継続は力なりというけれど。 VS三日坊主と贈られた言葉たち。
今日この記事が無事に投稿されたら、私は初めてnoteを4日間連続で書いたことになる。
すなわち、三日坊主の危機からは逃れられるといったところだ。
誰かに触発されて頑張るということはできるけれど、それを日々継続するのは非常に難しいことだと改めて思う。
でもこうやって文章を書くことは嫌いじゃなくてむしろ大好きだ。思考の整理がされるからスッキリするというよりは、溜まった感情をこうなんの脈絡もなく述べているだけであり、それがなんとなく好きで楽しい。
右下に見える文字数を見て、短時間でこんなに書いたのかという謎の達成感と優越感に浸れる。
先日のnoteに書いた、「自分に酔っている」というのはまさにこういうことなのかもしれない。
けれど、私は今のところまだ、この表現を自分のものにできていない。自分で理解に至るまで落とし込めていないといったところだろうか。
高校生の時に言われた「顔が小さい」という褒め言葉を理解したのは、社会人になってからだった。
「顔が小さい」一体その事実のどのあたりが褒め言葉なんだろうか、と当時は思ったけれど、今はなんとなく分かる。
そして今改めて思うのは、確かに私は151センチと身長も低いし小柄だ。だから他の一般的な人と比較したらそう小さく見えるだけで、身体の比率に対して考えると、そんなに小さいということはないと思う。割と一般的な等身だ。正確に測ったことないけれど。
顔が小さいことのメリットは褒められること、デメリットは普通の歯のサイズじゃ顎に収まらなくて、何本か健康な比較的生えたての大人の歯を抜く羽目になったことと、ディズニーのカチューシャがうまく付けられないことくらいだ。
過去に出会った本当に顔が小さい人は、小さいと言われる私の両の手を使って包み込めるくらいには小さい。誇張表現だと言われたらそうかもしれないけれど、それくらいに小さく思えた。そして彼も歯を何本か抜いている。でも身長は私より25センチ以上あるから、そういう人のことを顔が小さいと呼ぶんだと思う。
「顔が小さい」を理解するのに随分と時間がかかったのと同じように、2、3年前にもらった「自分に酔っている」という言葉はいまだ腹落ちしない。消化するまであとどのくらいかかるのだろうか。
考える時間がもったいないので、理解できるまではそっとしておこう。2、3年前とかいう曖昧な表現になってしまうくらいには、受け止めるのに時間がかかる言葉だ。
そんなこんなで、過去に人から贈られた言葉と共に私は今日も生きている。
せっかく三日坊主の話をしたから、明日は坊主めくりの話でも書こうか。
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