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メンバー自己紹介④ 米澤 柊太

はじめまして!
Alquestメンバーの米澤柊太(ヨネザワシュウタ)です。
現在23歳で、出身は北海道。隠岐島前地域で高校生活を送った後に、長野県にて大学生をしています。

本記事では僕がなぜチームで世界一周をすることになったのか、どんな人生を歩んで来たのかを紹介します!チームの一員として、そもそもどんな人間なのかを知って貰えたら嬉しいです!
レッツゴー!


北海道での幼少期と足の怪我


一番可愛かった頃


2000年の1月6日、北海道の田舎(洞爺湖という湖の畔)にて僕は誕生しました。3000g超えの重たい赤ちゃんだったそうです。幼少期は豊かな自然と優しい両親に囲まれながら、すくすくと育ちました。両親が営むレストランでお客さんに図鑑を見せたり、同居していた祖父と山の幸を採ったりと、人と自然が好きな子だったようです。これは今に通ずるものがあり、母にはよく「基本は3歳の頃とあんまり変わらないよね」と言われます。三つ子の魂は百までですね。

しかし、幼少期からもう波乱は訪れました。事はシンプルで、地元の子達と仲良くなれなかったのです。僕は仲の良い友達のつもりだったのですが、向こうはそうではなかったようでした。今思えばハブられてた面も多かったと思います(笑)。大好きだったお気に入りの遊戯王カードを盗まれた時は号泣しましたね。同時に、人をこんな気持ちにさせるのは良くないと強く思ったことを覚えています。

そんな生活も、小学校3年生の時に行った引っ越しを機に一転しました。両親がレストランを畳み、北海道小樽市で新たなレストランを始めました。名前は「小樽muse」です。ハンバーグが美味しいのでぜひ行ってみてください!
 
完全に話が逸れましたが、小樽での新生活は大変でありながらとても楽しいものでした。普通に友達ができて、遊べるだけで嬉しかったものです。

引っ越したばかりの頃


両親が仕事の間、6歳離れた妹の面倒をみていたことで、家事も一気に上達した時期でした。

そんな楽しい生活に大きな変化が訪れたのは小学校4年生の冬でした。学校のスキー学習中、カーブを曲がりきれなかった反動で鉄柱に激突し、左足を複雑骨折しました。入退院を繰り返し、病院を変え、10回近くの手術を重ねたものの、左膝は曲がらなくなりました。

手術後で寝ているところ
手術後の処置で内部の無駄な血を抜いているところ

足は現在でも曲がらないままです。
当時の僕にとっては大きすぎる出来事で、完全にその後の人生に絶望していました。小学校、中学校までは「スポーツができる=かっこいい」というイメージが固まっており、一生彼女もできず、普通の人より劣った人生を歩むんだ、と悲観していたと思います。小学校の卒業アルバムに将来の夢を書くコーナーがあったんですが、「お金を稼いで安定した生活を送れるサラリーマンになりたい」みたいなことを書いていました。完全に精神を病んでいますね。笑

かと言ってずっと性格が暗いわけでもありませんでした。初めはメンタルがボロボロでずっと泣いていましたが、運動ができないなりにどうやって人と楽しく過ごすのかを工夫するようになりました。まずは、誰とでも楽しく話すように心がけました。苦手でも、怖くても、人とちゃんと向き合わなければ自分から人は離れていってしまうと思ったことが、今思えば動悸なのかもしれません。とりあえず、人と向き合い、楽しませることを意識した結果、友達と毎日遊びながら帰れるようにはなっていました。それでも、どこか焦っていましたね。ただ、あの辛かった時期に沢山の愛情を注いでくれた、両親をはじめとした関係者の方々のお陰で、なんとか自分を保てていたのだろうと思います。


隠岐島前で広がった世界

そんな、自分のことで精一杯で、受験のことなど何も考えていなかった中学3年生の春。志望校もなく、どうせこのまま地元で人生を終えるんだろうと悲観していた僕は、朝に何気なくテレビを見ていました。すると隠岐島前高校の特集が組まれており、終わった頃にはここに行きたいと親に言っていました。もしかしたら、ここなら自分の決まった将来を変えられるかもしれないと思いましたね。

そこからは両親が資料を取り寄せてくれた事もあり、受験へのやる気に燃えていました。ただ倍率が24倍だという噂に尻込みをし、やっぱりやめようと逃げようとした時期もあります。そんな時に親は「とりあえず行ってみないと始まらない」と喝を入れてくれました。結果1人で現地開催の島留学説明会に行ったのですが、あまりにも楽しそうな環境に、帰宅後には「絶対あそこに行く」と断言しましたね。自然と人との交流が好きなことが根源にある僕には、夢のような環境でした。加えて、自分も自分なりの生き方ができるかもしれないと、改めて人生の一歩を踏み出せると、大きな希望をもっての選択でした。

結果的にあんなにビビっていた受験にはなんとか受かり、北海道からは初の島留学生として進学することになりました。

高校に進学後は、初めての経験の連続でした。まず、地域の課題に取り組む、地域を活性化するなどの概念はそれまでの頭にはなく、未知との遭遇でした。僕の地元では向かいの家の人ともまともに交流がなく、一言で地域と言っても全くイメージが湧かなかったんです。周囲には地域について学べるから進学したという子が多数おり、漠然と「うわ、もう出遅れてるじゃん」と思いましたね。運動を通じてすぐに島の子供たちと仲良くなる人、どんどんお手伝いに行って地域の方との信頼関係を構築している人など、尊敬できる人が周囲には沢山いました。

同時に、ちょっとの場所まで気軽にいけない、自転車を漕いで島も周れない、自分のモビリティの貧弱さを改めて体感しました。後にはただの言い訳で、挑戦しない理由にして逃げていただけだと思うようになったわけですが(汗)

ただ、島親さん(島で親代わりのような存在になってくれる地域の方)のことが大好きになり、片道1時間をかけて遠くの地域までバスで頻繁に通っていたことから、地域の方との交流や、地域とは何かについて考える機会が増えていきました。興味や知的好奇心もどんどん大きくなり、週末にはほぼ地域に出突っ張りで沢山の体験をしました。

島親さんの家で他校の学生と交流しているところ


中でも思い出深いのは島でヒッチハイクを行ったことですね。遠くの地域に行きたいけどバスがない。でもなんとか辿り着きたい!という思いから始めた、厚かましいこと極まりない取り組みです。今思えば相変わらず自分のことしか考えていないのですが、それをきっかけに仲良くなり、お世話になりまくった地域の方との大事な関係ができました。

こう見ると行動力があるように思えますが、自身の殻を破りたかったこと、島を精一杯楽しむこと、人と関わることの楽しさにのめり込んでいたこと、などの理由から湧き上がってきたもののように思えます。島での生活は、自分の持つ長所も短所も浮き彫りにしてくれました。とにかく飛び出してみること。その一点のみが自分の持つ武器だったと感じています。足りない部分も沢山出てきてきました。地域の方々と一緒に活動を行ったり、時には叱られたり(結構な頻度でしたが)のやり取りを行う中で、成長を重ねていけた環境でした。

寮での共同生活も刺激的でした。島留学生が暮らす寮では自治を掲げており、みんなが暮らしやすくするためにはどうしたらいいのかを考える機会や、仕組みづくりを学生が行っていました。学びの機会だけでなく、時には夜中まで語り合ったり、ぶつかったりした経験もかけがえのない思い出です。高校生活での出会いやエピソードは語りきれないほどあるので、小ネタとして今後出していくことにしますね。

とにかく、小さな島で僕の価値観は大きく広がり、出身地以上の故郷となりました。そして卒業して5年が経った今でもいつかは島に帰りたいと感じています。島での繋がりは現在でもとても大切であり、地元である北海道にはない感情が生まれるほど、高校時代は僕の中でかけがえのない時間でした。


暗黒の浪人期

はい、また何度目かの暗黒時代がやってきました。結論から言うと、僕は受験に失敗し、2浪しました。受験期になった高校三年生の時、今まで全く勉強してこなかった僕は悩んでいました。内容は果たしてこのまま勉強せずに推薦やAO入試で大学に進んでいいのか、についてです。多分過去の経験的には推薦を選択した方が合格の道は見える。しかし、自分はもっと地道な努力を積んで数値で測られる実力勝負を行った方がいいのではないか。

そんな葛藤が自分の中であった結果、ほぼ0から一般入試に向けての勉強を始めました。勉強方法もわからず、真面目に取り組んでいなかった初めてのセンター試験は散々たる結果でした。その時初めて焦りを覚えましたね。自己管理能力もなければ学力もなく、建設的な努力の蓄積もないただの怠惰なバカであることに気付かされました。周囲がやめておけと言った理由がわかる時期が遅すぎました。

現実逃避して偽物のトーマスに乗った浪人生の姿


その後は地元に帰り、自動的に浪人生活がスタートしました。優秀な塾講師の方に教えていただき、成績はかなり伸びたのですが、2度目の本番では緊張からか思うように結果を残せず、次年度に再挑戦することを決めました。流石にある程度の成績は取れていましたが、比例して目標を高く設定したことから、プライドがあったんですね。今思うと大学見学も行っておらず、何の目的もなく大学を選んでいた時点で終わっているんですが、当時は盲目でした。浪人2年目は自宅にて勉強を行ったのですが、自己管理能力の弱さからペース配分等もうまくできず、結局成績は変わらないままでした。一体何をしていたんでしょう。建設的な努力を計画的に行わなければ、成長に繋がらないことを痛感しました。

僕の人生はこれまで、痛い目を見なければヤバさを理解することができないという、愚かなパターンで統一されていますね。

浪人の2年間は、自分の意思を貫く点では成長に繋がったように思いますが、取り返しのつかない時間であることもまた事実でした。それ故、これからは取り返しがつくように行動していかなければならないと肝に命じました。なかなかできませんが。

加えてコロナ禍に突入したことで、優先的に地元の大学を選ぶことになり、全く頭になかった北海道の私立大学へ通うことになりました。その時点でメンタルはボロボロでしたね。今まで自分がしてきた努力が無駄になったように感じ、自分には何も残っていないという感情に支配されていました。世界一周メンバーの小谷さんにも「もう人生終わりました」みたいな連絡をした気がします。普段は生意気ばっかり言ってるのに、弱った時だけ助けを求める嫌なやつになってしまったなぁと思い、余計落ち込んだこともありました。

しかし、入学した大学では北海道地域での活動を積極的に行っている教授と出会い、大学とテレビ局が共同で設立したラボに所属、コロナ禍での新たな地域イベントを行政と共に立ち上げるなど、最初の絶望は?というくらい楽しい日々を送りました。

大学1年時に作ったランタンイベント


毎回周囲の人に恵まれていることで、辛いことでも立ち直れている点も共通していますね。初めはプライドを貫くために行った受験に関しても、大学という環境に入ってからどう行動するかが大事であることに気付かされ、小さい世界にいたなと感じるようになりました。それも含めて、浪人自体は大変で、人にも絶対お勧めしませんが、後悔はない経験となりました。


世界一周と大学生活

すみません、ようやく世界一周の話です。ここまで読んでくれている方はどれだけいるのだろうかと思いながら書いていますが、このパートだけでも読んでいただけると嬉しいです。

実は、僕の大学生活が始まる前、浪人1年目から世界一周の物語は始まっていました。北海道で浪人中の僕の家に、メンバーの小谷さんと有作が泊まりに来ました。当時有作は高校1年生。卒業済みの僕とは代も被っていなかったのに、よく知らないやつの家に泊まれたなと今でも思います笑。前提として当時僕は浪人中でしたしね。って考えると僕も僕ですね。
それは置いておいて、実家に向かう道中、今後何したいかの話をしていた時に、世界一周に行こうとなりました。詳しくはこちらに書いてあるのでぜひご覧ください。

チームで行くことになった過程とは別に、僕個人も世界一周に行きたいと思った理由があります。僕は小学生で足を怪我して以来、ずっと何かに追われ、人に埋もれてしまったら誰も周りに居てくれなくなるという気持ちがどこかにありました。いつも自信ありげなのにどこか自信がない、二つの側面を持つ自分が嫌になる時が結構ありました。もうコンプレックスは卒業したと思っていても、何かの弾みで人目が気になり、緊張してしまうことが今でもあります。

しかし、世界を一周し、様々な人や文化に触れることで、もう他の人と比べて自分を卑下するのはやめようと思いました。特に足を怪我していて、少しの距離を移動できない僕だからこそ、世界を一周して、未知の場所に行ってみたいと強く思いました。こう見ると結構自分本位だなぁと思いますが、当時は浪人中なこともあり、そんな自分の壁を乗り越えるという考えも強かったんです。

同時に、ドラクエのようにパーティで世界を周ったら楽しいんじゃないかという明るい理由も持ち合わせていました。高校時代の縁がきっかけで人生を変える旅が始まる。そんなかっこいいストーリーを妄想したら、やらざるにはいられないという気持ちでしたね。今の自分でも勇者のように世界を救ったり、仲間と共に課題を乗り越えて行くんだと、夢を膨らませていました。特に、足を怪我している自分が世界を周ることは、周りの飛び出せないで悩んでいる人たちにも勇気を与えられるのではないかという期待も込めていました。

そんな気持ちで世界一周に行くことを決めてから、大学生活は世界一周に向けて調整を行うことを最優先にしなければならないと考えました。大学受験には結果的に失敗したため、目下の課題は私立大学に通っていることでした。当時、借りていた奨学金はほぼ学費に消え、資金が貯まらないことが確定していました。そこで国立大学への編入学という選択肢を知り、実行しました。

編入先は長野県。見知らぬ土地でしたが、現メンバーのこたろうが住んでいたこともあって不安はありませんでした。編入試験は面接と志望理由書のみで審査を行う、推薦やAO入試に近い形態で行われましたが、抵抗は全くありませんでした。結果は26名中1人だけ合格。正直めちゃくちゃ嬉しかったです。もし落ちたら世界一周に行けなかったと考えると、細い綱渡りがずっと続いているような感覚でした。

因みに、編入試験のために長野に行った際、こたろうに一緒に世界一周に行かないかと誘いました。なぜかわかりませんが、一緒に行ったら楽しいんじゃないかと強く感じたことを覚えていて、今でもあの時誘ってよかったなと思います。

編入後は見知らぬ土地で大学に通い、一人暮らしが始まり、心細いと感じる暇も無いまま日々は過ぎ去っていきました。長野での生活は、ゼミで楽しく学び合える友人ができたり、有作が月に1回は家に遊びにきたり、こたろうとドライブに行ったりと、結局全然寂しい思いはしませんでした。

ただ、世界一周に行くための200万円を貯めるためには、かなり厳しい状況でした。一人暮らしは何かとお金がかかる上、僕の場合は仕送りが無かったので、生活費と学費を払うと手元には何も残りませんでした。そこで、大学の奨学金に手を付けず、そのまま貯金に回すことで世界一周の資金を確保しようと考えました。それからはバイトに勤しみ、生活費と学費を稼ぎ、世界一周のお金は貯まるものの手元には何も残らないという生活にグレードアップしました。今の所うまく行っていますが、将来痛い目にあうのでは無いかと正直少し不安ではあります... 。もうこれは世界一周を通じてめちゃくちゃ成長することで、取り戻すしかないですね。背水の陣担当として頑張ろうと思います。

大分細かいところを省いた上でこんな長さになってしまったのですが、世界一周の背景は以上になります。今振り返ってみると、気づいたら周りには一緒に世界一周に行ってくれる仲間が4人もいて、自分一人ではできないような大きな挑戦ができる時点で、幸せ者だと思います。人が離れてしまうと思って生きてきましたが、大事な人に囲まれて一緒に挑戦できる環境はいつの間にかできていました。その時点で、僕の目的は半分達成したと言っても過言ではありません。今後の人生でもずっと関わっていきたい人たちに囲まれているわけですからね。

ただ、この事実に気が付いてからは、旅の目的が明確に変わりました。どうすればメンバーたちとより濃い学びを得ることができるか。どうすればいつか帰るであろう島をより面白くする存在になれるのか。自分が中心の考えであることには変わりありませんが、自分の行動や成長を通して、周囲により良い影響を与えられるようになるかを強く意識するようになりました。

僕の人生は周囲の仲間や友人、尊敬できる人たちによって、辛い時も楽しい時も支えられています。これからは僕が恩返しをしていく番になりたい。僕を支えてくれた人たちのように、辛い時も楽しい時も大事な人たちを支えられるようになりたい。そんな気持ちが強くなった今では、以前より多くの視点を持って旅に臨めると考えています。

メンバーに迷惑をかけることもあれば、僕たちの活動を観てくださる方々に情けない姿を見せることもあるかと思いますが、精一杯頑張りますので応援よろしくお願いいたします!

以上、Alquestメンバー米澤の自己紹介でした!
長く拙い文章となってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました!


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