The POWERFUL and the DAMNED
2005年から2020年まで、英国の高級経済紙であるフィナンシャルタイムズ(FT)の編集長を務めた、ライオネル・バーバーの日記的回顧録を読んだ。ページ数は600ページ弱で、かなりの大著であるが、寝る前とかにちょっとずつ読んで、ようやく読み終わった。
内容的には、筆者が編集長に就任してから退任するまでの日々が書かれている。と言っても全日書かれているわけでは無く、特に書くべきことがある日の記録が綴られている。邦題は「権力者と愚か者 FT編集長が見た激動の15年間」であり、特に世界の要人と会話をする機会については、自身の感想や考えも含め、要点が書かれている。
この人が編集長をやっている間には、リーマンショックを含め、色々なことが起きた。我々日本人にとっては東日本大震災が最も大きなものだったかと思うが、これに関しても当然言及がされている。ただ、英国の知識人である筆者が最大の衝撃を受けているのが分かるのは、英国のEU離脱、いわゆるブレグジットであった。
世界を駆け巡り、世界中の権力者へのインタビューを重ねてきた一流のコスモポリタンにとって、英国がEUを離脱すると言うことは「あり得ない愚行」だったようで、茫然自失とした筆致がやけに際立っていた。そもそもFT自体というか全体が、離脱には反対だったのだ。
英国のEU離脱は、私もかなりの意外感を持った。そのちょっと前、英国はスコットランドの分離独立を問うため、国民投票と言う選択を取ったのだが、この時の方が「スコットランドが離れるんじゃ無いか」と思っていた。因みにこの時、ちょうど中国に出張しており、当地で一緒に仕事をしていた英国人との話で、生まれて初めて、学校で習ったReferendumと言う単語を使った。習ったことはあるが、使わない単語なんてのはたくさんあるものの、Referendumを使わないと言う人生は、このときに終わった。以降、一度も使ってないけど。
だけど、結局スコットランドは英国に残る選択を選び、この件は何となくその場では落着した。似たように、結局今回の国民投票も、EU残留になるんじゃないかと思っていたのだが、僅差で離脱と言う選択を取る結果に。
私がテレビで見ていたのは、英国の一部の情景だったのかと思うが、EU離脱に投票した人が、「まさか本当に離脱になるとは思わなかった。再投票したい」などと言っているのを見るにつけ、これは英国民ですら驚天動地の結末だったんだと感じた。
FT編集長であるライオネル・バーバーも、スコットランド独立可否を問う国民投票の結果から、キャメロン政権もFTも、多分残留で決着だろうな、と思っていた節が随所に見られた(上述通り、私も思っていたが)。ただ、スコットランドの時とEUの時で、一つ違いがあるのが、本書を見ていて伺えた。スコットランドの独立を問う選挙の直前、女王が「スコットランドの人々が将来を慎重に考えてくれるように望む」と述べたのだ。これは国民の感情への完全なる介入であるが、バーバーは「これが功を奏したかも知れない」との意見を書いている。EU離脱を問う国民投票においては、王室の国民に対する介入は無かったと思う。王室の立ち位置がどちらだったのかは、よく分からない。
中国の台頭や、トランプ大統領の出現を筆頭とした、西側のポピュリズムの昂進に対する不安も書かれているが、バーバーが編集長時代に、FT自身も大きな転換点を迎えている。オーナーがピアソンから日本経済新聞に移ったのである。この点についても、かなり詳しく書かれている。
ピアソンは英国の教育出版社で、私も何冊かピアソンが出版した本を持っている。例えば米国規準に準拠した鉄骨構造の専門書とか、そういったものだ(人事の仕事に移ったので、もう開くことも無いのかと思うが…)。そのピアソンは、FTをドイツの新聞・出版大手に売却する方向で進んでいたように見えたが、最終的にFTを手にしたのは、多額の現金(8億4,400万ポンド)で競争に勝った日経だった。
私自身、このニュースは覚えているし、驚いた。FTはただの新聞社では無い。ブランド・実力ともに、明らかに日経以上だと思う。これもニュースで見たが、FTが「格下」の日本の新聞社に買われたことで、英国民が衝撃を受けているのが分かった。
ただ、日経に買収された後も、FTは日経傘下にいる感じを殆どさせない。これは日経がFTの独立性を完全に担保しているからであるが、それは本書を読むとよく分かる。私も日経の購読者なので知っているが、日経は毎日、FTやEconomistの記事の一つを、邦訳して掲載している。丸ごと転載と言うことになるが、日経は自らの成長のため、どうしてもFTが欲しかったんだと思う。友好的な提携では無く、傘下に収めて自由にやらせることで、日経はFTから多くのものを学び続けられるのでは。
海外での報道に入りたい、と言う日本の学生は、日経を就職先に選べば、FTへの派遣と言う道が開ける。バーバー自身から、日経で英語が出来る記者を派遣して欲しい、と言うのを、当時の喜多恒雄日経会長に申し入れている。多分、今もやっているだろうし、今後もやると思う。
ブレグジット是認を国民が投票で決した後の光景で、印象深いものがある。
「わたしがFTに出社した午前5時には、テレビ各局が離脱派の勝利を伝えていた。これは政治的な大激震だ。
真っ先にメイン・ニュース・デスクに向かうと、疲れ切ったエディターたちが茫然自失の状態だ。日経の同僚は驚き、戸惑っているように見える。
(中略)
副編集長のルーラ・カラフから、スタッフに向けて話をしてみてはどうかと提案される。それは良い考えだ。だが、不意打ちはなしの原則に則って、まず東京の喜多さんに話さなければならない。FTのオーナーである喜多さんは通訳を介して、驚愕の展開に対するわたしの解釈に耳を傾けた。そして早口で、方向性がはっきりするまで時間がかかるだろう、と言った。また日経側からは『新聞というもののに対する関心が高まっているのではないか』との指摘があった。言い換えれば、ブレグジットは危機には違いないが、チャンスでもある、ということだ。
名文句だが、たった今はそう思えない。今日、わたしがやるべきことは、スピーチでニュースルームの面々を鼓舞することだ。『これはわれわれが予想していた結果ではないし、欲しかった結果でもない』。わたしがスタッフに語りかけるのを、東京はスピーカーフォンを介して聞いていた。『だが、こうなったからには、自分たちの仕事をやるしかない。紙の新聞とウェブサイトの両方で最高の報道をしよう」
こんなことが、日英でやり取りされていたんだなと、印象深いものを感じた。仮に私が今、就職活動中の学生で、報道の世界に入りたいと思っていて、しかも海外の仕事に従事したいと思うなら、日経を受けると思う。入れるかどうかは別問題だ。
FTと日経、今後も上手くやって欲しいと思う。
因みに、FTは購読費用が高いので、購読に二の足を踏んでいたが、新年にデジタル版出血大サービス価格を打ち出したので、購読することにした。
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