見出し画像

11分10秒小説『天使よ彼女に伝えてくれ』

 若い頃の話だ。


 或る日の昼過ぎ、バスを降り、点字ブロックを白杖の先で確認しながら歩いていると、不意に衝撃が走り、杖を落としてしまった。
(何かにぶつかったのか?)
 跪き、杖が落ちてないか手探っていると、笑い声。落としたのではない。笑い声の主に奪われたのだ。「返せ!」と声を出したが、くすくす笑う声があちこちから起こって「返してやるよ、ほらっ!」水が飛び散る音がした。杖は川に投げ落とされたらしい。笑い声が遠ざかってゆく。目の不自由な俺は、雑踏に置き去りにされた。
「くそっ!」
 高校生?いや大学生の集団?もはやどうでもいい。点字ブロックをスニーカーの底で探りながら歩く。


 高校2年夏の或る日、朝起きると夜だった――変な言い方だが、当時の俺はそう感じた。両手を前に突き出し、おそるおそる歩く、掌が何かに触れた――きっと壁だ。
「スイッチはどこだ?」手探りで探していると突然、猛烈な頭痛に襲われた。
 その当時、たまに謎の頭痛に見舞われていた――ズキンと疼く程度の。だがその時の痛みは、それまでとは比べ物にならない激しいものだった。蹲り叫ぶ。母の声が聞こえ――それから後の記憶ない。
 
 徐々に鮮明になっていく意識、視界は真っ暗だ。瞼を開けても、真っ暗だ。俺は死んでしまったのか?ここは天国か?地獄か?うつらうつらそんなことを考えていると知らない男性の声がした。
「意識が戻ったようだね……私は医者だ。今から君の体に起こったことを説明する。どうか落ち着いて聞いて欲しい」
 医者を名乗る声がした説明、かいつまんで言うと――眼から送られてくる情報を受け取る視覚野という脳の領域、そこが腫瘍に圧迫されて駄目になったらしい。つまり俺は失明したわけだ。

 それからは散々だった。当時付き合っていた彼女にも振られるし、友達も離れていったし――まぁ、あの頃の俺はかなり荒れてたら自業自得だ。


「痛っ!」
 誰かとぶつかった。白杖も持たず歩道の真ん中をふらふら歩いていたのだ。ぶつかって当然だ。尻もちを突いて転んだ。ケツと肘が痛い。「どこ見て歩いてんだよ」と言いかけて止めた。そもそも俺が、どこも見ずに歩いていた。代わりに「すいません。眼が不自由なんです。お怪我は無いですか?」と言った。心の中で毒づきながら、厭味ったらしく丁寧に。

 返事が無い。腹が立ってきた。が、すぐに不安にすり替わった。ぶつかった相手は、もうどこかへ立ち去っているのかも知れない。見えないんだ。何もかも。 
 立ち上がろうと地面に手を突く。するともう一方の腕に、何か触れた。

 電流が走った。

 とても暖かで緩やかな電流。腕の真ん中を通って肩を通過して心臓に達し、ドクンと大きな音がした。バッテリー切れの機械に、エネルギーが充填されていくような感覚、そして感触――暖かくて柔らかくて、何故だろう。懐かしいような泣きたいような気持になる。この感触は誰かの手だ。きっと、女性の手。
 倒れた俺を起こそうと、俺の腕を強く掴んでいる。込められた力が、伝わってくるたび、電流のようなパルス――心臓から血液に乗り、全身に霧散して、その一部が首筋を通って脳に達した瞬間、暗闇の中に白い光が現れた。

「え?なんだこの光?」

 光は、羽の生えた子供の形をしていた。手に画用紙?を持っている。そこに油性ペン?で何か書いて、俺に向けた。
(何が起こったか説明するね)
 この光は天使か?この天使みたいな光の塊、喋れないのだろうか?また画用紙に何か書いてこちらに向ける。
(今君は若い女性とぶつかった。彼女はとても申し訳なく思い、謝罪しようとした。でも君が目の不自由な人なんだと気づいて、戸惑っている。彼女は耳が聞こえないんだ)
(耳が聞こえない?”つんぼ”か?)
(そんな言い方はよせ!君も”めくら”って言われたくないだろ?彼女は生まれつき聴覚障害を負っている)
(生まれつき?じゃあ喋れないのか?)
(いや、訓練してある程度は喋れるようになっている。でも彼女は或る事情があって喋ることを止めている。彼女は、メモ用紙に”ごめんなさい。私は耳が聞こえません”と書いて君に見せようとしたんだ。でも君の目が不自由なことに気づいて諦めて、右手で君の手を握り、体を起こそうと踏ん張っている。
(どうして彼女の手が触れた途端、電流みたいなのが走ったんだ?)
(電流?静電気じゃない?ま、せっかく通りかかったんだ。君たちのお手伝いをしてあげよう。彼女が君に伝えたいことを、僕がこうして画用紙に書いて見せる。そして君が彼女に伝えたいことを、僕が彼女に伝える)
(つまり、彼女にもお前の姿が見えているってことか?)
(そうだよ)
 余り負荷を掛けるとこんどは女性の方が転んでしまうかもしれない。俺は足腰に力を入れ、ほぼ自力で立ち上がる。彼女の手が離れる。電流も止まる。でも高鳴りは止まない。
(天使よ彼女に伝えてくれ。『俺は目が見えません。ぶつかってゴメンなさい』って)
(OK……伝えたよ。彼女はこう言ってる。『こちらこそゴメンなさない』って)
(彼女に伝えてくれ。『良かったら喫茶店でちょとお喋りしませんか?丁度通訳の天使もいることだし』)
(僕は通訳なんかじゃないぞ!)
(いいから伝えろよ)
(OK……伝えたよ)
(彼女なんて?)
(『分かりました。こんな機会は滅多に無いだろうから、お話しましょう』って)
(ちなみにだけど。彼女、可愛いか?)
 天使が画用紙に何か描いている。
(こんな顔だよ)
(お前……絵、下手すぎるだろ。その絵、彼女にも見せてやれよ)
 見えなくても分かる。彼女もきっと笑ってる。こうして俺たちは、天使を介して交流するようになった。


 目が不自由な人間と耳が不自由が人間、本来なら意思疎通なんてできっこないだろう。今ならば様々な電子機器を使って、意思を伝えることが出来る。だが当時はそんな便利なものはなかった。携帯電話すらなかった。だが俺たちには天使がいた。
 天使が俺たちの意思疎通の手助けをしてくれた。天使を使えば、遠く離れていても、彼女と会話することができた。
 彼女の悩みを聞いた。彼女の苦しみを聞いた。俺も自分の気持ちを語った。誰にも言うことのできなかった気持ち、目が見えなくなってからの生活、諦めた夢――世界じゅうを旅行して、色んなものを見ること。写真家になること。
 好きなミュージシャンの話をした時「しまった」と思った。彼女は耳が聞こえないのだ。でも彼女は「気にしないで」と言ってくれた。そして「歌って」と言われた。俺は歌った。それを天使が真似て彼女に伝えたのだが、果たしてうまく伝わったのだろうか?
 
 或る日意を決して俺は言った「俺と付き合ってください」暫く間があって、天使の画用紙に「こんな私でよければぜひ」と書かれているのを見たとき、俺はガッツポーズをした。
 交際を重ねていくうちに、どんどん彼女に惹かれていく自分に気付いた。姿は見えない。声も聞こえない。でも彼女の心はとても美しいんだ。
 
 或る朝、俺は決意した「彼女と結婚する」
 
 突然だけど、必然だった。もう彼女無しで俺は生きていけない。きっと彼女も同じだ。そうであって欲しい。
 天使を使いに出して、彼女をいつもの喫茶店に呼び出した。


 緊張する。きっといい返事がもらえる――自信はあるが確信には至らない。不安だ。天使が画用紙に書いて俺に向けたのと、同時に、俺は言った。
「あのー」
 画用紙にも(あのー)と書かれていた。俺は笑った。彼女も笑っているだろう。
(天使よ。彼女に伝えてくれ『結婚しよう』って)
 天使は急に不機嫌な顔になり、乱雑に画用紙に書いた文字を俺に見せた。
(この際だから言っとくけど、この先もずっとこうして手伝って貰えると思ったら大間違いだよ!)
(そんな……それはないんじゃないか?お前が俺と彼女を引き合わせたんだぞ!最後までめんどうをみてくれよ!)
(ふー、分かってないね。僕は天使なんかじゃない)
(え?)
(正体を明かそう!)
 天使が白い衣装を脱ぐ。
(お、お前?!)
(そう僕は悪魔だ!きっきっきっ、見ろよこの黒いマント、そして黒い槍、もじゃもじゃの毛で隠していたけど、ほら!頭には角も生えている)
(じゃあ、お前最初から――)
(そうだ!お前たちを揶揄ってたんだ。いい暇つぶしになったよ。でも丁度飽きがきた頃だ。これで俺はおさらばするよ)
(なんて奴だ!くそっ!許せない!)
(きっきっきっ、怒っても無駄だ。じゃあな……おっと、そうだ。せめてもの情けだ。最後に一言だけ彼女に伝えてやろう。何て伝える?)
(……俺は……くそっ!駄目だ。悪魔よ。彼女に伝えてくれ。『三か月後に、またこの喫茶店で会いましょう』って)
(ほー、それだけでいいのか?)
(ああ)
 彼女は悲しんでいるのだろうか?怒っているのだろうか?ともかく俺は、支払いをして喫茶店を後にした。


 次の日から俺は手話を学び始めた。駅裏の手話教室に通った。眼が不自由だからかなり苦労した。だけど先生が良かった。年配の女性で、とても親切で感じがいい人で、丁寧に俺に教えてくれた。

「先生」
「なに?」
「俺、もうだいぶ上達しましたよね?」
「そうね。もう日常会話ができるくらいにはなったわね」
「良かった。間に合った」
「ん?何に?」
「実は俺、明日結婚を申し込むんです」
「あらまぁ、驚いたわね。お相手は?」
「生まれつき耳が聞こえない人です。その人と暮らしていくために俺は、手話を学んだんです」
「そうだったのね。不思議に思っていたの。目の不自由な貴方がどうして手話を学ぶ気になったのか」
「彼女、俺と結婚してくれると思いますか?」
「さぁ、どうかしらね。そうだ!最後におさらいしておきましょ。『僕と結婚してください』って手話、やってみせて」
「ふふ、それだけは自信がありますよ。俺が最初に覚えた手話だ」
 右手の親指を立て、左手の小指を立て、それを胸の間で合わせる。すると耳元で――

「はい」

 という声、そして腕に触れる感触、電流が走り、心臓がドクンと鳴る。
「娘をお願いね」
 先生の声。
「え?どういうことですか?」
「貴方が結婚したいと言った女性、実は私の娘なの。この三か月、娘も猛特訓したのよ。貴方に負けないくらいね。できるだけ自然に喋れるように」
「じゃあ……さっきの声は?」
「大、好き、です。ああたの事が」
 俺は泣いた。視力はないけど、涙腺は正常だった。

 あの悪魔は、やっぱり天使だったのかも知れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?