ピアノ物語3-1

「今日までありがとうね」
 そんな言葉と共に彼女にフラれたのは高校の卒業式の日だった。
 前日はおろか直前までそんな空気など微塵も感じていなかったので咄嗟に返す言葉が見つからなかった。
 そしてやっと口から出てきたのは、
「え?」
 なんて間抜けな。
 高校の入学式で一目惚れして、知れば知るほど好きになって、その勢いのまま告白してまさかのOK。
 派手ではないのに人目を惹く華がある、真顔は美人で笑顔は可愛い彼女。
 夢ようだと思ったし、夢のような3年間だった。
 そして今はその全てが夢だったような気がしている。
 ボクと言うカレシができてからも彼女はモテモテで、陰で「なんであんな良くもワルく(悪ではなくて恐らくワル)もないのと…」と言われているのは知っていた。
 そしてフラれた。
 当然の結果と言えば結果なのかもしれない。
 けどやっぱりショックだし悲しいし落ち込んでる。
 もう隣を歩くこともないのかな、と思うとそれだけでも悲しかったけど、彼女のピアノの調べを聴くことももうないのかな、と思うと更に悲しかったし寂しかった。
 僕は彼女のピアノの音色が好きだった。
 いや、今でも好きだ。
 クラシックは詳しくなかったし、今でも大して詳しくない。
 でも彼女が奏でる曲は、彼女が奏でているその時は僕にとって至上の曲だった。
 そうか、あの至福の時はもうやって来ないのか。
 
 卒業式の翌日、僕は彼女にプレゼントするはずだったシステム手帳をポケットに入れて散歩に出かけた。
 数日前、他の用事で出かけた先で偶然見つけた彼女にぴったりなそれを僕は迷わず購入した。
 可愛らしい色合いなのに子供っぽくなくて、同色で楽譜がプリントされたシステム手帳。
 曲名は分からない。
 もう彼女に教えてもらうことも叶わない。
 小一時間ほど歩いて公園に着いた。
 鉄棒で、小学校3年生くらいの女の子が逆上がりの練習をしている。
 少し離れたところのベンチで見るともなくその様子を眺めた。
 頑張るなぁ…
 あと少し、と言うところで失敗、を繰り返し続けているのを眺めているうちに、いつの間にか僕は心の中でその女の子にアツいエールを送っていた。
 頑張れ!
 そしてやがて…
 できた!
「おめでとう!」
 僕は思わず口走っていた。
 鉄棒を握ったままの女の子が僕にびっくりまなこを向ける。
 そりゃそうだ。でも口走ってしまったことは取り消せない。
「よ、よかったね」
 女の子はちょっと警戒する顔になりながらも、
「クラスでできないの、私だけだったから」
と応えた。
「あ、あのさ、これ、逆上がりができたお祝いに、もらって」
 自分で何を言い出すんだろうと思った。
 女の子の顔が明らかな警戒丸出しのそれになる。
 差し出したぼくの手にはシステム手帳。
 贈りたかった相手には永遠に届かないプレゼント。
「あ、じゃあ、僕の代わりに捨てて」
 何を言ってるんだ自分、更に倍。
 女の子の視線が僕とシステム手帳をゆっくり行ったり来たりする。
「捨てて欲しいの?」
 自分がそう言ったはずなのに、改めてそう聞かれて僕は返答に詰まった。
 しばしの間。
「大事にしてもらえたらいいかな。僕以外の誰かに」
 そう言った途端、涙がブワッと溢れてきた。
『大事にしてもらえたらいいかな。僕以外の誰かに。この手帳も彼女も』
 ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
 やばいな、超不審者じゃん。
「いいよ、もらってあげる」
 不意に女の子が言った。
 見やると、まだ警戒心は残ってはいたものの僕に釣られたのかすこし悲しそうな顔をしていた。
「ありがとう」
 僕は女の子に手帳を手渡すと公園を後にした。

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