ピアノ物語3-2

「今日までありがとうございました」
 そんな言葉と共に憧れの先輩とさよならしたのは先輩の高校の卒業式の日だった。
 中学2年生の時から密かに心のうちで思い続けて同じ高校まで追いかけた。
 思いも告げず、憧れの先輩の妹ポジションに約2年。なんてレトロな片思い。
 
 再会は、憧れの先輩が通う高校に在学生として初めて校舎に入った入学式の日にあっさりとできた。
 先輩は入学式の舞台上でピアノを弾いていた。
 私の大好きな、先輩のピアノ。
 記憶が巻き戻される。
 遡ること約1年前、あの日偶然通りかかった音楽室から漏れ聞こえて来たピアノの音に私は恋におちたのだ。
 大きな学校ではなかったので、少しリサーチすると学年と名前はすぐに分かった。
 一学年上の先輩は私より先に高校生になった。
 そして一年後、私は同じ高校に入学した。
 あの日から忘れることなかったあの音色…あの音色とこんなにすぐに再会できるなんて。
 それから数日して、先輩の伴奏で歌えると知って私は合唱部に入部した。
 ある日、部活終わりに今後の予定をシステム手帳に書き込んでいたら先輩に声をかけられた。
「その手帳、ちょっと見てもいい?あ、中じゃなくて外」
 私のシステム手帳には、何かの曲の楽譜がプリントされていた。
 左手に私の手帳を持ち、音符を目で追いながら右手を鍵盤に下ろす。
 平面に印刷された音符が立体になって私を包む。
 他の部員たちは気にも留めず帰り支度を進めている。
 私だけが先輩のピアノの聴衆。
「ごめん、なんの曲か気になっちゃって」
 手を止めてそう言うと、先輩は笑いながら曲名をぽそりと口にしてシステム手帳を私に返した。

 そのとき使っていたシステム手帳は、私がまだ小学生だった頃に知らない人にもらったものだった。
 知らない人に物をもらうだなんて、今思うととても軽率だったな、と思わなくもない。
 でもあの時の私はもらってしまった。
『大事にしてもらえたらいいかな。僕以外の誰かに』
そう言って声もなくただボロボロと泣き出してしまったその人の気持ちを受け取ってあげたいと子供心に思ってしまったのだ。
 捨ててしまうこともできた。
 でも誰にも見つからないように机の引き出しの奥にずっとしまっておいた。
 捨ててしまうのは、あの日の知らない人にもシステム手帳にもこれをもらうはずだった人にも申し訳ないような気がして。
 使おうと思ったのにも深い意味はない。
 合唱部員が楽譜柄のシステム手帳を持つってなんかぴったり。そんな軽い気持ちだった。
 プリントされている曲が存在する曲がどうか考えたこともなかった。あの時、先輩が音にして聴かせてくれるまでは。
 家に帰り、ネットで先輩が教えてくれた曲を検索するとあっさりと探し出すことができた。
 それらを順繰りに聴いていく。
 すると驚いたことに、同じ曲であるのに自分の中のくすぐられる部分が違うことに気づいた。
 先輩が弾くのを聴いたらもっと深く強い何かを感じるのだろうか。
 そうは思ったものの、弾いて聴かせてほしいとお願いできぬまま時は流れて行った。
 
 私は高校3年生になり、先輩のいない学校生活を送り始めた。
 その中で私は時々思い出す。先輩が名前を教えてくれたあの曲のように、物憂げな気持ちと楽しかった日々を、甘さと切なさの入り混じった気持ちで。
 そして、叶わなかった恋を悲しく思うより、懐かしい思い出として優しく守り続けようと思うのだった。

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