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「背高泡立草」古川真人 【感想】そこに埋もれているものは何か

今回は、第162回芥川賞を受賞した古川真人さんの「背高泡立草」について、感想というか、個人的な解釈を書いてみる。

 物語は主人公たち(吉川家)が生きる現代と、吉川の二つの家にまつわる過去の出来事に分かれており、一章ごとに交互に展開される。過去の出来事は現代の登場人物たちの会話をトリガーにして始まるが、現代と直接的に繋がることはなく、各章ごとに独立した物語として語られる。その時代はバラバラであり、現代の登場人物が生きていないことがほとんどである。

 おそらく、この物語における過去の出来事は、人間による回想ではなく、人以外のものの記憶、また、それにまつわる誰かの記憶であると思われる。
 2章「雄飛熱」では、吉川の<古か家>の記憶。そこに昔住んでいたある家族の物語。
 4章「芋粥」では、戦後、<古か家>に住んでいた家族が、難破した船の乗客たちを救助した時の物語。
 6章「無口な帰郷者」では、納屋に置かれている誰も使わなくなった網の記憶。刃刺の青年の物語。
 8章「カゴシマヘノコ」では、親戚が経営していた「内山酒店」に置かれたカヌーの記憶。カヌーで島に来た少年の物語。

 この家族にとって草を刈ることは家族が集まるための口実であり、それ自体に特に意味はない。しかし、彼らが住む家や納屋、そこに置かれている網、そして草が生茂る島の土には様々な出来事をはらんだ長い時間が流れている。現代を生きる彼らはそれに気づくことはないが、どこかでそれを知っている。主人公である奈美は「草を刈る」確かな理由を得ることはないが、自身が草を刈る未来を想像することによって、「草を刈りにいく」理由は見つけられたのかもしれない。
 
 過去の出来事が人以外のものの記憶であるならば、現代の登場人物たちを描いた章もまた、何かの記憶であるのだろう。それは納屋の記憶か、それとも背高泡立草の記憶か……。

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