どこでもないところから「わたし」を探す 【ネーゲル 『どこでもないところからの眺め』, ALife Book Club 5-4】

こんにちは。Alternative Machineの小島です。
ネーゲル『どこでもないところからの眺め』の最終回をお届けします。

今回は、どうやって主観を客観していくかという話のつづきです。
客観世界(どこでもないところからの眺め)にきたために、「わたし」というものの居場所がわからなくなるというお話です。

前回からひきつづき、どうやって主観的なものを客観化していくかというお話です。

ネーゲルの3ステップ

まずはネーゲルのアプローチをおさらいしておきましょう。

世界は客観的に理解できる側面、つまり、特定の意識ある存在やその種類に依存しない立場から理解できる面をもつ。それでは、意識ある存在は、いったいどのようにこの世界に組み込まれるのだろうか。この問は三つの問に分けられる。まず、頭の中で起きていることは、それ自体客観的なのか。次に、客観的だとふつう信じられている現実の物理的側面と、この頭のなかの出来事とはどのように関係しているのか。最後に、世界にいる多くの人々のなかにこのわたしが入っているということが、どうして可能なのか、という問だ。

ネーゲル『どこでもないところからの眺め』(春秋社)

前回はこの三つの問のうち最初の二つ(「頭の中で起きていることは客観的なのか?」、「頭の中の出来事と物理世界はどう関係するか?」)についてお話しました。
客観世界の中であっても「主観的な見方」というものを(ある程度)想定できて、なおかつそれと物理的な世界観は同じものの別の捉え方(二面論)となっているということでした。

今回は最後の問い、「世界にいる多くの人々の中にこのわたしが入っていることがどうして可能なのか」を取り上げていきます。

どこでもないところで我を失う

この最後の問い(世界にいる多くの人々の中にこのわたしが入っていることがどうして可能なのか)、どういうことなのかもわかりにくいので早速ネーゲルの言い分を聞いてみましょう。

このように考えられた世界は、非常に多種多様な事物や観点をふくむが、それでも中心が無い。この世界は、わたしたち全員をふくんではいるが、だれ一人として形而上学的に特別な地位を占めてはいない。だが、この無中心の世界についてよくよく考えてみると、この世界のなかの、たいへん大きな一事実が描かれていないようだと皆それぞれ認めざるをえない。その事実とは、この世界にいる特定の一人物が自分自身であるということだ。

ネーゲル『どこでもないところからの眺め』(春秋社)(太字は引用者による)

いかがでしょうか?

主観的なものをなんとか客観的な世界にとりこむため、前回見たように、各個人の観点を含んだ客観的な世界を考えることができました

ところが、その結果到達したこの世界(無中心の世界)をあらためて振り返ってみると、この世界のどこに自分がいるのかわからないというのです。

これは主観から出発する普通の考え方ならありえない状況です。ネーゲルは客観的な世界観をもとめ、「どこでもないところからの眺め」に至った結果、ここはどこなのか、はたまたこの世界のどこにわたしがいるのかの手がかりを失ってしまったのです。

なんだかわけのわからないことになってきました、、、

この状況を何とかするために、ネーゲルはこの問題を二つに分割して考察していくことにしました。

だから、問の最初の半分はこういうことだ。特定の一人物、特定の一個人、すなわち、ある客観的に無中心な世界の中の多くの人物のうちの一人にすぎないトマス・ネーゲルが、いかにしてわたしであるということが可能なのか。
問の第二の部分は、あまり馴染みがないかもしれない。それはこういうものだ。いかにしてわたしはたんにある特定の一人物でありうるのか。(中略)一体いかにしてわたしは、世界のなかのある特定の一人物という特殊なもの ― どの人物であろうと ― でありうるかということなのだ。

ネーゲル『どこでもないところからの眺め』(春秋社)

たくさんいる人のどれがわたしなのか?

前半の問は、世界のなかの特定の一個人がわたしであるとはどういうことかということです。

これもふつうだったらありえない問です。ざっくりいえば、(僕の場合は)わたしは「小島」ではなくて、ほかの誰かなのかも、、ということなのですが、そんな取り違えは起きませんよね。

こんなとんでもない問が可能になってしまったのは、前回から組み上げてきた「どこでもないところからの眺め」のせいです。
僕からの眺めをベースにしていれば、これが自分だと言えるわけですが、それを客観化してしまったために手がかりを失っているのです。

もうこうなってしまうと逃れることは困難です。
例えば、一番よく知っている人を選ぶとかをすることで、たくさんいる中から「小島」を特定することはできます。でも、そうなると「小島」とそれ以外は、持っている情報の多い少ないの違いでしかなくて、「わたし」と「それ以外」にはっきりわけられる根拠にはなりません。

よって、これをうまく扱うためには前回つくった無中心の世界をなにかしらアップデートする必要がありそうです。

わたしが特定の一個人である、とはどういうことか?

では今度は目線を変えて、後半の問「わたしが、ある特定の一個人であるとはどういうことか?」という問いを考えてみます。

これも問としてわかりにくいのですが、たとえば今だったらVRを想像してもらうとよいと思います。
VRゴーグルをつけて他の人の視覚情報(もしくは架空の世界の景色)が見えているという状況を考えてみましょう。
この場合、この人が見ているものは自分の視点や身体、身の回りの環境とは関係がなくなっています。それでもこの人は自己をもちつづけていて、ここではないどこかに存在している感じがするはずです。

つまり、「わたし」は特定の個人につねに紐づいているわけではなく、分離しうるものなのです。

この切り離しうる「わたし」に対応するものを、ネーゲルは「客観的自己」とよんでいます。
そして、この「客観的自己」というものを導入することが、この中心のない世界における「わたし」を考える手がかりだろうということになるのです。

ここからの展開

ということで、ネーゲルがどう主観を客観化していくかという話を見ていきました。どうだったでしょうか?

もうすでに、かなりややこしく、なおかつかなり哲学的になってきたので僕の解説としてはこの辺で終わりとさせていただきます。

でも、実はここまでで取り扱った話は、本全体の四分の一程度くらいしかカバーできていません、、

これ以降どんな展開になるかというと、まずは最後にお話した「客観的自己」の話があります。これは自分から超越した広い物事を把握する力を持っています。これがどうやって可能なのか、という話になっていきます。

そして、なんといってもここから多くの紙面を割いているのは倫理の話です。

本書は主観と客観をどうつなぐかという話で、それゆえ心の科学のような主観をどう科学的に扱うかということと親和性が高いものでした。

じつは、倫理も同様にこの観点とかなり親和性が高いトピックです。というのも、善悪の判断といったものは主観的な側面が強い一方で、それが倫理としてはたらくためにはみんなに共有されうるもの、つまり客観的なものでなければなりません。
よって、倫理をどう成立させるかということも、主観と客観をどう結ぶかというおなじフレームで考えることができるのです。

科学者としては、例えば、自由意志はないといったことを平気で言ったりする(ぼくもわりとそう思っている)のですが、それをちゃんと徹底して考えるとじつは倫理的な含意が生じてきたりします。そのへんの無自覚さを反省するうえでも、本書の後半部分はとても興味深いです。

興味を持っていただいた方は、ぜひ本書を手にとってみてください!!

次回予告:???

というわけでネーゲル『どこでもないところからの眺め』はここまでとします。
ここまでお読みいただきましてありがとうございました!

次回の内容はまだ決まっていないのですが、なにかしらの番外編をお届けします
また来週お目にかかりましょう!

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