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初めての、日本語の歌―ザ・スターリン


そうか。あれから今年で39年か
 何が?というと、私がザ・スターリンと出会ってからの年月である。昨年の夏、藪から棒に気付いたのである。39年。とてつもなく長い年月とも、須臾の間とも言える。1984年。16歳の夏。知っているバンドはビートルズにドアーズ、そしてちょうどこの年の夏休みに入ったころにピストルズを、ヤードバーズは『ファイヴ・ライヴ』だけを、クリームやツェッペリンはラジオで聴くだけで・・・・これくらいしかいなかった。そう、まだあのときはヴェルヴェット・アンダーグラウンドも、ストーンズも、イギー・ポップも、ジョニー・サンダースも、ザ・フーも、クラッシュも、キンクスも、アニマルズも、ダムドも、オンリーワンズも、マガジンも、ラモーンズも、ジム・キャロルも、ドクター・フィールグッドも、スミスも、そしてバズコックスもまるで知らなかったのだ。シーナ&ザ・ロケッツも、フールズも、フリクションも、ウィラードも、ジャックスも、てんで知らなかったのだ。おおよそロックとかパンクとかろくにわからぬ(今もだが)ガキだったのだ。そして、ザ・スターリン。「ザ」の付く時代のスターリン。このバンドに出会ったとき、すでにバンドはその活動の末期に入っていたのだけれど、そんなことも当然知ってはいなかったのだ。
 そう。私とザ・スターリンとの出会いは極めて遅い。今、出会いは16歳の夏と述べたけれども、バンドの名前はその1年余り前に知ったはいた。高校生向けの学習雑誌においてであった。雑誌の名前も出版社のそれも憶えていないけれども、話題のロック・バンドの新譜コーナーという欄があって、二丁拳銃を構えた忍者姿の男の画が掲げられていた。レコード(そう、CDではない)のタイトルは『虫』といった。
(へんてこりんな画だなあ。それに『虫』・・?)そのスリーヴ写真を見た第一印象であった。こんな言葉しか浮かんでこなかった。そしてそのまま、ザ・スターリンとの縁はいったん途切れた。何故か?高校生というものは、大体カネを持っていないものである。気になるレコード(今はCD、否、サブスクか?)があっても、おいそれと気楽に買える身分ではないことは昔も今も変わらないであろう。
 当時、私はロックとかパンクとかの情報からは隔絶された生活環境にいた。学校側はあほじゃないかと思えるほど退嬰的でかつ高圧的であった。勉強に関係ない雑誌などの持ち込みは厳禁。ロックコンサートなどもってのほかとされた(それがたとえ授業時間外であっても)。発覚した場合、即退学もしくは停学処分となった。時代は80年代前半。校内暴力をマスコミが連日大きく報道し、学校側もそれに呼応するかのように規則規則で生徒をがんじがらめにしそれを良しとする、そういう時代であったのである。音楽に関する情報を得ようと思ったら、特にパンク関係は『ドール』くらいしかなかった。しかしこの『ドール』。私の住む街の本屋には置いておらず、電車を乗り継いだ新宿の紀伊国屋辺りの本屋でしか手に入らなかった。否、行ったところで買うカネすらようよう持っていない、行き帰りの電車代であらかた所持金を使い果たすという、そんなありさまだった。SNS時代の今に生きる人たちに、この状況を伝えようと思ってもなかなかに難しい。要は、悲しくなるほど手に入らなかったのである。レコード(音源)も、そして情報も。さらに言えば、カネも。当然、高校の規則でバイトは厳禁であった。家からの小遣いなんて悪魔も落涙する額であった。
「どうせ、ろくでもないうるさいレコード買うんでしょ。だめよ」
母は、無慈悲にもそう私に言い放ち、ちっとも小遣いをアップしてくれなかった。そのくせ自分はしょっちゅうアクセサリーだの洋服だのを買っていたくせに。息子にはうまく隠していたとうぬぼれていたようだが、私はちゃんと知っていたのである。
 というわけで、ザ・スターリンのレコードは後回しになり、そのまま1年4か月ほどが経ってしまったのであった。
 その年の8月、おそらくもう終わり頃であったろう。当時高校では夏休み後半を夏季講習に参加する期間と位置付けていた。1学期の成績が振るわない者は補講という名目で。一方成績優秀な者は特講という名目で。どちらにしても全生徒が参加を強制され、1週間に1科目あたり2コマないし4コマほどの授業が行われた。当然生徒たちには不評であったのだが、逆らおうものなら退学・停学確実であったからしぶしぶ出席となるのであった。私は数学がてんでダメで、1年次から3年次まで、毎年確実にその補講を受けさせられた。いまだに私はあの、微分だか積分だかが理解できぬ。いったいどこの惑星の言語かと思えるほどである。もう一つ、2年次から毎年受けていたのが英語の特講で、たまたま2年次1学期の中間と期末試験で2回連続してクラスでトップの点数を取ってしまい、教師から「当然受けるよな」と脅され、受講することになってしまった。この英語の特講が、やはり苦痛でならなかった。なぜあのときクラスでトップの点数を、しかも2回連続して取ったのか、いまだに解せない。1年次の英語の成績はクラスでもどん尻であったのに(だから1年次の夏は英語の補講を受けさせられた)。
 さて、その夏の講習の時である。英語の授業であったか数学のそれであったかは憶えていないが、ともかく教室でザ・スターリンの話題になったのである。と言っても、音楽の話題ではなく、やれ『フォーカス』に載っただの、やれミチロウがすっぽんぽんになったの、と言ったことばかりであったように思う。何せわが高校で音楽の話題になるのは、聖子ちゃんとか明菜ちゃんとか、バンド系ならカシオペアやオフコース、洋楽ならデュラン・デュランとかカジャ・グー・グーとか、でなかったらアイアンメイデンやらグレイト・ホワイトのようなメタル~ハード・ロックか、パンクに近いところならポリスと言ったところ止まりであった。私なんぞ入っていける世界じゃなかったのだ。で、一人が『虫」を持っている、という話になったのである。その男は私にとって数少ない、気安く話せる相手であったのが幸いした。彼が言うには1年以上前、「『虫』が話題になっているから試しに買って聴いてみろ」と周囲にそそのかされ、レコードを買ったというのである。
「帯にはポスター付きってあったけど、そんなもんなかったぜ」と彼は口をとがらせた。
「でも、なに歌ってるんだか全然わかんねえんだよ。歌っていうか、単語を叫んでるっていうか」私の脳裏に、あの二丁拳銃の画がフラッシュバックした。
「テープ貸すから、ダビングしてくれないか。面白そうだ」そう、単に面白そうだという、それだけの気持ちであった。気に入らなかったら音はさっさと消して別のを録音すればいい。そんなノリであった。                       彼は約束通り、ダビングしたテープを私に渡してくれた。家に帰り、それをラジカセに入れ、再生ボタンを押してみた。1曲目はなかなかにかっこよい。ミッドテンポの、ポップな曲であった(その時は、単純にそう思った)
「へえ、いいじゃんか」その時は、まあこの程度の認識だった。一変するのは次の2曲目である。
「なにこれ」
 そう、この言葉でしかこの時の状況を言い表すことはできない。それ以外の表現を、この音楽、この歌は、認めようとしなかったのである。
のぞいてみたら/ナメクジ/触ってみたら/ブヨブヨ/雨でもないのに/脱脂綿/吸い取られたら/終わりだ/365/365/365/365日(「365」より)
 話はこの2曲目だけでは終わらない。3曲目はタイトルからして「泥棒」である。「ドロボー/ドロボー/ドロボー/ドロボーだー!」4曲目に到っては歌詞は3語しかない。「天ぷら/おまえだ/カラッポ」これだけである。いずれもメロディらしきものはまるでない。ヴォーカルは、ただ叫んでいるようにしか聞こえなかった。歌詞の内容も、まるで理解できなかった。何でナメクジなんだ?ドロボー?天ぷらが、なんで俺のことを指すの?しかもカラッポってなに?どこまでも?マークが脳内を巡るのである。曲は、そのほとんどは2分前後で終わる。ギターソロっぽいのも聞こえてこない。ただただ、すさまじい音と、声の洪水が、怒涛のように押し寄せ、耳と脳髄を引っ掻き回す。レコードの最後の曲は、再び味わいが変わる。いや、音と声(歌というべきか)の洪水であることに変わりはない。しかし、このラストの曲は、どこまでも重い。ドラムが単純なビート刻み、歪んだ音のギターが覆いかぶさり、ベースが貼りつく。そこに、あのヴォーカルが響いてくる。
気味の悪いヤツだな/胸をつかまないでくれ/おまえなんて知らない・・・・(「虫」より)
 小野島大氏が初めてディスチャージを聴いた時、それが自分の頭で受け入れる範疇を超えた音楽であったから、思わず笑ってしまった、という意味のことを述べておられたが(エクスプロイテッド『トゥループス・オブ・トュモロー』ライナー、インペリアル・レコード、1991年)、この時の私は、「虫」の歌詞ではないが、「笑うことさえ出来な」かった。呆然とするしかなかった。
 では、私は呆然としたままであったのか。否である。その日から私は毎日最低1回は、『虫』を聴くようになっていた。ダビングしたテープは擦り切れ、当然のように「あの」レコードを、今度は他の買いたいレコードをすっ飛ばして買いに行った。帯にはポスター付きの表記はなかったが、躊躇してはいられなかった。私の中の、音楽を聴くということ、歌を聴くということ、言葉というもの、これらを吟味すること。それらの意味・意義。こうしたことを『虫」は16歳の私に突き付けてきたのだ。ひとつの、「知覚の扉」がこじ開けられた瞬間だった。ザ・スターリンは、私が最初に対峙した、日本語の歌、だった。
 ちなみに、上に掲げた画像は2003年版CDの『虫』である。レコードはもうスクラッチ・ノイズまみれであったから、買い直したのである。
 その後も私はザ・スターリンを、解散後はミチロウのソロ作品を聴き続けたが、ミチロウのソロには、ザ・スターリン時代のような、ミチロウの言葉とバックの音とのせめぎ合い、というか、それら同士の緊密な関係性が失われて行っているような気がしてならなかった。ミチロウの言葉にも、バンド時代のような毒々しくもエロチックな、それでいてポップでもある、という感覚が薄まってきていると感じるようになっていった。89年にミチロウは「ザ」抜きでスターリンを再始動させたが、やはり「ザ」付の頃のような、あの音と声(歌)の洪水を味わうことはできなかった。やがて私は、ミチロウの活動をフォローしなくなった。それは学校を出て就職し、生活に追われて心身をすり減らしていく過程とどこか歩を一にしているようにも思えた。


 私は今、『trash』—正式タイトル表記はすべて英語の小文字にすべきなのであろう―の、2020年6月に再発されたCDを取り出している。最初の発売は1981年12月24日で、それから2020年までただの一度も再発されたことのないアルバムである・・ということはここでくだくだしく述べる必要はなかろう。ただ、『trash』は日本のロック史上おそらくは頭脳警察の1stと並んで、否もしかしたら頭脳警察以上に、最も需要に比して供給が不足していたアルバムと言ってもよいであろう。これほど再発が望まれていたのに、とうのミチロウがそれを許可せず、ようやく実現したのは彼の避けられぬ死のためであったというのは、どうしても苦い感情を私に抱かせる。私自身、16歳の時から恋焦がれてきたアルバムだったのであるから、正規に手に入ったのは無論うれしい。でもそこにはある種の割り切れなさが残るのだ。ここに収められた曲の数々は今なお強烈な磁場を持って私をとらえる。この磁場がある限り、私の中の割り切れない苦い感情もまた、付いて回る。おそらくは今後もずっと、そうなのであろう。
 『虫』をきっかけにザ・スターリンに夢中になった私は、バンドに関するありとあらゆるものを集めようと躍起になった。もちろんカネのない高校生、しかもバンドそのものが解散直前、メジャー・レーベル時代に出ていたレコードはおそらくはこの時期、もうプレスされなくなっていたのであろう、店頭から姿を消しつつあった。時期が悪かった。まさに「欲求不満だぜ」(「極楽トンボ」)な状態であったわけである。中でも、特上級の欲求不満の対象が、『trash』であった。
 先にも記したが、当時の私が手に入れることのできた情報は悲しいほど少なかった。『trash』のスリーヴ・デザインがどんなものなのかすら、16歳の私は見たことがなかった。タイトルだけが、その年の暮れにロッキングオンから公刊された『遠藤みちろう対談集』に繰り返し登場していたものだから、それだけで私は真っ赤に燃えて欲しがったのである。
 レコード店に行き、若い店員のお兄さんを捉まえて『trash』の取り寄せを、と頼むと、お兄さんからは「なんすかそれ」と逆に聞き返されたのであった。今から思えば、私も間抜けである。まずレコードには廃盤という事態が起こりうることを、全く意識していなかった。次にメジャーとインディの違いについて、これまた全く無知であった。レコードはどこの店でも手に入る、なかったら取り寄せればいい、としか考えていなかったのである。お兄さん自身が、インディとかパンクとかに疎い男であるようだった。と、そこへ、どうやらその店の店長と思しき白髪混じりのオッサンがやってきて教えてくれた。すなわち、『trash』は自主製作盤の上、すでに3年前に売り切れ御免状態であることを。
「あのレコードねえ。ずいぶん人気だね。廃盤専門店で見かけるけど、けっこうな値段が付いてるね。どうしても手に入れたいなら、そういう所に行くしかないだろうね」
 私はがっかりした。するとオッサンは淡々と、こう言った。
「ああ、そういえば、スターリンの新作出たよ。これも自主制作で」
 私は仰天し、ぜひ取り寄せをと頼んだ。値段もタイトルも、いやまだ在庫があるかどうかも判らないくせにそれらを確認することなく、しかももう手に入れた気満々だったのだから、おめでたいもいいところである。オッサンは苦笑いしながら
「まあ、お待ちなさい。問屋に聞いてみるから。自主盤はね、流通経路も枚数も限られているから、入手がちょっと面倒なところがあってね。それに、あのレコード、出たの先月だったから」
 オッサンは、カウンター奥にあった電話をかけ出した。どうやら取次の問屋とやりとりしているようである。ややあって、オッサンは私のいる場所に戻ってきた。
「運が良かったね。手に入るよ。問屋に残ってた最後のモノだったって。スターリンはネームバリューあるから、この手のレコードはすぐなくなってしまう」オッサンは、商品引き換えのチケットを書き、私にくれた。これが私の、最初にリアルタイムで手に入れたザ・スターリンのレコード『Fish Inn』だったのである。


 『trash』は結局手に入れられずじまいで、長きにわたって欲求不満を募らすことになった。たまにパンクとかインディズ関係のガイド本に『trash』が、スリーヴ写真付きで載っていたりすると、私は切歯扼腕したものである。だがやがて学校を出て、日々の生活の波風が私の感情の表面を次第次第に削り取り、ついにはレコード~CD1枚すら聴くことを煩わしくさせるだけの疲労という名の堆積が、私の心身の隅々に降り積もっていき、いつしか心の大きな部分はのっぺらぼうになってしまった。ごくまれに手に入れた休みを利用してCDを買うことはあっても、聴く気力が起きずにいわゆるツンドク現象に身をゆだねる格好になった。端的に言ってしまえば、学校を出てからの私は、労働という名の苦役に追われるだけの、味わいも何もないデクノボウに墜した。このままでいたら、私は「摘んで終わって」いたに違いない。しかし・・・・。
 西暦2000年の春、ひょんなことから卒業した学校の関係者とかかわりを持つことになり、以後2年間にわたってほぼ毎週1回、私は母校に馳せ参じることになった。この件は本稿の主題から外れるので記さないが、これがきっかけになり、私は1人の在校生と昵懇の間柄となった。その男の名を、ここではYとしておくが、Yは私とひと世代以上年齢が離れていたが、古今東西のロックやパンクに恐ろしく精通している男であった。いやロックやパンクばかりではない、ジャズにもめっぽう詳しかった。私の知らないバンドの名が彼の口からポンポン出てきて、目まいを起こすほどであった。例えば、こうである。
「先輩、Menaceってご存じっすか?」
「いや・・・・」
「これいいっすよ。ギターバリバリで。それにoiっぽいコーラスも聴けますから。スティッフ・リトル・フィンガーズとかシャム69が好きなら、気に入りますぜ。『GLC』って曲。まじでいいっす」
「へえ・・・・」
「バズコックス好きなんすよね。だったらマガジンも」
「レコード1枚あるよ。『モーターケイド』好きだね」
「俺は2枚目っすね。『セカンドハンド・デイライト』あれが一番ハワード・デヴォートのってたんじゃないすか。」
「・・・・」
 私は、せっかくの彼との、あの時の会話の数々を役立てなかったことを悔い、また恥じている。当時の私は音楽を聴く、その余裕すらなかった。いや、余裕を持とうとしなかったのだ。目の前のことに患ってばかりであったのだ。
 しかしある日、次のYの言葉に、私の心はさざ波を立てた。
「俺、『trash』持ってるんですよ」
 『trash』・・・・。16歳の時にその存在を知り、とうの昔に廃盤で、たまに新宿の廃盤専門店に行くと恭しくン万円の値段で飾ってあって、ため息を一反もつき、という行為を、私は瞬時に脳内でリピートしていた。
「・・・・でも、あれって、すごいプレミアがついてるだろう」
「ええ。オリジナルじゃあないすよ。ブートですけどね。けどけっこういい作りですぜ」
「音はどうなんだい?ブートってことは」
「まあ、そこは。けどまあまあ聴けますよ。」
 私の中で、久方ぶりに、本当に久方ぶりに、火がともった。
「聴きたいもんだね・・・・」
 彼は私の願いを快諾してくれ、のみならず家に招待までしてくれた。
 当日、彼は自分の車で向かいに来てくれ、私は面食らった。
「なあ、君はクルマもってるのかい?」
「ええ?珍しくないっしょ?先輩の時代だって、持ってる人いたっしょ?それにこれ、親父のおさがりですから、自慢できないっす」
「お、おさがり?つーことは、君んちは2台あるのかい」
「まあ、そうすね」けろっと返す彼に、私はあっぱれと思うしかなかった。
 彼の父親は輸入雑貨の商いをし、けっこう儲けていたようであった。
 その家には、話で聞いていた以上に、すさまじい数のレコードがあった。パンク関係に加え、ドアーズやジミヘン、コルトレーンやマイルスまであった。彼曰く、レコードの半分は父親が若いうちから買い集めていたものだとのことであった。
「これ、全部、60年代のヤツかい?」
「たぶん、そうすね。いや、このブルー・ノートの奴は・・」
 このレコードは全部売っぱらったらいくらになるのか。イジキタナイ性根を持つ私は、つらつらこんな思考をしてしまったのであった。
 さて、問題の『trash』である。スリーヴは、雑誌や本で見たのと同じであった。当たり前であるのだが、私は興奮し、裏も表も食い入るように見た。しかし、手で触ることはしなかった。できなかったと言えばよいか。万一傷をつけてはいけないという自制が働いていた。持参したカセットにダビングしてもらったが、音は確かにブート、というべきか。スクラッチ・ノイズが多かったが、音が聴ければありがたい。この時はそう思うしかなかった。
「やはり、ミチロウはこれ再発しないかね」
「まあ、ないでしょうね。ミチロウの方で頑なに拒否ってるって話ですから」
「出せば、売れるだろう」
「でしょうけどね。ザ・フーの『マイ・ジェネレーション』並に出るんじゃないすか」彼は当時、ディスクユニオンでバイトしていて、レコードの流通事情にも詳しかったのである。
 私はお礼に、ザ・スターリンの「アレルギー」のシングル盤をYにあげた。
「いいんすか?これけっこうプレミアついてますよ。俺ユニオンの従業員すけど、それでも手に入んないんす」
「いや、いいんだ。2枚持ってるから」
「なんで2枚も?」
「高校時代に、いや、大学時代か。レコ屋でまさぐってたら出てきたんだよ。定価で売ってて。そん時はもうすでに1枚持ってたけど、何か役に立つかなって思ってね。ほら、こういう風に、ちゃんと役に立ったろう」
 彼は、素直に受け取ってくれた。
 その後、私は何度となくそのテープを聴いた。今はCDで。学校を出てからろくすっぽ聴かなくなっていたミチロウの歌を。16歳の、あの時と同じ思いで聴けているか、と言われたら、否、と答えねばならぬであろう。それでも私はミチロウの歌を、ザ・スターリンの音を、苦みと共に聴くことができる。そんな自分の行為を、私は素直に受け入れることができるようになっている。
 あれから、長い時間がたった。
 高校時代、『虫』を持っていた彼。そして『trash』のブートを持っていたY。あの2人とも、ずいぶん会っていない。どこで何をしているのかも全くわからない。
 『虫』を持っていた彼は、今も持っているのであろうか。Yは『trash』の再発を、どう思っているのであろうか。2人に聞いてみたい気がする。
 彼らが、もし何故今もザ・スターリンを聴いてるんだと問うたら、こう答えるつもりである。
「たくさんある。でも一番の理由は、俺にとって、初めての日本語の歌だったから」