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「指揮される側」の切なさ——『ヘブンバーンズレッド』4章DAY0が突きつけるこのゲームのリアル(ネタバレあり)

ヘブンバーンズレッド』(ヘブバン)4章をついにプレイ開始したんだけど、冒頭DAY0の時点でもう何か書かずにいられなくなってしまったので書かせてほしい。

当然、4章DAY0までのネタバレを含むので、未プレイの方はそっ閉じしてください。またDAY0までしかやってないので、DAY1以降を読んだら全部ひっくり返る可能性がある諸刃の剣なんだけど、そこはご了承を。DAY0読んだだけの状態で書くってどう考えても頭おかしいのだけど。そして、たぶん公式はこんなこと全然考えてないし、あくまでこれは幻覚多めの個人の妄想であるということは十分に理解したうえで読んでほしい。

情報量の洪水と転回する世界

そもそも2章、3章とハードな内容が続き、ようやくじっくり向き合える心の余裕と生活の余裕を確保して、満を持して臨んだ4章。DAY0から物語は急加速する。おい! なんだこの情報量! 蔵っちのことを考えている暇もなく次々と明かされる事実に頭がついていけない。

ここ、本能的に恐怖を感じた。ちなみにこれを逆再生すると

覚醒したつかさっちから、そして手塚司令官から直々に伝えられる「ヒト・ナービィ計画」のおぞましさ。3章の時点で、死んだ人間の記憶をナービィに植え付けて戦わせてるのかなあという予感はあったけど、こうもはっきり明言されると、茅森と一緒に自分もうろたえてしまう。

あっ……茅森の曲のセンスがひたすら90年代のB'zとミスチルと小室ファミリーなのってそういう…

ただ、この世界が転回する感覚、自分は好きだ。優れたSFやミステリにあるこの感じ。頭クラクラしながら必死でテキストを読み続けた。

だってゲームだからね——娯楽として享受されるセラフ部隊

衝撃を受けたのが、セラフ部隊はシェルターに逃げた上層部に監視され、さらに戦闘が映像として配信されて「娯楽」として享受されているという現実だ(正確には、監視しているのはシェルター内の上層部で、娯楽として楽しんでいるのはドーム内の民衆だけど)。

監視され、娯楽として消費されているヒト・ナービィ

娯楽。そう、これは娯楽だ。

安全圏から一方的に命令をくだしてセラフ部隊を戦わせ、それを娯楽として楽しむ存在。

それって。つまり。

プレイヤーのことだ

空調の効いた部屋で寝転がりながら、気ままに彼女達を戦場に駆り立て、そのスキルカットインのかっこよさに見惚れているこの自分のことだ。

めぐみん……そのとおりだ……

そう、ショーでも観るような感覚で楽しんでいたのは確かだ。否定できない。

なぜあんな理不尽がまかり通るのか。

こっちはプレイヤーで、あっちはゲームのキャラクターだからだ。

「上層部」から一方的に命令が来るだけで、連絡することができないのは、そこに「第四の壁」があるから。ゲームってそういう構造だから。

キャラクターからプレイヤーに連絡することはできない

ヒト・ナービィの外見が変わることなくコピーした姿を維持し続けるのは、ゲームのキャラクターってそういうものだから。

セラフ隊員達は自らの境遇に大きな疑問を抱かずに、初日からセラフを使いこなしている。ナービィの兼ね備えた習性のためとされているけど、これこそまさにゲームのご都合主義に対するひとつの答えでもある。

「ヒト・ナービィだからね…」と「ゲームのキャラだからね…」が同義

永遠に老いず、都合よくスキルを習得し、プレイヤーの仰せのままに何度でも戦い、使い捨てられる悲しい生き物。ヒト・ナービィとして存在するということは、ゲームのキャラであるということとほぼ同義なのかもしれない。

プレイヤー世界との一方的なインタフェース

プレイヤーや現実世界を暗喩しているのは、上層部や基地の外の民衆だけではない。セラフやキャンサーを生み出す高次元(外宇宙)もまた、プレイヤーのいる現実世界ではないかという説がある。自分の好きな解釈だけど、これもまた4章DAY0で補強された気がする。

手塚司令官がワームホールを呼ぶ時に発した「外宇宙言語」。茅森達にはもちろん、司令官自身にとっても理解できない「呪文」のようなことば。そして司令官は、電子軍人手帳は「セラフィムコードを外宇宙言語に翻訳する機械」ではないかという。

司令官本人も理解していない便利機能

外宇宙がプレイヤーのいる現実世界の比喩だとすれば、プレイヤーの使う言語やアプリ上での操作は、下位世界の存在にとっては不可知だ。どこからともなく武器を現出させるとか、ナービィを戦場から基地に送るとか、ゲームを都合よく進めるためのただの便利機能だし、そもそもターン制コマンドバトルゲームである本作にとってコマンドとは文字通り「じゅもん」だ。

司令官がどのようにその「呪文」を習得したのかはわからない。しかし外宇宙言語を操れるということは、ゲーム内チートに近いことをやっているんじゃないかという気もする。

そして電子軍人手帳が翻訳装置であるという推測は、UI的にも作品設定的にも「プレイヤー世界とのインタフェース」ではないかという仮説とよく呼応する。電子軍人手帳については以前の記事でも書いたけど、プレイヤーがまさに茅森と一体化したかのような没入感の高い操作性は、まさに「現実」と「ゲーム世界」の間をつなぐ翻訳機という印象が強い。

Nal さんの記事にあった、KETSU とセラフィムコードに関する考察などは非常に核心をついているのではないかと思う。

「ナービィがワームホールを通じて一方的にやってくる」という設定もまた、現実世界がゲーム世界に及ぼす理不尽さを象徴しているように思える。あくまで一方的にキャラクターの素体が与えられ、不可抗力によって「作られたこの指」と「脚」を持つヒト・ナービィ達の存在は、本人にとってはあまりに不条理だ。

ワームホールも一方通行

「指揮される側」が持つ切なさ——ヘブバンの主人公が異色である意義

ヘブバンのシナリオについて、麻枝准さんは「指揮官を主人公にして書き始めたが筆が走らなかったので女の子のほうを主人公にしてみた」という趣旨の話を以前からおっしゃっていた。また先日同じ内容の話が、App Storeでのインタビューにも掲載されていた。

「数々のゲームにおいて、プレイヤー=主人公であり、感情移入の妨げとなるために姿が描かれないことが多いんです。『ヘブバン』でもプロローグを、たくさんの兵士を指揮する無個性な指揮官を主人公として書き始めたのですが、まったく筆が走りませんでした。そこで、いっそ指揮される側のキャラクターを主人公に据えてみたらどうだろう?と思いついて、ようやく筆が走り始めました。それが、入隊式の茅森です」
切なさの力を 信じて:App Store ストーリー

この話、以前に記事を書いた時は物語への介入という観点から大英断だと思っていたのだけど、今回の4章DAY0でようやく、その真価がわかった気がする。

これは「指揮される側」を真っ正面から描いた物語なのではないか。

指揮官ではない一兵卒としてのゲームキャラクター。一方的に生み出され、プレイヤーによって消費され、そしていつしか忘れ去られていく……そんな「ただのゲームのキャラクター」という悲しい存在をヒト・ナービィに仮託して語ろうとする試みなのではないか。

これまで僕らはプロデューサーやトレーナーやマネージャーや提督や先生や、あるいはそれに類するさまざまなタイプの指揮官になって、数多のキャラクターを自由気ままにとっかえひっかえしてきた。もちろん主人公が一兵卒だったり、プレイアブルキャラクターを主人公として定義できるようなゲームもたくさんある。でも特にガチャシステムを中心とするソシャゲはその性格上、「無個性な指揮官」が主人公となる作品が多いのは確かだ(そもそも本作の麻枝さんへの当初のオファーは「キャラクターがたくさん登場して戦う作品を作ってほしい」だったという)。

しかし、ヘブバンはただの一人のセラフ隊員の視点で語られる物語だ。娯楽のためにただ利用されるだけの存在が一人称で語る物語だ。軍隊だから指揮系統はあるけど、その指揮官である手塚でさえ、プレイヤーのエゴに従って彼女達を戦いに赴かせるただのヒト・ナービィなのだ。

プレイヤーのエゴによって生み出されし存在

ヒト・ナービィという設定は、「指揮される側」としての切なさを際立たせる。彼女達は一方的に生み出され、戦わされて、娯楽として享受される。それが楽しい戦闘やスポーツのようなものであれば、あるいは希望の持てるシナリオであれば、彼女達も思い悩むことはなかったかもしれない。でも本作品が描くのはあまりに過酷な運命であり、絶望的な未来だ。

なぜこれほどまでにつらい境遇を彼女達は背負わなければいけないのだろうか。

それはプレイヤーが、そして作り手が、本質的にその物語を望んでいるから、という残酷な事実がある。プレイヤーのエゴ、そして作り手のエゴが、キャラクターたちの運命を翻弄する。それは、本作品に限らず創作物では避けられないことだ。

これは勝手にキャラクターに命を与え無慈悲な運命を背負わせる「作り手」のエゴでもあるのかもしれない

しかし、少なくともこの作品の作り手は決してサディスティックにキャラクターを痛めつけるだけの存在ではない。底抜けに楽しいボケツッコミの応酬、「交流」やお風呂でのささやかな楽しみ、そして過酷な運命のただ中でも仲間たちとともに少しでも前へ進もうとする茅森達のキャラクター性。エゴによってゲームのキャラクターが本質的に背負わされる切なさをヒト・ナービィという設定によって自虐的に描きつつも、それでもキャラクターたちに幸あれと願う作り手の良心は確かに感じられる。

そしてプレイヤーもまた心の奥底では、ヒト・ナービィたちの幸せを願い続けているのだと思う。感情移入するってそういうことだ。利用され使い捨てられる存在としてこの世界を生きるなかで生まれるいろいろな感情……それをプレイヤーに疑似体験させて「極上の切なさ」を心に残すことこそが、茅森があえて主人公として設定された意義なんだと思う。

それでも僕らは茅森たちに願いを託す

民衆がセラフ部隊の戦闘映像を娯楽として楽しんでいることに憤るめぐみんに対し、司令官は「民衆にとっては希望であり、本気で応援している」と語る。

これはプレイヤーにとってのもう一面の揺るぎない真実でもある。

そう、好き勝手にキャラを駒として動かす一方で、僕らは本気で茅森達に願いを託している

プレイヤーは茅森達を本気で応援している。それだけは確かだ

ぬくぬくとした環境で勝手に彼女達を戦わせて楽しんでいるだけの存在だし、キャラクターからどれほど恨まれても文句は言えないことはわかっている。そもそも自分は熱心なプレイヤーではまったくないし。

それでも、茅森達によって僕らは時には勇気づけられ、時には大笑いして日々の疲れを癒し、時には時間を忘れてバトルに没頭して、本当に生きる糧を与えてもらっているのは間違いない。だから彼女達の奮闘は決して報われない努力ではないのだ、といいたい。

そして、やはり茅森達には自分なりの「戦う答え」を見つけ出してほしい。プレイヤーが戦うことを望んだからではなく、絶望のなかでもヒト・ナービィとして生きる意味を見つけてほしい。そして散逸するキラキラした思い出をかき集めて、いつか到来するであろう長い冬の旅路を乗り越えてほしい。

願わくば手塚司令官にも幸あれかし

それが、身勝手な一人のプレイヤーがそれでも茅森達に託す願いだ。

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