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【Album Review】무키무키만만수(Mukimukimanmansu), 《2012》 (2012)

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Artist : 무키무키만만수(Mukimukimanmansu)
Album : 2012
Release : 2012.05.01
Label : BEATBALL MUSIC
Genre : Freak Folk

※この記事はNAVERブログで書いたレビュー記事を翻訳・修正したものです。

破格的なアマチュアリズム。真面目か冗談かわからない奇天烈なコンセプト。意味不明な歌詞、突然のシャウトなど、これはどういう音楽なのか、いや、音楽ではあるのか、という論争の中、「ムキ」と「マンス」でできた二人組のバンド、ムキムキマンマンスの悪名は高かった(※コンセプト上、韓国伝統打楽器のジャングを自分たちで改造し名付けた「グジャングジャン」も一人のメンバーとして扱ったので、三人組。というかリーダーだったらしい…)。2012年に一枚のアルバムを出して消えた彼女らだが、そのインパクトはすごかったらしく、インディーズファンたちに今でもよく語られる。(※それが今でも語られる重要な要因の一つは、メンバーのマンスことイ・ミンフィ(이민휘)のソロアルバム《빌린 입(Borrowed Tongue)》(2016)がまた名作であったことだろう。)

そして、なぜか最近、その彼女らが当時行ったテレビライブの映像が(上に貼ったのを中心に)人気を得始めている。彼女らの悪名はインディーズファンたちにはよく知られているものだが、この流行で知った人も多いらしく、ミームの生産が行われ出しているところである。まあ、その音楽はミーム生産にすごくふさわしい、キッチな意味での『未来的な音楽』なのは間違いない。これは今でもリプ欄で「面白い」vs「こんなのが音楽か」と争う光景を見るのだが、当時の評論の場でもそれは論争の対象になったという。自分は当時のことをよく知らないが、どうせ人類には早すぎる音楽だし、自分なりの想像をくわえてみてもいいだろう、と思ってこれを書いている。

自分も最初、収録曲の〈안드로메다(Andromeda)〉や〈나는 빠리의 택시 운전사(I'm a Taxi Driver in Paris)〉などの曲を聴いた時、すごく混乱に陥ったことがある。しかし、自分がこの音楽を接した時期にはもうメンバーのマンス(イ・ミンフィ)のソロアルバム《빌린 입(Borrowed Tongue)》(2016)のように真面目な(?)音楽も出ていたし、ムキムキマンマンスのことをただの冗談呼ばわりするにはすでに色んな批評的脈絡が形成されていた。とある小説で「音楽の理論は『間違う』ために学ぶんだ」というセリフを読んだのを思い出してみる。僕はもう《빌린 입(Borrowed Tongue)》形式の音楽を知っている状態で本作《2012》を聴いたので、本作で行われた「間違う方法」はそこまで混乱ではなかった。

すでに本作の非典型性に対する論議は十分行われている(※それらの論議が日本語ではあまり紹介されてないと思うし、この記事でその様子を紹介できないのは残念と感じる)。それで自分は非典型性が与える衝撃の効果よりも、自分なりの勝手な解釈をしてみようと思う。結論から言うと、自分は本作を貫通するメッセージが、エゴを支配しようとする権威に向かっての嘲笑と抵抗のジェスチャーだと思っている。

例えば、〈7번 유형(Type 7)〉を見ると、アナグラムテストの結果に怒っている曲で、「そのことで悩んでますね?」という相談者の問いに「違う違う違う違う違うってば!」と叫ぶ場面は鳥肌が立つ。直後に「私の問題は、私を愛せないこと!」と言うラインもやはり本作の感情を貫通する重要な歌詞だろう。狭く見ると〈머리크기(Head Size)〉と〈투쟁과 다이어트(Struggle and Diet)〉のような、実際に「自分を愛せない」感情から出てくる曲とも繋げられるし、広く見ると本作の底に撒かれている『敗北主義的な情緒』を代弁できるだろう。話者自身のことを間違って判断する相手に怒る〈7번 유형(Type 7)〉の後に続くトラック、〈2008년 석관동(Seokgwan-Dong, 2008)〉では逆に「私は私が見たいあなたの姿を見た。それが決してあなたでないと知りもせず」と、話者が相手のことを間違って判断したと告白する。この急な対比は、人格に対する浅い判断を警告するメッセージと読めるのかもしれない。

人格に対する単なる誤解を超えて、本格的に操られることを警告する〈남산타워(Namsan Tower)〉も、ただの陰謀論冗談として見るには釈然としない。僕らを「見つめている」し、「操っている」と歌われているその感覚を単なる被害妄想扱いするのは難しい。まず学問的にそのイメージがベンサムが提唱してフーコーが再解釈した『パノプティコン』理論と似ているし、当時の政権が実際に芸術家たちの「ブラックリスト」を作っていたことも、その暗鬱な雰囲気の背景となるだろう。「滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ崩れる!」と叫ぶ酷烈な拒否反応、そして続く〈나는 빠리의 택시 운전사(I'm a Taxi Driver in Paris)〉と〈방화범(The Pyromaniac)〉まで聴くと、個人に被された国家の正体性を拒否し、嘲笑っているとも読める。(特に、〈방화범(The Pyromaniac)〉のEBSスペース共感ライブ映像では、放火で焼失した「崇礼門」というトーテムにかかった国家の正体性を徹底的にあざ笑い、衝撃的に破壊するパフォーマンスを経験できる。)

彼女らにかけられる「音楽形式の破壊」と言う評は、実を見ると破壊というより、意味の解体、狂気の発現と見てもいいと思う。もちろん〈안드로메다(Andromeda)〉での意味の解体と狂気の発現が同時に起こることでそれが破壊的な方向に向かうというのは否定できない。が、そのトラックだけ抜いて見ると、本作の代表曲であると同時に、意外と異質的でもある。全体的にギターと独自のパカッション(「グジャングジャン」)だけでできたアルバムで、唯一ブラスセッションが登場して「混乱」する瞬間を直接演奏で表すところを見ると。とにかく、だいたい我らが「破壊」と認識する部分は、主に声を上げて叫ぶところと、パンク的な過激性で現る狂気の発現する瞬間であって(だから「虫、虫、虫、虫!」とか、「滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ崩れる」とか、「母さん!父さん!」とか…)、また意味を探しにくい冗談に近い実験的な瞬間(例えば、そこら辺で落ちてた本の一句をただ叫びながら読み上げるという〈나는 빠리의 택시 운전사(I'm a Taxi Driver in Paris)〉とか)などから、本作のことを「意味不明」「未来的」と感じるようだ。しかし、それらの瞬間を支えるための演奏は基本的に丈夫だし、さっき言及したように、後からの接近ではあるが、《빌린 입(Borrowed Tongue)》と似ている香味すら〈식물원(Botanical Garden)〉のようなトラックで感じ取れる。(〈식물원(Botanical Garden)〉はマンスの作曲で、ムキのそういう静かな情趣を感れるトラックは〈너의 선물(Your Present)〉になるだろう。そして、この二曲が並んでいるところも、本作が無計算で作られていないという反証だろう。)

とにかく、本作は全体的に音楽にまつわった、だけでなくその向こうの社会につるんだ既成の認識の問題を告発し、解体しようとするところに重点を置いている。微視的には〈머리크기(Head Size)〉と〈투쟁과 다이어트(Struggle and Diet)〉で自分の身体に付与された意味に苦しんだり、カバー曲〈내가 고백을 하면 깜짝 놀랄거야(If I Confess, Be Totally Surprised)〉で「愛とはこういうものか」と、恋愛にまつわる過度な意味付与を嘲笑する形式で。巨視的には〈남산타워(Namsan Tower)〉でソウルの領域を超えてまで監視し操るイメージを表したり、〈방화범(The Pyromaniac)〉で「崇礼門」を崩してその内と外の境界をなくすような形式で。

〈투쟁과 다이어트(Struggle and Diet)〉が最後のトラックに位置したのも考えてみるところがある。「ダイエット」にまつわった、美しい体に対する社会の過度な意味付与を問題視する試しで、話者はそこから脱皮できず「なんで私がこんなことを」と言いながらそこに縛られている。腹いっぱい食っている「あいつ等」と、取り残されて運動ばかり頑張らなきゃいけない「私」の対比は、フェミニズム的視線でも読解できるだろう。本作の最後に至って「どうやって生きるべきだ?」と投げる質問は、まるで本作全体を通じて投げつけた実験が、最初からある種の「完成」を想定したものではなく、規制の開智に対する疑問と反発から出た試しで、それこそが限界と告白するようでもある。それでも「生きねば」と終わるところから、本作が投げた疑問が真面目に次々と再挑戦されるべきだと、代案的な生き道を開くべきだと、聴者に求めているような感じもする。

こういうキッチな音楽を探そうとすると、きっといっぱい出てくるはずだ。(RateYourMusicで本作を分類した「Freak Folk」というジャンルを検索してみると、60年代から連なる数多くのアルバムリストが現れる。)しかし、その中でも本作が目に入る理由は、2000年代後半から韓国音楽界に吹き始めた、Kiha & The Faces、Broccoli, you too?、The Black Skirtなどが人気を得だしたインディーバンドリバイバル、その基底に撒かれた敗北主義的な感覚を本作も共有し、そこに含まれた感情を非凡な形で極大化したからではないだろうか。そしてまたもしかすると、女性アーティストとしての彼女らの音楽、言語、人格に関する偏見から回避するための『視線引き』の試しとして読めるのではないか。とにかく本作は音楽そのものにしても、外の談論にしても、日常として内在するが認識の外側に合ったものを再発見させる影響力を今でももたらしている。おそらく、3012年くらいまでも。


おすすめ度:★★★★


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