掻いたらくすぐったい足の裏の蚊にさされみたいに

窓を開けて昼寝をしていたら、足の裏を蚊にさされた。足の甲とか脛、ふくらはぎならこの夏たくさん刺されてきたけども、裏を狙われるのは珍しい。膝周りと比べれば露出している時間が少なくて、裸足でも立っていれば地面に接して蚊の目につかなくなるはずだから、毎度無事なのも納得である。足の裏を蚊にさされるなんてことは、窓を閉めず蚊取り線香を焚くのも布団をかけるのも忘れて眠り呆けなければ起こらない、だらしなさの象徴みたいな出来事なのだ。

足の裏は足のなかで特別な場所だ。脛や腕を触っても「触っている」としか思わないが、足の裏を触ったときは「くすぐったい」という反作用が返ってくる。くすぐったいのがなぜか科学的によくわかっていないらしいのだが、他のところと違う感覚をしめすのは、神経が集中しているからだそう。動物として大事あるいは目が届かず守りにくいところは触覚が敏感になるらしく、足の裏や脇の下がそれにあたるという。ということはやはり足の裏を蚊に刺されるのは社会的な人間としての怠惰さだけでなく、動物としても不注意極まりなく劣等さを示す失態なのである。

その不精さの代償として引き起こされる不快さは、他のところを刺された場合とだいぶ違う。かゆみの感じ方は他の皮膚と大差ないのだが、いざ掻くとなったときかゆみが解消されていく快感と並行して、くすぐったさが生まれる。「かゆい」がなくなる代わりに「くすぐったい」がその空白を補うように入り込んでくる。くすぐったくなりたくなれければかゆくなければならず、かゆみを忘れたければくすぐったさを覚えなければいけない。そのもどかしさとずっと戦うことになる。

好きな人と一緒になりたいけれどそれを伝える恥ずかしさと不安とか、新しい一歩を踏み出したいけれどもいまの生活を捨てたくない気持ちとか、そういう類のものだと思えばいいのか。欲求とか願望に手をのばすときに、自分が時間と空間のなかにいる存在であるがゆえにふれなければならない境界の部分の存在が露わになる。そのままでいる居心地の悪さと、変わろうとする自分や周りが起こす拒否反応のどちらかは必ず訪れなければいけないのだろうか。

そんなことに悩んだのは出かけているあいだだけの話。家に帰ったらムヒを患部に塗り、炎症が治まった足の裏はひんやり気持ちよくなった。薬がなくても、保冷剤で冷やしてかゆみを感じなくさせることもできる。かゆみを忘れてるうちに、いつの間にか腫れは引いていたりする。人の身体は意外となんでも自然に治るようにできている。ご飯を食べて栄養をとれば、必要なものがそこに届くはずだ。足の裏のことを、すべて自分の手だけで解決する必要はない。そうやって、他のかゆみのためにムヒを買っておいた自分、ケーキについてきた保冷剤を冷凍庫にためておいた過去の私に感謝した。

ふれるとかゆいその腫れには、薬を塗りなさい。それか忘れて勝手に誰かに治させなさい。諦めるわけではなくて、普通に生きていれば時間は前に進んで、身体に要らないものは流れていくものよ。

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