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ほんとうの幸いを知らぬまま

先日、友人が出演する朗読劇を観劇してきた。題材は宮沢賢治の著作から、「やまなし」「月夜のでんしんばしら」、そして「銀河鉄道の夜」だ。宮沢賢治の代表作でもある「銀河鉄道の夜」には、幸福についての作家の考えが随所に散りばめられている。

もし自分が他人の幸福の実現に関わることができるのであれば嬉しいものだ。相手のためよりも、むしろその嬉しさのために取った行動かもしれなくても 悪いことではない。しかし多くの場合、相手の本当の幸福が何なのか確信することは叶わない。たとえ相手から直接言葉で伝えられても、言葉や気持ちが当事者に対しても嘘をつくことがあるからだ。そんな不確かなものの実現に関われたとして、それは相手の幸福とならないかもしれないし、ひいては自分の喜びとならないかもしれない。仮に命を捧げるならば、本当の、本物の、相手の幸福に捧げたい、と思った。

「銀河鉄道の夜」ではジョバンニが「僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺんやいてもかまわない」と語る。美しい心もちとして後世に称賛される有名な台詞だ。つまり他人の幸いのためなら自己犠牲をも厭わないとも捉えられる言葉だが、「ほんとうにみんなの幸いのためなら」との前提により、それが何なのか不確かな間は、その不確かさのために行動を起こすこと(ここでいう、身を百ぺん焼くこと)は保留すると受け止めることもできる。

このような気持ちに嘘はなくとも、私だったら知ってしまったときに自分がそこに関与できないかもしれないことへの無力感に恐れを抱いたり、自分が多大な犠牲を払わないとその幸いに関与できないかもしれないと二の足を踏んだりするならば、相手の本当の幸いが何なのか知らぬままでいたいと少し思ってしまうかもしれない。それでもきっと、やはり勇気を出して本当のことを知りたい日が来る思う。

このジョバンニの台詞を、若い頃の私は純粋に感銘をもって受け止めた。しかし改めて聞いてみると、今この台詞に対して思うところもある。

父が帰らず、母は病弱で、学校にもカムパネルラ以外の友人はおらず、そのカムパネルラとも疎遠になり、ほぼ誰もジョバンニに手を差し伸べてくれる人がいない孤独とも言える中、自分の存在価値や生きる意味を他者の中に探そうとしている泣き顔の子どもが彼の内側にいるように思えてならない。

カムパネルラの汽車の旅に、母のことを思い出して最後まで付き合うことが叶わなかったジョバンニが、戻ってきた世界でまずは誰かからぎゅうっと強く抱きしめられてほしいと願う。(ジョバンニの母がその役割を担ってくれる気がしないのは私だけだろうか。)それから自分自身の本当の幸いが何かということを求め探してほしいと思う。自分の幸福を求めようとしない人が、全てを投げうって他人を幸福にしようとする姿を、もう私は純粋に美しい話だと思うことはできない。

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