お婆さん?」
「うん。箪笥の中にいるお婆さん」
「どういうこと?千絵、箪笥の中に、誰か居たってこと?」
「見てない。でも昨日の夜声がしたの。お婆さんの声が」
「なんて言ってたの」
「『おかえり』って」
「聞き間違いよきっと、だってこの家には私達以外――」

 ごほん

 千絵の手を取り、急いで寝室に入る。鍵を掛ける。夫に電話をする。出ない。lineを送ろうとして、手が止まる。何てメッセージを送ればいい?
「大丈夫。気のせいよ。怖くないからね」
「うん。怖くないよ。ママがいるから」
 泣きそうになる。
「布団に入って。楽しい映画をたくさん観ましょうね」
「うん」
 タブレットの音量ボタンを連打して、爆音でディズニー映画を視聴する。もし仮に咳がしても、聞こえないように。
 千絵の体が震えている。私は強く抱きしめる。千絵の視線は画面を見ていない。部屋の扉を凝視している。
「千絵、観てほら、凄くカワイイよ」
 なんとか気を紛らわせようとする。
「ほんとだ。カワイイ!」
 赤青黄色、カワイイキャラクターで埋め尽くされた世界、小さなモニターの中に逃げ込むように、私達は映画に意識を集中する。
 深夜を回った。千絵は寝た。でも動画は流しっぱなしだ。音量を小さくすることもできない。当然だが、部屋の灯りを消すことも出来ない。私は眠るわけにはいかない。この子を守らなきゃ。誰から?いや何から?分からない。でも私が眠ってしまったら……。


 疲れが溜まっていたのだろう。いつの間にか私は眠っていた。動画は流れていない。千絵は……千絵はどこ?
 ドアの向こうから聞こえる。

 ごほん

 痰が絡んだような。老いた咳だ。そして続けて、小さな子供の咳が――。

 こほ

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