ピアノ物語

絶望を知っていた。言葉として。
絶望を知っていた。知識として。
絶望を知らなかった。経験として。
降りかかった事象に打つ手がないところまで来た。
立ち向かう術も回避する手筈も見つけることも掴むこともできず、ただ絶望に包まれた自分だけが存在している。
その反面、どうにかしなくてはと言う本能のようなものがまだどこか自分の中に残っているらしく、もう何時間も街の中を歩き続けている。
歩くことで解決することなんて何ひとつない状態なのに、動いていないと大きな声で叫び出してしまいそうだった。
いつから歩いているのかどこから歩き始めたのかもう記憶にない。
どうする?
何もかもを終わりにする場所を見つければいいのか?
死をもって解決する?
解決はしなくとも終わりには…できる。
そんな考えが思い浮かんだところで不意に足腰の力が抜けた。
その場に座り込みそうになるのをなんとか堪えて、
目に入った膝の高さの植え込みまで歩みを進めた。
倒れ込みそうなのに耐えて植え込みのヘリに腰を下ろす。
ふう、とも、はあ、ともつかない息がもれた。
次に立ち上がるのは人生の終わりの場所を探す時、かな。
ふっと足元が明るくなりつられて顔を上げた。
すぐ近くの街灯に明かりがついていた。
久しぶりに顔を上げた気がする。
目の前を見知らぬ人が通り過ぎていく。
みんな楽しそうだな。
行き過ぎる人々を目で追いかけるともなく見ていたら、人の流れが一方向に向いていることに気がついた。
何かあるのか?
更にその流れがある建物に吸い込まれていることに気がついた。
なんだろう。
こんな時なのにむくりと好奇心がわいた。
ふらりと立ち上がり、人の流れに乗った。
ここは…劇場?ホール?
遠い昔、学校の校外学習で訪れた場所がふっと頭を掠めた。
とは言ってもはっきりとその光景を思い出したわけではない。
なんだろう…何かが始まる気配と言うか空気と言うか…
「当日券はこちらです」
声のした方に顔を向けると受付のようなものが目に入った。
女性が誰にともなく声をかけている。
明確な意思があるわけでもないのにふらっと足がそちらを向く。
近づくと、その女性がこちらを見た。
目が合い、反射的に言っていた。
「一枚、お願いします」
久しぶりに出した自分の声は少し掠れていた。
「一般一枚ですね?」
頷き伝えられた金額を支払う。
一般。
こんなにズタボロでも一般。
特別じゃなく一般。
そんなことを思って口の端だけで笑った。
傍目から見たらただ口元が歪んだようにしか見えなかっただろうけど。
「こちらの列にお並びください」
次はそう声をかけられ、言われるがままに列に並び、数枚のお札と引き換えに手にしたチケットをもぎってもらいプログラムを受け取る。
そのまま進むと、期待に胸を膨らませたたくさんの表情と、大きく開かれた見るからに重そうな扉が目に入った。
なんだ、この空間は。
扉に近づくと、その中が見えた。
たくさんの椅子。
客席だ。
更にその向こうにステージ、そしてその上、真ん中にピアノ。
ふと学校の体育館を思い出す。
ゆらりと中に入り、片はじの切り取られたチケットを確認して該当の座席を探し腰を下ろした。
ステージの上のピアノは艶やかな黒。
ピアノと椅子以外何もない、誰もいないステージ。
学生時代の記憶の中にある、吹奏楽の準備とも合唱の準備とも異なる静けさがそこにはあった。
客席に穏やかな賑やかさがあるせいかも知れない。
空気が優しい。
今更ながら自分を異分子に感じ、いたたまれなくなり俯いて目を閉じる。
やがて注意事項と開演を告げるアナウンスが流れ、客席がライトダウンされた。
客席がしん…と静まる。
目を開けると、ステージ上の扉が開き、人が一人そこから歩み出て来たところだった。
客席から一斉に湧き上がる拍手。
歩み出て来た人物がピアノ脇で深々とお辞儀をする。
拍手の潮がすっと引く。
そして寄せる、ピアノの音。
音?違う、音じゃない。
波、風、光…
温もり、冷たさ、優しさ、悲しみ。
音を聴いているはずなのに、耳は音を受け止めているはずなのに、自分の真ん中に届く時には既に音は音でなく…
何が起きているのか分からなかった。
瞬く間にたくさんの音が、感情が、自分の中を通り過ぎて行った。
困惑と驚き。
そしてそれ以上の、なにか。
演奏者が立ち上がる。
湧き上がる万感の拍手。
会釈、拍手。
呆然と見ていた。
アナウンスが15分の休憩を告げている。
前半が、終わったらしい。
立ち上がらず、いや、立ち上がれずにいた。
やがて後半が始まった。
音の波に感情を委ねる。
絶望…?
間に間に見えるのは、絶望?
なんて今の自分にぴったりなんだろう。
もっと絶望を見せて、感じさせてはくれないだろうか。
そしてその向こう側を見せてはくれないだろうか。
これから自分が行かなくてはならない絶望の向こう側、それがどんなところなのか、音で見せて感じさせて欲しい。
そして、願わくば導いて欲しい。
安らぎ…?
絶望の間に見えるのは、安らぎ?
それとも嵐の前の静けさだろうか。
いや、静かに深く吹き上がる、これも嵐なのだ。
うねりあがる色を失った世界。
静かに荒れ狂う感情。
去った後には果たして何が残る?
聞こえるのは音。
ピアノの音。
だけのはずなのに。
そこから無限に広がる世界、感情。
最後のいち音が響く…

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ホールの外に出ると、もうそこはすっかり夜だった。
来た道を行く私の中に、もう絶望はなかった。
あるとしたら、かつて絶望と呼ばれていた何か。
絶望の先には何もなかった。
私はただ手の中に置いておきたかった全てを失っただけだったのだ。
取り戻せるものはひとつずつ取り戻そう。
取り戻せないものは、もう戻らない悲しみから目を背けずに堂々と大声で泣き叫ぼう。
悲しみ、悔しさ、後悔は、まだある。
でも、絶望はもうない。
これからもずっときっと、あの最後のいち音は私の胸の奥で響き続ける。

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