見出し画像

I’m alive

    度重なる下痢に、さすがの無頓着に構えていた私もへたり込んだ。これでは帰国の日までにデリーにたどり着けない。いやむしろこのままインドに暫くいてやろうかなどとすら考えた。日本に帰ったところで、ジェットコースターのように日々の中かけずり回り、緊張と屈従を強いられる日常に戻るだけである。いやそんなわがままはきかない。あくまでも期間限定の旅だ。クソだ!文字通りのクソだ!期間限定の、日本での足かせから自由になりたくてやって来たインドで、今度は下痢という足かせを食らうとは。ベッドの中で堂々めぐりの思考を繰り返し、私は滅入るばかりであった。
「ヘイ、洗濯は頼んでいるかい?」水分くらいは補給しないとと、へろへろしながら外の屋台でラッシーとチャーイを頼んだところで、例のイギリス人が語りかけてきた。
「洗濯・・・・って、ドービーですかい?」
「そう」
「いや」
「そうか。俺のいるドミトリーには毎日来るよ。君にいる所には来ないのかい」
「来ないですね」
「そうか。そうだろうな。いつも寝ているからな。そんなに具合悪いなら、洗濯は頼めばいい。1ルピーも払えば、喜んでやってくれるよ。俺も、たまに利用している。いつもではないさ。めんどくさくなった時にね。たいていは自分でやってる。毎回毎日では所持金がもたない可能性があるからね」そう言って御仁は呵々と笑った。
 インドではこれまで、洗濯は自分でやってきた。たかだか洗濯ごときでカネを使うなんてもったいないと、ドケチな性根をむき出しにしていた。加えて、インドにいる間は極力人に甘えないでいこうとも決めていた。きざなことを言わせてもらうなら、パンクのⅮIYの精神を実践したかったのだ。しかしこうもへろへろでは、確かに頼んだ方が楽だなと安易な方向に舵を切ってしまった。
「じゃあ、明日の朝、来たら君の部屋に行くように言っておく」
「何時に来るんです?」
「5時くらいかな」
 早いなと思ったが、考えてみたら洗濯して、夕方にはお客に届けるのだから、それくらい早い時間に御用聞きに行かねば間に合わないわけである。
「じゃあ、お宅様は、もうその時間には起きて?」
「インドは暑いからね。早いうちに活動しておかないともたないよ。午後にはまったりさ」御仁はそうやって昼間はずっと、テラスの椅子に座ってぼんやりしているのか。私もアウランガーバードではのろくさと行動していたつもりであったが、朝も夕も外に出て歩き回っていた。少しでもインドの空気に触れるには、そうしなければと思い込んでいた。そうか、御仁のような行動もありかと、いまさらのように気付いた。
「朝から、この椅子で?」
「ああ。ドミトリーの中にいては、寝ている人もいるだろ。そこは気を遣うさ」
「朝から、そうやって緑を眺めて?」良く飽きないもんだと感心していると、御仁は立ち上がって「ちょっと待ってな」と言い、ドミトリーの部屋に引っ込んだ。ややあって戻ってきたとき、手には分厚い本とノートがあった。
「これを読んでいるんだ」英語で書かれた本は、何が書いてあるんだか、当然わかりはしなかった。御仁は旅の間常に携行しているらしかった。
「これ、何の本ですか?」
 御仁は説明してくれたが、私のメモには本のタイトルも、著者も記していないのは迂闊であった。ただ、おそろしく深淵な哲学の本であるようであった。私はただ驚くだけしかできなかった。
「本国にいる時は集中して読めないんだ。たくさんのノイズ、たくさんの仕事。こういう時でしかゆっくり読めないんだ」御仁は読んだことを、ノートにメモしているという事である。
「読書と思索は朝のうちだけさ。昼前にはやめる。だらだらやっていてもアタマに入らないよ。だいいち暑いし。午後になったら本は手元に置いておかない」
「旅の間、ずっと毎日?」
「そうだね。たくさん読めないから。中身が難しいんでね」
 私の目の前にいる御仁は、私とはまるで別の世界にいる人であった。彼はインドには観光で来ているのでは当然ない。常人には及びもつかない思考を蔵してイギリスからやって来ている。いったいこの人は故郷ではどんな生活を送っているのであろうか。どんな仕事についているのであろうか。当時は下痢でそこまで頭が回らなかったから、そこまで突っ込んで聞こうとしなかった。御仁の方も私の素性を聞いてこなかった。今にしてみたら、互いの住所を教え合っておくべきであったかなと思う。
「ここはいいね」最初に会ったときにも言った科白を、又御仁はくりかえした。
「同じインドでも喧噪の只中にいると、こうしてゆっくり考えたりできない。こういう場所が一番だ。俺にはね」
 御仁のような生き方をしているのを思い出してみて、当時日本にいた私の家族は、大学に通っていた連中は、どう思っただろうかと考える。我が両親ならアタマがおかしいとせせら笑い、せっかくインドまで来て、何故風光明媚な所を巡らないのかと非難したに違いない。大学で学生たちを脅し上げているサークル連中なら、退嬰的だと罵ったであろう。机を並べている連中なら、ただ呆れて「変わってるなあ」と言ったであろう。Sは興味すら示さず、「俺にゃ興味ねえ」と一蹴したに違いない。K教授は何と言ったであろうか。旅する目的は、ありようは、人それぞれ違っていい。そんな旅の仕方ではだめだ、わざわざ自分の本を何を好き好んで持参するのか気が知れないとケチをつける権利は誰にもない。その人なりの旅があっていいのである。私は今、この御仁を思い出し、自己本位の行動をとってみせているひとつの見本を見せられたという気がしている。
 しかし、貴重な出会いであったとは今だからこそ言えるわけで、下痢に苛まれていた私には、そこまで思考を重ねる気はこの時起きなかった。ラッシーとチャーイだけで再びほぼ絶食であり、外出もできず、呆けたジジイ同然に横になっているばかりなのであった。
「宿の天井が、俺のインドかよ」
 私はひたすらしょげるのであった。
 翌日朝5時、日本から持参した目覚ましの音で起こされた私は、しんどい体を起こした。ほどなくしてドアをノックする音がする。開けるとダーニ君と年かさの変わらなさそうな少年が「モーニン」と点呼した。これから毎朝、ここに来るという。たまっていた汚れ物を渡し、せっかく来てもらったからと5ルピーを渡すと、にこにこ喜んで引き下がっていった。果たして、夕方には綺麗に畳まれた服が届けられた。それは見事な仕上がりであった。
 それから毎日、ドービーの子はピッタリ同じ時間に来た。シャツ1枚でも渡すと持っていく。夕方には綺麗に畳んで持ってくる。マックス・ウェーバーが描いたプロテスタントの勤勉廉直なたたずまいを連想させ、この子はプロテスタントではないかと軽薄に考えていた。
 カジュラホの日々は過ぎていったが、私の体調は思わしくなかった。やっと下痢が収まったと多少固形物を食べるとまた下痢となる。力がわかなくてベッドに横になる。そんなことがくりかえされた。そうこうしているうちに帰国の日が迫ってくる。私はさすがに焦り始めた。バナーラスでもアウランガーバードでも、下痢に行動を制限されて滞在期間のわりに、まともに街を散策できていなかった。そして今、カジュラホでも遺跡を1回観てきただけで、あとはこうして突っ伏しているだけだ。イギリスの御仁だって朝5時には起きて読書をし、午後も自分なりのやり方でインドの風物を味わっているのに、この私ときたら!不生産的そのものであった。
 宿の主人は、当初私に気を使ってくれたが、それを取っ掛かりにしてと言うべきか、しょっちゅう妙な彫刻だの画なんぞを持ってきた。
「この彫り物。象牙ですぜ。1本の象牙から作るです。エクセレントなフィールじゃありませんか」
「この香炉、置いておくと部屋の中はピュア―な空気に包まれます。グレイトです。お買いなさい」
 どう見ても、それらの物品は、私には価値あるものには見えないのであった。体調不良も相まって、私は素っ気なく断わり続けた。やがて主人は私にちょっかいを出さなくなった。
「君のとこにもきたか」イギリスの御仁は苦笑しながら言葉を継いだ。
「あの男はね、まあいい男だと思うよ。けど、油断がならんというか、ちょっとアコギだよ。人間美しい所ばかりじゃない。君の下痢が収まったら、また攻勢を仕掛けてくるかもね。気を付けることだよ」
 御仁のところには、主人は全く声をかけないのだという。
「俺はここではもう常連扱いで、俺のことはよくわかっているんだろうね。アタリはないってね。だからもう、ほったらかしさ」
 その日の午後。私のもとに突然、1通の手紙が届いた。予想もしていなかったことである。誰だ?我が両親なわけはない。S?ありえない。では?その筆跡は見覚えがあった。綺麗な筆致の英語。アシムル先生であった。
 カジュラホに着いたその日、私は先生一家との約束をまだ果たしていないことを気に病んでいた。手紙をくれ。そう言われていたのである。それがボンベイにアウランガ-バード、いずれの地でも下痢で倒れてそれどころではなかったのである。カジュラホが時期的にいっても最後の地である。あとはデリーに行って、そこから帰りの飛行機に乗るばかりである。カジュラホに着いたその日、既に腹の調子は思わしくなかったが、これ以上伸ばすのはまずいと、私は一筆したためた。内容は何も考えていなかった。つたない英語で、今はカジュラホにいる。ボンベイとアウランガ-バードを回った。どちらの地でも下痢に悩まされた、カジュラホではくだんの遺跡を見てからデリーに向かう、デリーではこの日の便で帰る・・・・以上をごく事務的にエアログラムに記してそそくさと郵便局に出したのである。アシムル家への義務はこれで全て終わったと思っていたところに、先生からの手紙である。いったい何であろうか。力の入らない体を無理やり起こしながら、(なんか、俺、やらかしたか?)とおびえながら、開巻した。
 そこには、君の体調には家族みんなが心配している、また下痢になっているのであろう、まだ帰国には間がある。再び我が家に来ることはできないか、見ず知らずの所にとどまっていても君の体は良くはならないだろう、カジュラホからなら、丸1日でバナーラスに着く距離だ、バナーラスで残りの日々を過ごせば少しは安らかであろう、と言う意味のことが書かれてあった。ちなみに、この手紙は辞書を引き引き読んでいたのはもちろんである。
 私はアタマがくらくらした。全く予想もしていなかった手紙、予想もしていなかったその内容。これが人の情けというものか。日本ではおおよそ味わったことのない感覚。私は熱いものを感じないわけにいかなかった。
 早速、私は返事をしたためた。そして、すぐ荷物をまとめた。イギリスの御仁に挨拶すると、
「そうか。君は良い教師を持ったよ。Take care man」と返された。
 バスの発着所からサトナーという駅行のバスに乗り込み、サトナーからバナーラス行の直行の列車。道中はケツの穴にトイレットペーパーを突っ込んでの移動になった。まさかの、二度目のバナーラス訪問。こうなったのも、私のヘタレゆえなのであった。