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昭和後期の事件から見る死刑の境界線

はじめに

 死刑の基準として、一般的には永山則夫の第1次上告審で判示された永山基準が使われていることについては、報道記事等でよく触れられているので皆様は知っておられると思います。内容としては、

①犯行の罪質
②動機
③態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性
④結果の重大性ことに殺害された被害者の数
⑤遺族の被害感情
⑥社会的影響
⑦犯人の年齢
⑧前科
⑨犯行後の情状等各般の情状

この9つが挙げられています。しかし、永山基準の明示後に死刑が確定した死刑囚の中で殺害された人数が1人であるのは数えるほどしかいませんから、実際には④の被害者の数が最重要視され、それ以外の要素はそれほど重視されていないということについては疑いようがないと言っていいでしょう。さらに補足すると、被害者1人で死刑となった例は一審後に控訴を取り下げていることも多く、実際に控訴審が開かれていれば減刑となった可能性も高い死刑囚がいるので、実際のところ1人殺害の事件であればよほどのことがない限り死刑にならないと言って良いのかもしれません。私個人の意見としては、被害者が1人だから無期という話ではなくほかの条件も十分に吟味して決めるべきだと思いますが。
 ただ、基準があるといっても裁判官も(現制度下であれば裁判員も)人間ですので、裁く人間が違えば同じ事件でも死刑と無期に分かれるということは十分あり得るわけです。裁判員制度実施前は一審で死刑だった被告が二審で無期になることもあれば、一審で無期だった被告が二審で死刑になるという事案が相当数見られました。他にも上告審で差し戻し後に死刑となった例には永山元死刑囚を含め3人、上告審で死刑が破棄された例が1人(いずれも永山以降に限定)。現在の裁判員裁判下では一審で無期懲役だったのが最終的に死刑となったという例はありませんが、審理が差し戻しになっている例がちらほらあることを考えると今後は出てくるかもしれません。裁判官がテキトーに判断したり依怙贔屓をしたりしているとは思いませんが、何例も見ているとタイミングや運が影響して生死が別れた例が存在するかもしれないと推測する余地は十分にあると私個人には見えました。
ということで、今回は永山基準の判示直後の4人を紹介したいと思います。いずれも殺害被害者が2~3人。一審では2人殺害の2被告が死刑で3人殺害だった2被告は無期、二審では逆に一審死刑だった2被告が無期に、一審無期だった2被告が死刑と、完全に逆転する結果となりました。この結果は本当に殺害した人数だけが理由でそうなったのでしょうか。

1,北九州連続通り魔事件(井上保幸受刑者)

{事件内容}
 1980年2月8日、工員だった井上保幸(当時21歳)は父親に転職を反対されたことなどの鬱憤から仕事を休み、北九州市小倉南区の自宅でシンナーを吸いながらダラダラとしていた。しかし、シンナーをキメて上機嫌になっていたところに両親、そして職場の上司がやってきて彼の日ごろの行いについて注意。一度気分がよくなっていたところに最も顔を合わせたくないだろう上司も現れて叱責されたこともあってか、それまでの鬱憤がついに爆発。
彼は自宅の倉庫にあったノミを取り出し、勝手口の扉に何度か思いっきりブッ刺して当たってみることに。でも一向に彼のストレスは消えることがありません。シンナーで酩酊状態だった彼の思考は常人には考えつかぬもので、それだったら「人間に刺せば気持ちが晴れる」と思い立ち家の外へ。
通りをたまたま歩いていた主婦のAさんを見つけると、小走りで彼女の後ろへと近付き、ノミを左肩めがけて突き刺すと、渾身の力が込められた凶刃は12.5cmの深さまで達し、動脈を切断された彼女はそのまま力尽きてしまった。
 己の凶行を見て我に返った井上は慌ててその場から逃げたものの、「このままでは両親に迷惑がかかる」と思い逃亡を決意。そして逃亡資金を得るべく次の獲物を探してノミを片手に市中を徘徊することにしてしまった。「そこは救急車呼んでさっきの主婦に救命措置をして自首しろ」とここで読まれている方のほぼ全員はそう突っ込むだろうが、当時酩酊していて合理的な判断ができなかったのか、それとも捕まることが怖かったのか、もしくは罪の意識で狂ってしまったのか。ここから彼は悪手の道をひた走ることになる。
 そしてAさんを刺してから30分後、路上を歩いていた販売員のBさんを見つけた彼は、袋に残っていたシンナーを一息吸って精神統一。そして彼女の左肩めがけて一突きし鞄を奪い取ろうとしたが、この時Bさんが転倒して中にあった金品は散乱し鞄しか奪い取ることはできなかった。この時Bさんは幸いにも全治728日とされる重傷を負ったものの一命をとりとめたが、一歩間違えば死んでいたというのは間違いないだろう。
 こうして逃亡資金の奪取にも失敗した井上は今度こそ我に返って自分の罪を悔い自首する……。常人の思考回路であればそうしたのかもしれないだろうが、シンナーの影響で酩酊し、二人を刺してもう引けないと追い込まれたであろう心理状態の彼はもうこれでやけくそになったのか、今度は民家に押し入って強盗をしようと決意。Bさんを刺してからわずか20分後、料理をしていた主婦のCさんを滅多刺しにして殺害し、寝室から現金6万5000円を奪って逃走した。この時Cさんの体に残っていた傷は後頭部、頭頂部、背中など合わせて20か所。前の2人と違い絶対に殺してやろうという強い確定的殺意の元行われたことが推察される。
 ただこうして逃亡資金を得たものの、翌日には自殺をしようとホテルに火をつけ自殺を図ったが失敗。1件目の通り魔の後、逃亡を目指して1人を殺害、1人に大けがを負わせてまで逃げようとした時の意思はどこへ……。

掲載用 井上保幸

※一審判決を伝える記事。ちなみに隣の殺人事件はのちに死刑囚となる武藤惠喜の殺人前科。

{一審・福岡地裁小倉支部/1983年2月9日判決}
 公判ではシンナーを長時間吸い続けていた直後だったこともあって、犯行時の精神状態が最大の争点となった。検察側の精神鑑定ではAさんの殺害時のみ心神耗弱でB,Cさんの殺傷の際は完全責任能力があったとされたので、こうなると死刑は厳しいのではないか……、そう皆様はそう思っただろうが、弁護側の精神鑑定は全ての犯行について完全責任能力が認められるという結果。逆は多いが珍しいことに弁護側の鑑定の方が不利になる形で公判が進むことに。それでも死刑を回避すべく弁護側は殺意の否認と不遇な生い立ちを主張して減刑を試みたみたものの、それを打ち消すかの如く不利な事情が積み重なっていく。シンナーに耽っていた怠惰な生活、あまりにも残虐かつ理不尽な犯行態様、被害者遺族だけでなく井上の両親すらも死刑を望むという強い処罰感情。こうして犯行時に完全責任能力があったと判断した上で反省をしていても命をもって償うほかなしと、自分たちの出した鑑定結果を無視する検察の主張に乗っかる形で死刑判決が下ってしまった。

{二審・福岡高裁/1986年4月15日判決}
 死刑判決を不服として判決後に被告側は控訴。控訴審では2件目の事案で母親に追いかけられている妄想に取りつかれていたとの新主張を持ち出す。光市母子殺人事件とかで途中から滅茶苦茶な理論を持ち出して減刑を主張すると余計分が悪くなるイメージがあるのだが……。しかし、控訴審では1件目の事件についてはシンナーによる酩酊の影響が非常に大きいとして、量刑不当ではなく心神耗弱を理由に死刑判決を破棄し無期懲役判決となった。また、一審で死刑となった要因についても量刑不当という形ではないが、ある程度酌量の余地がある旨判示されている。

①成育歴について
一審:父親は生活費をろくに入れず飲み歩くなど劣悪ではあったけど、井上が成長してからは両親がシンナーをやめさせようとするなどそれなりに面倒を見ていた。
二審:それでも不遇な成育歴であることに変わりはない。
②性格
一審:粗暴で冷酷で自己中心的。加えて怠惰な生活を送っていたことが見受けられる。反省していて矯正する可能性はあるけどあまりに罪が重いから死刑にするべき。
二審:粗暴とはいうけど前科もないし日ごろの行いもそこまで悪くはない。一度シンナーをやめてから再び手を出すまではまじめに働き同僚からの評価も悪くなかった。意志が弱く自己中心的な部分もあるが、犯行時21歳でまだ若く反省の態度を一貫して示していたことを考えると矯正は可能

 検察・被告側双方が上告せずこのまま判決は確定。紙一重で死刑を逃れた彼は岡山刑務所へと下獄し現在も同所で服役しているものと思われる(法務省HP掲載の「無期刑の執行状況及び無期刑受刑者に係る仮釈放の運用状況について」で見た限り、許可された人物に該当の人物はいなかった)。
また、確定から23年後の2009年、毎日新聞の記事にて井上の近況が取り上げられた。2009年時点でも服役中であること、加えて1つ目の殺人事件の被害者であるAさんの長女と文通をしていることが文中で書かれている。さらには、母を失った彼女が井上に対して「一日も早い社会復帰を願わずにいられません。貴方(あなた)しかできない社会貢献をしていただきたい」と、早期の仮釈放を願っていることも書かれていた。
 個人的には井上の事件は理不尽極まりないと言えるし、被害者遺族からすれば彼に対する恨みは一生消えないぐらいに思える。記事を読ませてもらったが多分彼を許したというよりは、母親が戻ってくることがないから憎んでも無駄という諦めも含んでいたように見えたが、それでも自分の家族を殺した人間の仮釈放を願い続けているというのは本当に更生に向かう彼の励みになっているに違いない。

2,新潟の一家殺傷事件(桑野藤一郎受刑者)

{事件内容}
1986年10月、桑野藤一郎(当時41歳)は新潟市内にスナックを出店、すぐにホステスとしてDさんを雇い入れた。桑野もDさんも当時は離婚していて年も近かったこともあり、二人は交際を開始。桑野は交際して直ぐに結婚を望むようになったが、彼女の母のEさんが反対したことや彼女には元夫との間に子どもがいたこともあって、Dさんの方は時期尚早とそれを渋る。しかし桑野の方はDさんに夢中でそこまで考えられなかった。12月にはDさんの住む家へと家財道具を持って同棲を始めることになったが、突然現れた義父の存在を受け入れられなかった子供たちからは嫌われ、Eさんを筆頭に親族からも出ていけと言われるようになってしまう。そりゃ2か月でいきなり結婚は無理でしょ。心の準備をする時間が欲しいって。
 こうしたギクシャクした同棲生活が前科数犯の桑野を刺激したのか、Dさんに暴力をふるい、同年11月11日に逮捕。本人にとっては幸いなことに25日には罰金を収めて身柄は解放されたが、警察官からもDさんと別れるよう言われ、Dさんと付き合い始めてからはスナックが開店休業状態で金もないという窮状に追い込まれることに。なんとかDさんに頼み込んで釈放後は彼女の家に転がり込みましたが、翌日にはEさんにそれがバレて再び追い出され、さらにEさんが呼んだ警察官が現れ再びDさんと別れるよう厳しく言い含められた。
 こうなっては引くしかない。プライドをズタズタにされた彼は、去り際に連絡をくれと一言Dさんに言い残して自宅へと戻る。年内に引き払うとすでに大家に伝えていた自宅へ着くと、勾留されていた間は公共料金を払っていなかったためガスはすでに止まり、電気ももうすぐ止める旨の連絡も来ていて、傷だらけになった心にさらに追い打ちがかかる。さらには数日待ってもDさんからの連絡はなく、寂しい年末を過ごす中で彼の心の中ではDさんに対する未練と同時に、恨みと憤怒が沸き上がっていた。
大晦日、彼はお節料理と登山ナイフを持ってDさんの家へと向う。まずはおせち料理で歓心を買って復縁の話を、だめなら彼女を殺して自分も死ぬ。一応の覚悟を決めて家の近くまで行ったものの、決心が仕切れず結局引き返してしまった。
そして年が明けた元旦、店も閉まっていてガスも止まっていたことから食事も満足に出来ず、惨めな気持ちの中で殺意は膨れ上がる。これもすべてEさんのせいだ、こうなったらDさんを殺して自分も死のう。決心した桑野は翌二日に遺書を書き、三日には包丁を買った後飲み屋をはしごし、お世話になった人たちとの最期のひと時を過ごした。
ちょうど日付が変わったころ、ついに彼は犯行を決意し服を着替えて家を出発。ただ、彼もここで再び躊躇したのかタクシーで彼女の家の近くで降りたところでは、『とりあえず先に復縁を頼み込んで、だめなら居座りそれでもだめなら殺そう』と計画を修正する。だが、彼女の家のガラス戸を叩き割って中を見ると、中はもぬけの殻。『Eが全部絵をかいてやがったか』、そう思った彼はDさんが逃げているであろうEさんの家へと急いで向かった。この時はもう復縁も何もすっ飛ばし、Dさんを殺して自分も死に、それを邪魔する人間も絶対殺そうと強い殺意が芽生えていた。こうしてEさん宅へと着いた彼は、予想通りそこに居たDさんをめった刺しにして殺害。その後は逃げ惑うEさんも一突きして殺害した上に、さらには逃げ惑うDさんの子2人と弟も刺して重傷を負わせてしまう。こうして目標を達成した彼は灯油を被り焼身自殺を図ったが、うまく着火しなかったところで逃亡するもほどなくして逮捕された。

{一審・新潟地裁/1988年3月30日}
 一審で被告側はDさん以外への殺意がなかったこと、飲酒による複雑酩酊で心神耗弱だったこと、反省をしていることから死刑回避を主張。しかし、いずれの事情についても認められず、知能が低く不遇な成育歴で反省していることを考慮しても死刑回避は不可能とされ死刑判決が下った。

{二審・東京高裁/1991年10月22日}
 二審でも被告側は前審同様の内容を主張したが、通ることはなかった。

①Dさん以外への殺意はなかった→包丁で胴体を刺している以上未必の殺意は優に認定できるし、捜査段階で邪魔するヤツは殺すつもりだったって言ってただろ。
②犯行前々日に書いた遺書の内容が支離滅裂で心神耗弱だった→精神病歴はないしそもそも殺人事件で逮捕されるまでまともに読み書きができなかったから内容が変でも精神異常があったとは言えない。
③かなり飲んでいて複雑酩酊をしていたので心神耗弱→知り合いも被告の乗ったタクシーの運転手も特に酔っているように見えなかったって言ってるから違う。
 
 しかし、一審では口論の際にDさんがEさんから相続できる遺産について被告が口論の際に口に出したことを根拠に、「財産目当てでDさんに近づき、結婚に失敗したため殺害した」と考えられていた部分は誤りであると解釈され、あくまでも「Dさんとの恋愛感情のもつれ」という部分が大きく、一審での酌むべき理由も考えると死刑は重過ぎるとして無期懲役に減刑された。その後被告側が量刑不当を理由に上告したが1993年3月30日に棄却。
 こうして死刑を回避した桑野は懲役刑を受けるべく東京拘置所から刑務所へと移送され、生きていれば現在も受刑中と思われる(法務省HP掲載の「無期刑の執行状況及び無期刑受刑者に係る仮釈放の運用状況について」で見た限り、許可された人物に彼と思われる人物はいなかった)。

3,徳島の三人銃殺事件(池本登元死刑囚)


{事件内容} 

1985年6月3日夕方、竹材加工と青海苔の採取業で生計を立てていた徳島県海部郡日和佐町(現:美波町)の池本登(当時52歳)は、自宅裏の柚子畑にごみが捨てられているのを発見、早速近所の親類であるFさん方へ怒鳴り込みに行った。しかし、Fさんとその妻のGさんはそんなことをしていないと反論。激しい詰りあいになったことで日頃この2人とトラブルを抱えていた池本は立腹し、家の戻ると猟銃を持ち出しFさん方へ何発か発砲。慌てて逃げ出したFさんとGさんだったが、逃げ切れず二人とも射殺されてしまった。
こうして目的を果たした池本は意気揚々自宅へと引き上げようとしたところで、同じく近隣住民のHさんを発見。池本は日ごろ自分の父親がかつて窃盗事件を起こしたことを揶揄していた彼に恨みを持っていた。「二人殺したから三人殺すのも一緒だ」と、この際だから殺してしまおうと決意。彼めがけて発砲しすぐに仕留めることはできなかったが、傷を負って逃げるHさんを追跡し長年の恨みを晴らすことに成功した。また、この時近くで農作業をしていた女性に流れ弾が当たり全治二週間のけがを負わせている。
そして捜査の手が迫ることを察知した池本は、近所に住む母親に預金通帳と凶器の猟銃を渡して別れを告げ、警察署へと出頭……。しようと思ったものの直前でパトカーが目に入って怖くなり逃走してしまうが、包囲網を破ることはできずほどなくして逮捕された。

{一審・徳島地裁/1988年3月22日}
一審では被告側は精神鑑定時のIQテストの結果や犯行前に飲酒をしていたこと、妄想による影響があったことなどを根拠に心神耗弱を主張しましたがそれらについては受け入れられなかった。

①精神鑑定時の知能検査でIQ65から67という結果が出ていて知的障害の可能性がある→検査に真面目に取り組んでいなかったからその結果になっただけ、50代になるまで特段の支障もなく社会生活を送り貯金もちゃんとあることを考えると知能に問題はない。
②酒を飲んで酔っていた異常な心理での犯行だった→犯行前に少し飲んでたけど日頃とそんなに量が変わらないから異常な心理の訳がない。
③Fさん夫婦がごみを畑に捨てたという妄想に基づく犯行だった→日頃の行動などから被告なりに根拠があって下した判断であって妄想とは言わない。

一方で証拠隠滅も事前準備もしていない突発的な犯行であったことなどを勘案し無期懲役の判決が下った。それに対して弁護側・被告側双方控訴し判断は高松高裁へと持ち越しに。

{二審・高松高裁/1989年11月28日}
 二審でも弁護側は心神耗弱を主張。しかし原審同様それは通らなかった。さらには、一審で「処罰を免れる意図のない破滅型の犯罪であり一般予防の観点から死刑にする必要がない」とされた部分に疑義を呈されたことや、被告人が過去に家の前を通りかかった通行人に中を覗き込まれた際、激高して追いかけ棒で殴り怪我をさせたことがあったことから、粗暴な性格の矯正が難しく懲役刑にするのは不適とされて逆転死刑判決が下る。
 さらには、かつてGさんと池本が不倫をしているという噂が立った時にFさんが穏便に事を済ませようとしたことがあるように、被害者の落ち度らしい落ち度がなかったことや、事件後犯行現場を見たFさんの姉があまりの惨たらしさに錯乱して自殺してしまったこと、さらには犯行時の状況を池本が覚えていないと言っていたことから真摯に事件と向き合う姿勢が見られないと思われたことも、一審の判決が覆った要因だろう。
 その後被告側は上告するも1996年に棄却。恩赦出願と再審請求を行ったもののいずれも棄却され2007年に12月7日に死刑が執行された(享年74歳)。余談だが、この日同時に死刑執行された藤間静波、府川博樹と合わせて法務省が氏名、年齢、犯罪事実の公表した初めてのケースとして名前を残している。

4,長崎の三人殺害事件(村竹正博元死刑囚)

{事件内容}
 1978年3月、長崎県東彼杵郡波佐見町の陶器販売業の村竹正博(当時32歳)は、前年夏に詐欺事件の被害を受け自分の経営していた会社が倒産の危機に瀕していた。そのため彼は高校卒業後からの付き合いである経営者仲間のIさんに相談。彼に貸していた300万円の返済と資金援助を求め、返済と1000万円援助するとの約束を取り付けた。そしてその後、Iさんからパチンコ店の新規出店や彼の愛人のJさんに服屋を開かせるために土地を探して欲しいと頼まれたこともあって、村竹は援助の話が順調に進んでいると考えていた。
 しかし3月20日、Iさんの経営するパチンコ店へ手伝いに行ったところ、彼から資金援助を断られたうえ、自分の経営手腕を非難されてしまう。これに激高した村竹は彼を殺してやろうと決意。というのも2000万円は必要な状況で梯子を外された挙句、彼以外には経営状況の悪化を黙って体裁を取り繕い続けていたことから、資金援助がされなければ倒産は必至という状況まで追い詰められていたからだ。こうして殺意の芽生えた村竹は、明日家に呼び出して殺害しようと架空の土地取引の話を出し、家に来るよう約束をした後は平静を装うため普段通り彼と競輪場やJさんの家へ遊びに行った後そのまま帰宅した。
 そして翌21日、午後二時半ごろに家に行くとIさんから連絡が入った後は妻のKさんを佐世保市内の美容院に連れていき、一人家でじっと彼を待ち続けた。しかし、家に帰ってきたところでやっぱり午後6時ぐらいになると連絡が入ったので、Kさんに迎えに行くから帰ってこないように告げる。その後も余った時間でビニール紐だけでは心細いからとバットを買い、自宅ではなく他所で殺そうと計画を練り続ける。しかし、6時になったところで連絡を入れてもまだ来る気配がなかった。こうなれば今日殺害するのは無理か、そう思って妻にタクシーで帰ってくるよう連絡した後、実家で夕飯を食べ再び自宅に帰るとIさんから8時に家に来ると連絡が入った。
 こうしてやっとのことで合流した彼は殺害計画を進めるべく隣の川棚町にある空き地を目指して……、と思ったがIさんだけではなくJさんも同伴であったため一瞬どうしようかと迷いつつ、自分の車にバットを乗せ目的地へと向かった。そして目的地についたところで雑談をしていると、さっそく地主のところへ行こうとIさんが提案。これに対して村竹は「俺が追い詰められているのに何でお前はそんな事業の拡大ができるんだ」と、己を見捨てた彼に対する殺意を滾らせながら真っ暗な農道へとおびき寄せ、持っていたバットを振り下ろした後ベルトで首を絞めて殺害した。
 その後、車に戻って今度はJさんも呼び出して殺害を決意。だが、格別恨みがあるわけでもない彼女を殺すのは抵抗が、しかし殺さなければIさんを殺したことが発覚してしまう。そう思って遺体を捨てた畑を少し通り過ぎたところで覚悟を決め、再び隠していたバットを振り下ろし、彼女のズボンのベルトを奪い取り絞殺。そして荷物を集めた後、Jさんのカバンに入っていた現金13万5千円を奪ってそのまま帰宅した。
 しかしそんな少額では2000万円の運転資金には到底足りない。布団に入った彼は逡巡した後、Kさんを殺害して保険金を得てそれを元手に事業を立て直そうと決意。そして翌朝、子どもたちが学校に行った後、従業員に外出するよう告げ自宅兼仕事場から邪魔者を遠ざけた後は、何度かためらったもののすれ違いざまに彼女の首を昨日買って使わなかったビニール紐で絞めて殺害。その後、自分も何者かに襲われたように見せかけるためビール瓶で自分の頭をたたき首にロープを巻き付けて倒れこんだ。
 こうして帰ってきた従業員が救急車を呼んで彼も病院に搬送され、計画は目論見通り上手く行ったかに思われたが、早々に偽装工作は見破られて彼は強盗殺人、殺人の容疑で逮捕されることとなった。

掲載用 村竹正博

※村竹の自供を伝える記事(ヘッダーにも使用)。個人情報の都合から削ったが、4段目で村竹の自宅に愛人方の家具の請求書が届き妻と揉めていたとの記載があった。

{一審・長崎地裁佐世保支部/1983年3月30日} 

 3人殺害、しかも強盗殺人と保険金殺人でI,Jの遺族も極刑を求めているということから検察側は死刑を求刑。しかし、村竹の情状や犯行態様を見て行くと、被告側に有利に働く事情が多々あった。

・利欲性が決して高くない→Iさん殺害時には一応金銭奪取の目的はあったがあくまでも報復したいという意思に付随するものだった。Jさんについてはその口封じが主目的。
・保険金殺人の計画性は高いとは言えない→寝る前に少し考えて実行に移したものだったため。さらに言うとKさんの保険を積み増しした理由はセールスに行ったときに農協の職員に勧められたからで、決して保険金殺人を当初から企てていたとは到底考えられなかった
・被害者に一応賠償をしている→Iさんへの貸金については債権放棄、Jさんの家族に対し100万円の賠償金を家族が支払った。
・村竹の犯罪性向が元来高いとは言えない→前科はなく交通違反の反則金を支払ったことがあるのみ。当初はKさんを殺したことについて心中目的と弁解したが現在は犯行について深く反省している。犯行時にもIさん以外の2人を殺害するのには相当ためらいを見せていた

 こうして利欲目的で3人殺害という事案にもかかわらず奇跡的に死刑判決を免れたが、検察側・被告側ともに控訴。判断は福岡高裁へ持ち越しに。

{二審・福岡高裁/1985年10月18日}
 二審でも一審同様、検察側は遺族の声と犯行態様を根拠に死刑を求めて弁論が続いた。そして事実認定という面については特段の変化はなかったものの、「自己中心的な考えから親しく交際してきたIさんを、その犯行の隠ぺいのためにJさんを、その翌日にKさんを殺害したのは『通常人の域をはるかに超えた極悪非道な者が短期間に行った凶悪極まる事案』」として、一審の判決はあまりに軽く失当であるとして逆転死刑判決が下った。
 死刑判決に対して村竹は上告するも1990年に上告が棄却されて死刑が確定。その後は再審請求等を特にすることもなく、1998年に福岡拘置所で死刑が執行された(享年54歳)。余談になるが同日の福岡拘置所では強盗殺人事件の仮釈放中に再び強盗殺人事件を起こした武安幸久の死刑も執行されている。あの2日間がなければ絞首台はおろか刑事施設とも無縁だっただろう男が、犯罪一色の人生を送った男と同じレベルに堕ちて、同じ日に死んだというのは複雑に感じざるを得ない……。

まとめ

 こうやって4人分をまとめてみると、現在の量刑基準だったら全員死刑になっていてもおかしくはないように見えたのですが、量刑基準がかなり緩かったといっていい80年代後半ということを考えると、本当に10回裁判をやったらその都度結果が変わっていてもおかしくないように見えました。まあ流石に村竹は翌日に奥さんを殺してるのを考えると厳しいかもしれませんがそれでも……。
 井上については、心神耗弱よりも犯行当時は若く不遇な成育歴であったことから助けてあげよう的な考えのほうが強そうに思いました。実際に判決文を見ると明確に心神耗弱だと認定しているというより「心神耗弱の可能性が排除できない」とまでしか書かれていなかったですし、むしろ量刑の理由で彼の情状面についてかなり書かれていましたからそんな気がします。結果的には真面目に服役して理解のある被害者遺族が心の支えになっているのを考えると死刑破棄が正解だったかもしれないと言えるケースかもしれません。ただ、逮捕後から一貫して反省していたようですから、巡り合わせや運でチャンスが転がり込んできたというよりも、遺族の方のご理解を掴み取れたという表現のほうが適切でしょうか。ただ、これを見て死刑廃止派が「修復的司法さえあれば更生できるから死刑を廃止しろ」言いながら被害者遺族にそれを強要することがないか不安。
これは自分の推測になってしまうのですが、2020年6月6日にTBSの報道特集の中で「仮釈放の現実 死刑を免れた男たち」という特集が放送されていたので、出てきた受刑者の中で一人井上じゃないかと思った男がいたんですよね。求刑は死刑で服役36年目、50代後半で罪名が殺人罪。服役年数が若干ズレているような気がしますが、若干ボカシ越しに見えた鼻筋とかが似てますし、罪名と年齢を見ると求刑死刑だった被告の中で当てはまるのは彼ぐらいでしたので。出所後のことを考えて運動のある日はグラウンドを15~20周、生きて娑婆に出て働くことを想定して必死に走っていたのを見ると、仮釈放の機会が手に入って欲しいと彼を応援したくなりました。
 桑野については、現在だったらDVがらみの事件として二審でも死刑が当然と断じられていても仕方がない気はしますが、当時の量刑相場だったら無期でも仕方がなかったと思います。財産目的で近付いたと断定した検察の主張はかなり無理があったし、そのあたりも考慮されたのかもしれません。個人的にはこの事件で勾留されるまで読み書きがまともにできなかった反面、店舗の内装工事や飲食店の経営では仕事のできる人だったというのが気になりましたね。どうやって仕事してたんだよ……。
 池本は銃犯罪の中では珍しく計画性は皆無の事案で、永山基準に被害者の数という要素がなければ本当に無期になっていたように思えます。そもそもHさんと顔を合わせさえしなければ求刑は無期、運が良ければ判決は有期で今は娑婆にいられたかもしれないですね。ただ、「二人殺しても三人殺しても一緒だ」という心境で3人目のHさんに銃口を向けたというのが殺人犯の犯行時の率直な心境なんでしょうか。この記事を読まれている方だったら量刑傾向について把握されていると思うので、二人なら無期の可能性が半分ぐらい残る、三人目を殺ればほぼ確実に死刑と考えるでしょうが……。多く殺せば死刑になる可能性があることを無視しての凶行であることを考えると、当時の池本には死刑の抑止力が一切効いてなかったような気がしますね。
 村竹はこの4人の中だと一番犯罪傾向もなければ詐欺被害を切っ掛けに転落したということで個人的には同情したくなるけれど、いくら何でも立て続けに二人殺した次の日に奥さんまで殺して無期はいくら何でも軽すぎると思いました。本当にこの4人の中だと一番犯罪と無縁の生活を送っていたようには見えたので、かわいそうな部分は非常に大きいのですが……。ただ、資金繰りは詐欺に合う以前から結構綱渡りだったのに、外車を乗り回していたっていう点が裁判で触れられていたので、個人的にはそう言う部分が情状面で足を引っ張ってしまったように見えました。ほかにも逮捕直後には愛人の存在も示唆されていた(裁判では一切触れられていなかったので本当にいたのかは不明)ことや、外車で金を借りに商工会を訪ねたことが報じられていたのもあって、それも二審での逆転死刑につながった感は拭い難いです。
あとはこの4人に共通することとして、いずれも犯罪傾向が極端に強いわけでもなければ(桑野のみ服役経験があるが微罪のみ)情状酌量の余地もあって、一審の裁判官も二審の裁判官も相当悩んで判決を下したと思います。結果的に死刑になった池本、村竹の二人も、井上のように無期になっていたら彼同様に更生の道を順調に歩んでいてもおかしくないような感じはするんですよね。実際どうなるかはわかりませんが、少なくとも絶対更生することはないとは言い切れないはず。求刑が死刑で判決が無期懲役のニュースが出るたびに「裁判官がおかしい」、「死刑にしろ」とネット上では即座に罵声が飛び交いますが、私は犯行に至る経緯や量刑の事情をよく読んでから疑問を投げかけることができるようになりたいです。

 今回もグダグダ気味でしたが結論はこの2点。
・死刑と無期の境界は結構曖昧で裁判官次第で結果が変わることは十分あり得る
・求刑が死刑で判決が無期懲役の事案には、「裁判官の視点から見て」相当大きい酌量すべき事情が存在する

 最後まで読んでくださり有難うございました。ご意見ご指摘はTwitterのDM,もしくはメールにていただけると幸いです。

※2021年8月3日に一部修正致しました。

出典
序論
・昭和56(あ)1505判決文
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/235/050235_hanrei.pdf
井上保幸
・福岡高等裁判所 昭和58年(う)160号判決文
・読売新聞1983年2月10日朝刊「『シンナー耗弱論退け』通り魔・井上に死刑」
・毎日新聞2009年10月14日朝刊「正義のかたち:重い選択・日米の現場から(3) 『償い』知り仮釈放願う」
・漂白旦那様「求刑死刑判決無期懲役【1981年~1985年】」
https://hyouhakudanna.bufsiz.jp/kyuukei8185.html
・「無期刑の執行状況及び無期刑受刑者に係る仮釈放の運用状況について」法務省HPより
http://www.moj.go.jp/content/001274998.pdf
桑野藤一郎
・東京高等裁判所 昭和63年(う)525号判決文
・漂白旦那様「求刑死刑判決無期懲役【1986年~1990年】」
https://hyouhakudanna.bufsiz.jp/kyuukei8690.html
・「無期刑の執行状況及び無期刑受刑者に係る仮釈放の運用状況について」法務省HPより
http://www.moj.go.jp/content/001274998.pdf
池本登
・高松高等裁判所 昭和63年(う)99号判決文
・漂白旦那様「死刑囚リスト」https://hyouhakudanna.bufsiz.jp/cplist.html
・折原臨也リサーチエージェンシー様「死刑囚名鑑2」
http://azegamilaw.web.fc2.com/meikan2.html
村竹正博
・福岡高等裁判所 昭和58年(う)396号判決文
・読売新聞1978年3月24日夕刊「『妻と二人殺した』連続殺人全面自供 保険金も目当てか」
・読売新聞1978年3月25日朝刊「金策を断られ凶行 連続殺人全面自供 妻は保険金目当て」
・漂白旦那様「死刑囚リスト」
https://hyouhakudanna.bufsiz.jp/cplist.html
・折原臨也リサーチエージェンシー様「死刑囚名鑑2」
http://azegamilaw.web.fc2.com/meikan2.html


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