家族の前提、人の前提

家族って、安心できる?

そんな疑問形になるのは、家族が安心できない存在だから。


そんな人はどれくらいいるのだろう?

家族の話題に触れられたくない。

話したくない。

考えたくない。


そんな人でした。


実家が楽、なんてない。

メンタルをすり減らす場所。

それが、実家。


そんな人がどれくらいいるだろう?


親と合わない人は沢山いるだろう。

親が面倒だったり、煩わしいと思ったことがある人は多いはずだ。


それでも、実家の安心感と言うのは9割以上の人が持っているだろう。

だから、みんな簡単に家族の話題を振ってくる。

やめてくれ。

話したい人が話せばいい。

私は思い出したくもない。

話してくれる分はいくらでも聞くから、私には聞くな。


そんな人がどれくらいいるだろう?


私は、憎愛ってこういう状態だろうな、という気持ちになったことがある。

それは、憎みたいと愛したいのまさにハザマだった。


もし、家族が嫌いだったり、どうしても駄目な人に伝えたい。

それでいいよ。

自分はそれでいいし、その相手の家族も過去があって今がある。

まずは、そこを受け入れよう。

そういう性格だし、そういう態度だし、そういう口調だし、そういう体質で、そういう好みなのだ。

今までの集大成。

自分もそうだし、その家族もそう。


私には、憎んでいたという方が合うような時期があった。

両親に限ろう。

私の両親は、私とはどうにも合わない。

なぜ別れないのかと思うほどの横暴さもあった。

私は橋の下に捨てられてた血のつながらない子どもなのだと言われたい、血の繋がりはないと言ってくれ!とさえ思っていた。

30歳半ばまで、この血を全て抜いてしまいたいと思うほどの嫌悪があった。

憎愛は20代前半。

どうにもならない嫌悪感に、見方を変えてみることにした。

父は、7人兄弟の6人目。末っ子状態で、母親っ子だったようだ。

母は、結婚、出産を機にいったん主婦へ。

今でもちょこちょこと楽しそうに新幹線レディだった頃のことを話す。

なるほど、あの我儘度は、余裕が出来た母親に甘やかされたのかもしれない。

なるほど、あのネガティブワードは、社会から離れ、父にさげすまれ続けたからかもしれない。

少しずつ、今の状態になった理由がわかると、納得するのと、憎しみとが交錯した。


親も人だ。

そうなった経緯がある。

それで納得いくものではないが、なんて幼稚なんだろうと思うと、親として求めるものは消え去った。

両親共に、誰の助けも借りようとしなかったがために、狭い世界で幼稚なまま年を重ねてプライドの高い臆病ものだった。

それが私の結論。

親としてでなく、一人の男性、女性として捉えるようになった。

憎愛はやがて、親愛へと変わった。

親だから愛する。


親にこうしておけば良かった、ああしておけば良かった、と思う人が多いらしい。

ならば、あの親の子どもとして、その存在を尊重しよう。

父とも母とも見ないから、父の日も母の日もどうでも良かった。

だけど、二人の存在を認める誕生日は大切にしよう。

そう決めて、毎年アクションした。

父が余命を告げられた時も、望みを聞いたが何もなかった。

そして死を迎えても、後悔は何もなかった。


ようは、自分が後悔しない関りが出来るかどうか。


家族を愛しているからこそ、大事にする。

それは、当たり前であり、実は大事に出来ているか考えるべきところではある。

当たり前を当たり前に出来ているとは限らないから。


家族を愛せないからこそ、大事にする。

それは、自分が後悔しないため、経験的に言うなら、自分が被害を被らないために必要なこと。

おそらく、プラスでない関係の方がトラブルが生じやすいだろう。

ならば、大事に関わる必要がある。

愛せなくても良い。

ただ、その人の存在を尊重する。


親も、一人の人であると知る。


でも、その上でも、どうしようもない人もいる。

訳がわからない。

なぜそんなに人を攻撃し続けられるのか。

メンタル破壊されて、その後何度会っても変わらないその人に、家族だからこそ関り続けなければならない苦痛。

仕方がない、家族だから。

滅茶苦茶嫌だけど、家族だから。

だから、せめてメンタルをこれ以上破壊されないようにするにはどうしたら良いか考えよう。

目一杯の防御をしていこう。


人は簡単には変わらない。

だからこそ、家族は良いモノだという人が多いのだろう。

人は簡単には変わらない、自分の意思がなければ。

自分の意思があれば、一瞬で変わる人もいる。

が、家族が家族に、人を変えるほどの影響を与えるのは中々に難しい。

他人よりも家族だからこそ。

気づかないから。

気づいたら、可能性はあるけれど。

だけど、家族だからこそ、気づかない、わからない、伝わらない。

家族は簡単には変わらない。


家族も人である。

そして、少しだけ背景も考えて、人として尊重しよう。

そしてその上で、それでもどうしても駄目なら距離を置こう。

メンタルが壊れるくらいなら、距離は必須だ。

本当なら一生会いたくなかったけれど、家族だからどうしようもない、耐えよう。


自分だって一人の人。

家族だって一人の人。


前提は、みんな違う一人の人。

血が繋がっているから、親だから、それは認知しよう。

血が繋がっているのだからすべての言動を受け入れろ、というのは到底無理な話だ。


親だってバックボーンがあって、今がある、一人の人。

両親は元は他人。

一人の人として尊重して関わること。

これだけでも十分だと、私は思う。


嫌い、嫌も書き出してみると良いかもしれない。

そんなに出て来なかったりして拍子抜けするかもしれない。

書きだしたらスッキリするというのは良くある話だ。

家族だからこそ、少し考える必要がある。

メンタル負荷になっているなら、絶対に、落としどころを見つけるためにも、ただの人として一度冷静に、自分の心の中にいるその家族と向き合ってみることをオススメする。


経験談、どこが嫌で、どうしてその家族がそうなったのかが見えれば、受け止めることも出来るようになる。

ただ、どうしてそうなったのかが見えなければ、かなり恐ろしいから、自分なりにどうしたいかも考えよう。


まず、一人の人として見ること。

そうすると、バックボーンが見えて冷静に見えてくる。

人を人として尊重することが出来るようになる。

親ではなく、人として見れるようになる。


人はみな、完璧ではない。

親も然り。


少し、真剣に考えてほしい。


この人は、どうしてそんな(自分が不愉快になるような)言動なのか?


それがわかると、途端に見方が変わる。


ぜひ、試してみてほしいものだと、つくづく思っている。


親も人。子も人。

すべての家族に浸透して欲しい。

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