ピアノ物語2

おそらく彼氏と彼女。
音楽ホールの客席、端っこの席に並んで座る2人連れ。
時はピアノリサイタルの前半が終わって15分休憩に入ったところ。
今時の清楚風女子大生と言う感じの女子が隣の男子に話しかけている。

「知ってる曲あったでしょ?」
「えーあー、うん」
(あったけどところどころって感じなんだよなー)
と言うニュアンスの返事。

男子は特にこれといった特徴なし。
至って普通。
かっこいいともかわいいとも言えないけどブサイクでもなく中肉中背。
至って普通。
その普通なところがいいんだよね、と一部の女子に言われてそうなタイプ。

「後半にも有名な曲あるよ?ほらこれ、雨だれって分かる?」
「えーと、雨の降る様子を…」
「解説読まないの」
「あはは」
(だってタイトルだけじゃ分かんないもん)
と、心の声。

「私、このくらいのキャパのホールの中ではここが割と好きなのよね」
「へー、そうなんだ?」
(このくらいのキャパって?小さい方なの?大きい方なの?ピンとこないんだよなー)
だよね。

「この間の◯◯さん(有名ピアニストの名前である)のリサイタルはここの倍以上入るホールで、でもチケット取るのがすごく大変で…」
「へー」
(と「ほー」のあいだな感じ)
打つ相槌に困ってる感じ。

分かる、分かるけど…
ほら彼女、続けづらくなったのか途中で話をやめちゃった。

今日がお初かな?
彼女の趣味に付き合ってホールにピアノを聴きに来たのは…

…彼氏くん!今の君の心理に一番近いのはたぶん、
「とんでもないとこに来ちゃったなぁ」
かも知れない。
でもこれはまだ『とんでもない』のほんの入り口だ。
これから迎える数ヶ月の間に君は恐らく、クラシック曲や作曲家、ピアニストを初めとするその他の楽器の音楽家の、今の時点の君ではおおよそ見当もつかない数の名前を知ることとなるだろう。
それはとても膨大だ。
しかも彼女がそれらを全て愛していると言う事実にも直面するだろう。
そうこうするうちにやがて、もしかすると君は、ピアノやそれにまつわることに彼女を盗られた気がしてしまうことがあるかも知れない。
でもそこで間違うことなかれ!
どんなに彼女が彼ら彼女らに夢中になってもヤキモチを焼く必要は微塵もない。
何故なら、君もその彼ら彼女らにとことん惚れ込むことができるからだ。
同じ沼に落ちてしまえば、そこからは君も晴れて彼女と同じ沼の住人だ。
沼は素晴らしいぞ…
ようこそピアノ沼へ!ようこそクラシック沼へ!

「ん?今なんか聞こえなかった?」
彼氏くんが眉をひそめて彼女にささやく。

まずい、聞こえたちゃった?

「調律でしょ?」
「ちょうりつ?」
「ほら、ピアノの音を整えてるのよ」
彼女がステージ上を指さす。
ぼーん、ぼーん、ぽろん、ぽろん。
そこには男性ががピアノを調律する姿があった。
「いや、そうじゃなくて…」
彼氏くんはまだ不思議そうな顔をしてはいたが言葉は継がなかった。

あー、危ない危ない。
熱が入りすぎた。

「さーて後半も楽しみだなぁ」
そう言った彼女は、彼氏の方をちらりと見ると小声で付け加えた。
「終わったらご飯食べに行こうね」
「そうだね!」

恐らく彼氏の頭の中は既にこの後の食事のことでいっぱいだろう。
でも予告しておく。
恐らく食事のテーブルでの話題もピアノが中心となるであろうと言うことを。

でも頑張れ彼氏!
今日はとことん付き合ってあげるが吉だ。
そうすれば君の未来はきっと明るい。(いろんな意味で)

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