見出し画像

居場所と距離感(テンション)

「人との心地よい距離感ってどこにあるのか?」

「その心地よさが担保されているから、友達や家族という集合体が維持されているのか?」

そんな問いが僕の中には永続的に存在し、心の波の中で消えかけては勃興してくる。

生まれた時から家族という組織の中のピースとして家族関係の維持存続に努めるわけではあるが、数多の人は家族関係は深めていくものだと説いてくる。

僕の中では実はこれがしっくりこない。

家族は他の人よりも信頼関係を築きやすいかのように錯覚しているからに起因している可能性がある。
僕は常々家族でさえもお互いに独立した個々人の集団だと思っている。今後この家族としての組織の維持のためには結びつきを過度に深めることがかえって仇になる線も否定できないとすら思っている。

家族であろうとも別にそんなに必要十分条件のように毎日同じ居場所に帰ることを紐づけられることはないと思うし、そんな関係の中で居場所を無理に作らなくてもいいと思う。

つまり、家族の中でも一定の距離感、物理的距離、独立感が必要だと思う。

すごくドライで、どうしてそんな思考に辿り着くのか?信じられないと思う人もいるとは思う。

家族も友達みたいな感覚でいいと思う。
期待や愛とかフワッとした、さも万能かのような抽象的な支配が安易に存在するしそれが家族を繋ぎ止める解決方法とかであるように...

干渉しない努力も必要だと。ふと思うんだよ。
『幼少期に受けた祖母や祖父の愛情』とかを。

毎日切に密に関係を築いてきたわけはない、年に数回会う程度なのになんであんなに大きなものを思い出を心に残していくのかな?ってさ。

世代が一つ超えたことで不思議に心地よい距離感が創出されていることに今不思議になる。勿論、祖母や祖父や家族という関係に他ならないのに。

他人と結婚し夫婦という関係と、自分の遺伝子を相続した子孫としての子供という関係、自分の育ての親である両親という関係。
何が自分にとって大きく作用し、相手に作用を与えるのかは実は再考し再定義して見つめ直すことが大切なのかもしれない。

様々なステージ間に生かされて関係を維持していく努力義務が無意識のうちに発生しているから。

※厚労省のデータより引用させていただく。

画像1
画像2

現代では、婚姻数が減っているとはいえ、約40年で離婚率が倍増している。
様々な誘因分子や変数は考えられようが、根本にあるような問題は生活の齟齬や価値観の違いのような不思議なもの。

凄く身内的な話になるが、僕の両親はお見合いで結婚している。

ガキの頃から夫婦喧嘩がひどく、幼心にしていつ離婚してもおかしくないと思っていた。
それでも、まぁ...なんやかんや今日まで夫婦関係を維持し、家族という組織を営んでいる。それに今は凄く彼ら同士の関係も穏やかで良好に感じられる。

そんな家族関係は他者からは仮面のようなドライで糸で今にも切れそうなテンションの結びつきのように思われるかもしれない。
でもね、僕は言いたい。
"友達との離婚"ってないでしょ?家族を友達のように尊重し適切な距離を物理的に精神的に保つことは心の温厚さを担保し、依存をすることを引き離してくれる。

凄く私見にはなってしまうが、昨今の若者の婚活や結婚に際しての減少や破綻は、"出会いがお見合い、結婚が恋愛"のようなシチュエーションにもあるのかな?本来ならば結婚とかって、お互いが健やかなる時も病める時も、助け合うこと。でも、どこかで自分を楽にしてくれる、ないしは、減点方式的に無害な人を選り好むことになってない?

人との結びつきや関係を過度に煮詰めることが現代社会において実はバグの要素で、その関係を深めていく友達関係の努力すらサボってきたのに、急に恋愛ではそれを他者に強要するって色々それは破綻するよね...って苦笑いしてしまう。

良い人付き合いをしている人の特徴を個人的に思うと、"相手に逃げる場所を与えてあげられる人"
常に対話して追い込み過ぎて完全にKOすると開き直ったり逃げてしまう事が増える。
反省や内省する余地や言い返せる余地を作ってあげる余裕が本当に大切な感覚というか修行。

大学の卒業の時に母に...

"私が母親で後悔したことない?"

って真っ直ぐ問われた。(そんな話初めてしたな...と内心驚いたが。)

"いや、特にない。"

僕の答えも端的だね。良くないね。笑

でも、これは本心なんだ。

もっと皆が考える愛情のような期待のようなものがあれば、僕も明るいおおっぴろげな人間になれていたか?と真面目に考えてみても、きっと不可能だし。
もっと大金持ちの家に生まれていたら幸せか?と考えてもNoだと強く思う。

そもそも幸せや不幸や運の要素を他人と比較して、自分や相手を蔑むことになんの意義があろうか?個人の抱えられる幸福や不幸は定量がある。そんな抱え切れない過不足に辟易とすることは難儀すぎる。

生きていくためには人と関わり色々な関係を維持していく必要がある。そこにはテクニック的なものはなくて、実は適切な押し引き。物理的・精神的距離感が大切なんだと思う。
母との関係から思うのは、他者を見て自分はどうすべきか常に考えなさいという。思考の停止の放棄の指導のような学びを得た。

その違いを言葉や行動で示すために対話やコミュニケーションが必要だと思っている。尊重だね。

少し余談ではあるが、大学の頃に講義でアメリカ人のネイティヴの先生と日本人の僕らが"国際人とは何か?"という題でディスカッションしたことがあったが、他の人は"英語が話せる"ことや"国際的なリーダーになる指針と知識"と言っていたが、僕は少し違うと思っていて"相手の文化的背景を尊重し適切な距離感で人付き合いできる人"だと思っている。

手段の目的化にいつからかなっている。
別に英語を話せなくて素晴らしい考え方を持った人がいるし。そんな自分の思いや考え方を表現するツールが英語ってだけなのにね。

話を戻すと、結婚とか家族って実は維持していくその先の時間の方が長いのに、どこかで初めの頃と同じ熱量で定量・定積的に推移して維持される魔法があってと期待してないかい?
やっぱりそんな甘いものなんかじゃなくて、時間のかかる煩わしいかもしれないけれど、対話の中でお互いに適切な距離感を保つことで獲得していく居場所のようなものだと思うんだ。

家族だから当たり前とか思わない。

僕はこんな思考、思想だから母には母の日にカーネーションを送って、その時に感謝の気持ちを伝えることくらいしかできない。照れ臭いし、少し関係の維持をサボってきたから。

だから、友達付き合いも上手くなんかない。

日々、旅するように生きて、停泊や定住を避けるように暮らして...出会った人々(今後一生会うことはないかもしれない)との刹那的かもしれない一期一会に実は別れを覚悟して接している。

そんな出会う人々の記憶にとって、僕の存在は忘却の彼方でいいと思ってる。また、たまたまどこかで重なったときには出会った頃のような気持ちで、真摯にいたい。

僕は自分で自分を分析すると、"自分は感情的弱い人間"。
だから人との関係の維持に過度に肩入れすると壊れてしまう。

何かに自分の思いを乗せすぎて上手く行った試しがない。

期待するほど上手くいかなくて、期待しないほど上手くいく

そんな達観にも似たカッコつけの戯言をツラツラと長く書いてしまった...

ダサいね。笑

人付き合いは漫才のように、ボケてツッコんでの繰り返しくらいが上手くいく。
求めすぎるのも与えなさすぎるのもダメさ。
この"アソビ"が余裕を生む。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?