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私なりの「マトモの定義」

敬愛する社会学者、宮台真司先生がよくおっしゃる言葉。
「右か左かではなく、マトモかクズか」

こう言われたときに、「自分はマトモな人間だ」って胸を張って言える人って、ほとんどいないのじゃないかなと思うんだけど、
「自分もクズかもしれない」と反省するのと同時に、「ではマトモとは一体どういうことなのか」と考えることも大切だと思います。
宮台先生の存在を知ってから、さまざまな人に出会い、さまざまな経験を重ねていく中で、暫定的ではあるけれど、自分の中で「マトモの定義」を作ることができたので、それをまとめます。
「定義」というと大袈裟だけど、こういう自分でありたいな、という自分に対する希望と、こういう人とは楽しい人間関係を築けるだろうな、という他者に対するアンテナのようなものです。


①世界や社会に対する好奇心・知識欲があること

これは大前提中の大前提。
好奇心や知識欲がなく、ただ同じ毎日の繰り返し、システムの歯車でいることに疑問を抱かない、むしろ新しいことを恐れて拒否する、という人とは、残念ながら仲良くなれないと思ってしまいます。
そういう人は論外としても、好奇心旺盛に自分の人生をエンジョイしているように見える人の中にも、実は要注意人物が紛れています。
ビジネス脳、自己啓発脳、リア充パリピ脳などです。
これは宮台先生のよくおっしゃる「見たいものだけを見て、見たくないものは見ない」という姿勢を保ったまま、「いいとこどり」で人生を楽しもうとしている人たちです。
おもしろがることだけではなく、疑問を持つこと、問題意識を持つことも大切な要素になってきます。

②弱者に対する想像力があること

好奇心旺盛でも要注意な人たちに欠けているのが、この要素だと思います。
どんな小さなコミュニティにも、国家や世界にも、マイノリティや声の上げづらい人、困っている人が存在しています。
また、どんな人の心の中にも弱い部分があります。
自分も弱い人間だし、周りの人も弱い人間です。今はたまたま困っていなくても、誰でも病気になったり年を取ったり、弱者になる可能性があります。
弱者に対する想像力がある人は、自分の弱さを認められる心の強さがあり、相手に寄り添う優しさがある人だと思います。

③自分の存在の暴力性に気づいていること

世の中に、完全に正しい人はいません。
自分が正義だと思っていることが、万人にとって正義だということはあり得ません。
人間は、どれだけ気をつけていても無意識に差別や偏見を持ってしまっているものだと思います。
意図しなくても、自分の発する言葉や態度が、誰かを傷つけてしまう可能性は常にあります。
だからと言って、萎縮してしまう必要はないのだけれど、自分の暴力性に気づかずに「正しさ」の言葉や行動を振りかざすよりも、それを自覚した上で発する覚悟のようなものがある人の方が、安心して一緒にいられます。


以上の3つが、私がたどりついた「マトモの定義」です。
私も、ひどく落ち込んだときは、好奇心や知識欲なんかかけらもなくなるし、自分に必死になりすぎて想像力を持てないこともあるし、ついつい無自覚な暴力をぶつけてしまうこともあります。
全然まだまだなんだけど、調子のいいときから少しずつ、こういう自分でいられるようにしたいな、と思っています。

人と会話したりニュースに接したりして何か違和感を感じるとき、この3つのどこかが引っ掛かっていることが多いと感じています。
また、引っ掛かりなくこの3つを備えていそうな人と出会うと、仲良くなりたいアンテナがビシビシ立ちます。
肩書きとか年収とか年齢や性別より、よっぽど感度の高いアンテナだと思っています。

この前のイベントで、宮台先生は「倫理はその人の過去の記憶の中にある」というようなことをおっしゃっていました。(大意です)
過去の記憶や体験や感情にもぐり、紐解き、反芻して、自分なりの倫理を掴んでいく。
私は自分の過去を参照にして、この3条件を導き出しました。
なのでこれは絶対普遍(不変)の定義ではなく、あくまで私の、今の時点での暫定的な定義です。
それでも何か役に立ったり、共感したり、できたらいいなと思って書いてみました。

ため息が止まらないほどクソなことが溢れている世の中だけど、こういう大切なことを共有できる仲間の存在のおかげで、笑って過ごすことができています。
少しでもマトモな自分でいるためにも、マトモな仲間を増やすためにも、「マトモの定義」考えてみることオススメですよ。


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